YS−11

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<写真> 大阪伊丹空港 東亜国内航空YS-11  旧種子島空港 平成18年(2006)3月16日閉鎖
YS-11は純国産旅客機としては最初で最後の機体である 昭和39年(1964)8月から生産を開始し
その年の9月には東京オリンピックの聖火を全日空機として国内各地へと空輸し 機体も「オリンピア号」と呼ばれ
運行停止にいたるまで全日空では時刻表に その頭文字の[O]を搭乗機ナンバーとして使用することが多かった
昭和48年(1973)3月の生産終了まで182機が生産され全世界に輸出された
私が初めて搭乗したのは種子島への出張の時である 昭和48年(1973)種子島宇宙センター
大崎総合司令棟工事の図面打ち合わせ為 大阪空港を飛び立ち鹿児島へと向かった
鹿児島空港から乗り換えの便が YS-11だった 何と小さい飛行機なんだ思ったが
搭乗前のチェックインでさらに驚いた 一人ひとり体重計に乗って体重チェックその後に座席指定
左右前後のバランスでも取るのだろうか 重量オーバーで搭乗拒否もありそうな雰囲気で「びっくり」した
鹿児島から種子島までは船便もあるのだが やはりビジネス客は飛行機を利用するので結構満員であった
ロケットの打上げ間近になると総ての便が満席となり 島への渡航も大変らしい
種子島空港は地方管理の第三種空港で 新空港が開港する平成18年(2006)3月16日まで供用していた
ターミナルも平屋のこじんまりとしたもので 離着陸誘導設備はなく雲が低くたれ込める日は着陸が不可能であった
  
漸く工事現場の仕事が終り飛行機便に間に合うように空港へと急いだが あいにくの天候で頭上には
「YS」の轟音が聞こえるというのに無情にも 着陸不許可となり鹿児島へと引き返してしまった
そうなると帰りを急ぐ乗客はタクシー乗り場へと先を争い脱兎のごとく走る フェリーに乗船するために
西之表(にしのおもて)港へと急ぐのである フェリーに乗船し舳先の向こうに開聞岳(薩摩富士)が見えたとき
やっと大阪へ帰れると イヤに感動したことが思い出される