2009.12.04 日田街道 大野城市雑餉隈−太宰府市関屋

博多と二日市宿の間に位置する雑餉隈(ざっしょのくま)は「間の宿」として賑わい今日の繁栄にいたる
唐津街道の博多石堂川口と福岡城薬院口よりの道が雑餉隈宿で合流する
石堂川口から8.8km 薬院口から9.2kmである
『筑前国続風土記』 雑餉隈の項
「御笠森の西にあり。宰府へゆく大路に町あり。此町両郡二村にかかれり。東側は御笠郡山田村に属す。
西側は那珂郡井相田村に属せり。此所宰府参詣の人の足を休むる所にて、
酒食を品々あきなふ*肆(いちくら)ある故、雑餉隈と名付けるにや。又むかし太宰府官人の
雑掌居たりし所なるか、いぶかし。町の北はしに西へゆく道あり。是より春日原を通りて、
城下薬院口に行、其道近し(中道という)。」とある <*肆:古語 市で商品を並べた所の意>
江戸時代までは街道を挟んで 那珂郡井相田村と御笠郡山田村に属する地域で分かれていたが
地名である雑餉隈の由来が その昔大宰府へ向かう人々の酒食を商う店が多かったこと
また大宰府の所務雑掌(ざっしょう)の扱所があったことなどをあげるが 定かではないという
町の北端から西へ 福岡城下の薬院口へ行く「中道」という近道があったと記されている
雑餉隈から関屋まで歩く
img
福岡県道112号福岡日田線(旧国道3号線) 山田交差点
福岡城薬院口道(左側フェンス手前の細道)と博多道(広い直進道)の分岐
imgimg
裏通りの観音堂と本尊の木造聖観音立像 福岡県指定有形文化財 昭和45年5月2日指定
高さ約60cmの檜の寄木造り観音像で 頭には透かし彫りの冠をつけ 左手には蕾の蓮華を持っている
眉間と眼には 水晶がはめ込まれていて 顔だちが平面的で 顔の輪郭や目元口元の優
しく穏やかな丸みのある線は 典型的な室町時代の様式を表している
両肩に衣をかけた観音像は 県内では類例が無くたいへん珍しいものである 観音像の胎内には
「大仏所発心武蔵[花押]応永21年8月□日うまのとし」の墨書があり 応永21年(1414)の作と考えられる
古くがら雑餉隈の人々の信仰があつく 毎年7月17日には六月堂とよばれる祭りが行われている
平成8年3月29日 大野城市教育委員会
この観音堂は 元は街道筋にあったとされる
img
雑餉隈恵比須神社
祭神:事代主神(ことしろぬしのかみ=恵比須) 火産霊神(ほむすびのかみ=愛宕神) 創建年は不明
雑餉隈地区は中世以降は博多宿と二日市宿のちょうど中間に位置し 間(あい)の宿として
旅龍や茶店や日用雑貨の商店が軒を並べて繁栄していた宿場町であった そのため商売繁盛の神と
火除の神であり疫病の侵入を防ぐ塞神でもある愛宕神を宿場の鎮護の神として勧請した
img
大野城市錦町1丁目2-11 郡境界石標
郡境界標は那珂郡と御笠郡の境界に立てられた石柱で 平成9年1月までこの場所に立てられていた
保存のため実物は 大野城市役所内の歴史資料展示室に展示されている
img
大野城市役所内の歴史資料展示室 郡境界標 市指定有形民俗文化財 指定年月日 1994年3月18日
建立は 江戸時代の文化14年(1817)で 道路に面した東面に「従是西那珂郡東御笠郡」
西面に「文化丁丑歳四月」南面に「筒井村抱(かかえ)」北面に「井相田村抱(かかえ)」と彫られている
材質は粗い結晶質を含む花崗岩で 高さ118cm 幅29cm 奥行き26.5cm
img
秦病院前の三叉路 旧日田街道は左・御笠郡筒井村へ
この後 日田街道は三笠郡の村々を通り那珂郡に入ることはない
img
運河を埋めて出来た新川歩道公園
img
筑前国続風土記附録より 新川図
新川は 黒田藩が年貢米を運ぶために上座郡(現朝倉郡)から福岡城下まで 開削計画された運河である
寛文4年(1664)に開削を始めたが 難工事のため中止された
後の寛延2年(1749)に 二日市町から博多川端まで区間を短縮して 寛延4年(1751)に竣工させた
浅舟(あさゆきふね)50艘を浮かべて運航を開始したが 水量が乏しく十数年で廃止された
図中 井相田村 山田村 恵比須村 那珂郡筒井村 九郎天神の地名が見られる
img
西鉄春日原停留所と春日原公園への道路開設記念碑 大正13年5月大野村
大野村は 明治22年(1889)筒井・山田・中・乙金・瓦田・白木原・仲島・畑詰・牛頸
上大利・下大利の11村と那珂郡井相田村字雑餉隈が合併して出来た
img08img09
御笠郡筒井村の地名なった筒井の井戸
この井戸について江戸時代の儒学者・貝原益軒が著した「筑前国続風土記」筒井村の項で
「雑餉隈より南に近き村也。村中に筒井とて清水あり。木の筒を似て井韓(いげた)とす。
此故に村の名をも筒井と云也。其水極て清冽にして、大旱といえども涸ず。
常に筒の上に湧上る。只冬至の夜ばかり水出ずと云。」と記されている
村の中に筒井という清水がある 木の筒を井戸の枠にしている それで村の名も筒井という
その水はとても清冽で 大旱魃の時でも涸れないで  いつも筒の上に湧き上がっている
ただ冬至の夜だけは なぜか水が出ないとされ 江戸時代にはまだ木の筒の井戸だったことがわかる
昭和46年(1971)に発掘調査が行われ この時に現在の井筒の横に四角形の木枠が見つかっている
この木枠が江戸時代の井筒だったのがもしれない 現在の井筒は 花園岩を抜いた直径115cmのもので
高さ約80cmの井筒が二段に積まれている
img
左・筒井五丁目(旧御笠郡筒井村) 右・瓦田五丁目(旧御笠郡瓦田村)
img
瓦田橋附近の牛頸川 旧瓦田橋架設地 瓦田浄水場内に架橋記念碑がある
imgimg
「瓦田橋」「明治14年11月」「谷彦一架立」と刻む 残念ながらフェンスの中であとの一面は見えない
img
瓦田三丁目 大正期の大野村消防組第二部格納庫(元は白木原村の所有)
大野城市消防団第二分団の前身である「大野村消防組第二部」は 明治時代に発足した
当初消防格納庫は「太宰府往還」に面して木造で建てられていたが その後大正末期になって新しく
白木原五丁目に赤棟瓦造りで建築された 大野城市に現存する数少ない近代建築であり
市民から永く保存を望まれていたことから 街路整備に伴い現地へ解体移転されることになった
imgimg
瓦田三丁目
白木原(しらきばる)(旧白木原村)
imgimg
白木原 路地
東大利(旧白木原村)
img
御笠川 下大利橋 江戸時代は河原が広く流れは狭かった
img18
下大利
imgimg
太宰府市水城2丁目 国道3号バイパス下
太宰府市水城3丁目
img
水城の博多側
天智天皇3年(664)白村江での大敗後 唐・新羅軍の脅威に対し太宰府防御のために築かれた巨大な防塁
東は大野城のある四王寺山と 西側の牛頸台地に挟まれた狭隘部を塞ぐ形で造成され
全長 約1.2km 高さ9m 基底部幅 約80m 上部幅約25mの二段式土塁で 東西端部にそれぞれ門がある
土塁の基底部を貫く木樋は 長さ79.5m 内幅1.2m 内高0.8mある
土塁博多側には 現水田面より5m下に 幅約60m 深さ約4mの外濠が掘られている
imgimg
太宰府市国分2丁目(旧御笠郡国分村)
衣掛天神社 旧小字名は衣掛
img
衣掛天神社 拝殿
『筑前国続風土記』に「国分村の境内、水城町の南なる田の中にあり。菅公宰府に赴きたまはんとて、
此所にて衣服を改め、其なれきぬを脱て、掛させたまひし石とて今にあり。
故に其側に小き社を作りて、衣掛天神と号す。」と記されている
imgimg
薬師堂
県道112号線 国分寺交差点
img
太宰府市国分1丁目(旧御笠郡国分村) 旧小字名は石橋
img
太宰府市坂本1丁目(旧御笠郡坂本村) 赤煉瓦塀の家
img
苅萱関跡
筑前国続風土記に「通古賀村の境内、宰府往還の道の西の側に、其址有。」とあるが旧坂本村である
室町時代 苅萱関で通行料を徴収していたことを示す文書があり また この関を通った連歌師宗祗は
「かるかやの関にかかる程に関守立ち出でて 我が行く末をあやしげに見るもおそろし」と書き残している
imgimg
旧坂本村小字名関屋の庚申堂
恵比須と猿田彦
img
関屋追分の太宰府天満宮一の鳥居と常夜灯 日田街道は右(南)へ
img
「さいふ道」道標 道程標 関屋橋架橋碑
「関屋橋」「明治7年5月架」「明治20年4月再架」「谷彦算」と刻む
 TOP