関屋追分を日田往還は南へと分かれ 通古賀から二日市へ入っていく
二日市は古代より1月に2日「市」が開かれたとされる通商の拠点で 江戸時代にはすでに「市」はなく
日田
街道の宿場町として近世まで繁栄し 温泉のわき出る湯町もひかえ大いに賑わった
二日市温泉の歴史は 古くは次田温泉(すいたのゆ)と呼ばれ 『万葉集』巻第六に大伴旅人に
「湯の原に 鳴く葦鶴は 吾がごとく 妹に恋ふれや 時わかず鳴く」と歌われているほどの古湯である
律令時代には三笠郡として 大野・次田・御笠・長丘の四郷が定められていた
江戸時代 黒田藩は二日市を日田街道の宿場と決め 藩主の休憩所・御茶屋を置き湯町には御前湯を設けた
貝原益軒の著書『筑前国続風土記』には
「温泉四所にあり 癬瘡をよくいやす功ありとて 遠近より来り浴する者多し」と記されている
現在は南福岡地区の中心的存在である 街道は針摺から東では国道バイパスとショッピングモールに変わり
そのルートは不明である 小鳥持からは一転して田舎の風情を見せる 天山との境界に宝満川があり
旧街道は船による渡し場があったのではないかと思われる
2009.12.04/15 日田街道 太宰府市関屋−筑紫野市宝満川堤
2009.12.04 関屋から二日市迎田橋まで歩く
関屋橋を渡ると街道は通古賀村に入り 御笠川の左岸を行くのだが 護岸工事などで一部が喪失
迂回して国道3号バイパス下の旧街道に出る 大字名は通古賀と呼ばれる区域だが
東蓮寺・北ノ橋・扇屋敷などの旧小字名の標柱が目につく地域
迂回して国道3号バイパス下の旧街道に出る 大字名は通古賀と呼ばれる区域だが
東蓮寺・北ノ橋・扇屋敷などの旧小字名の標柱が目につく地域
旧通古賀村 旧小字名は東蓮寺から北ノ橋へ
旧小字扇屋敷 玉城神社
神社境内に「田中橋」記念碑がある 「明治38年4月」 「陶山巍架之」と刻む
神社境内に「田中橋」記念碑がある 「明治38年4月」 「陶山巍架之」と刻む
榎社
菅原道真が延喜元年(901)に大宰府に左遷されてから延喜3年(903)に逝去するまで居住した跡
治安3年(1023)大宰大弐(だざいのだいに)として赴任した藤原惟憲が
道真の霊を弔うために浄妙院を 建立したのが始まりで 境内に榎の大樹があったのでいつしか
榎寺(えのきでら)と呼ばれるようになり 明治の神仏分離令で神社となった
菅原道真が延喜元年(901)に大宰府に左遷されてから延喜3年(903)に逝去するまで居住した跡
治安3年(1023)大宰大弐(だざいのだいに)として赴任した藤原惟憲が
道真の霊を弔うために浄妙院を 建立したのが始まりで 境内に榎の大樹があったのでいつしか
榎寺(えのきでら)と呼ばれるようになり 明治の神仏分離令で神社となった
榎社境内
太宰府市通古賀5丁目
筑紫野市二日市中央6丁目
街道の迎田橋 大正12年3月架橋 左へ行くと橋口橋
迎田橋北詰の庚申塚
田代橋・迎田橋・橋口橋 架橋記念碑
2009.12.15 二日市から針摺まで歩く
迎田橋を渡り二日市中町(二日市中央)本町通り
正行寺門前 寺域旧地番 二日市九の廿番地
中町の恵比須神社
創業明治10年 ゑびす醤油
福岡県で一番古い延宝元年(1673)創業の大賀酒造 黒田藩から名字帯刀を許された庄屋
ゑびす醤油・大賀酒造のある「枡形道」
迎田橋・橋口橋と同時期に架橋された田代橋
街道は中央通り商店街へ
二日市八幡宮 古社 創建年不明
社殿は 福岡藩二代目藩主・黒田忠之が建立寄進した 宇佐八幡宮を勧請し祀る
八幡宮への分岐を東へ折れる
街道は東へ 鉄塔はNTT西日本二日市ビル
左は紫2丁目(旧御笠郡紫村) 右は二日市中央1丁目(旧御笠郡二日市村)
筑紫野市二日市南2丁目 街道の右側に「六地蔵」がある
古い文献二日市宿庄屋覚書によれば その昔六地蔵の御尊体は木像であったが
天正年間の岩屋城の合戦で兵火のため堂宇と共に焼失 その後元禄10年(1697)に石像が安置された
昭和55年10月の六地蔵境内拡張整備工事中に 元禄年間の尊像が土中より発掘され
御堂の南側に安置し祀った 本堂の六地蔵像は明和3年と文政10年に建立されたものである
古い文献二日市宿庄屋覚書によれば その昔六地蔵の御尊体は木像であったが
天正年間の岩屋城の合戦で兵火のため堂宇と共に焼失 その後元禄10年(1697)に石像が安置された
昭和55年10月の六地蔵境内拡張整備工事中に 元禄年間の尊像が土中より発掘され
御堂の南側に安置し祀った 本堂の六地蔵像は明和3年と文政10年に建立されたものである
街道は二日市東小学校の校庭に消える
学校裏から再び街道
紫7丁目 猿田彦大神(道祖神)
松尾宮境内の恵比須像
松尾宮
筑紫野市石崎2丁目(旧御笠郡石崎村) 石崎の町並み
針摺中央1丁目(旧御笠郡針摺村)
針摺中央1丁目5-20 針摺石案内石柱
地名の由来となった針摺石(はりすりいし)
この針摺石には次のような伝説があり、地名の由来になっています。
その昔、太宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されていた菅公(菅原道真)が、
天拝山頂で身の潔白を訴えられた帰り、この地をお通りになりました。
そして、老人が斧を石に当てて一心に摺っているところを目にされました。
「何にするのだ」と問うと、老人は「針にするのです」と答えたそうです。
その言葉に菅公はつよく心をうたれ 何事も不断の努力がなければ成就しないものだと、
再び天拝山に引き返し、天に向かって訴えを続けられたと伝えられています。
「筑前国続風土記」(1703年)によると
この石は、もとは山のふもとにありましたが、近年、この場所に移されたとあります。
筑紫野市
同じ話が近江の国(滋賀県)中山道にもある
米原・番場宿から彦根・鳥居本宿へ行く途中に磨針峠(すりはりとうげ)がある 峠からみる琵琶湖の風景は
中山道一の絶景といわれ安藤広重「 木曾街道六十九次 」の鳥居本宿には 磨針峠の茶屋が描かれている
今 峠には鳥居が建ち小さな祠と湧き水もあり 又の名を「鳥居峠」ともいわれる
磨針峠という名は その昔諸国を歩き修行していた若き僧が 疲れ挫折しそうになってこの峠を通りかかり
石で斧を摺っている老婆を見かけ「その斧をどうするのだ」と問うと 老婆は「針にいたします」と答えた
「老婆の苦難苦行に比ぶれば 己が未熟者」と思い知った若き僧は心を入れ替え修行に励み高僧となった
「 若き僧は修行中の空海で のちの弘法大師である 」という言い伝えが残っている
この針摺石には次のような伝説があり、地名の由来になっています。
その昔、太宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷されていた菅公(菅原道真)が、
天拝山頂で身の潔白を訴えられた帰り、この地をお通りになりました。
そして、老人が斧を石に当てて一心に摺っているところを目にされました。
「何にするのだ」と問うと、老人は「針にするのです」と答えたそうです。
その言葉に菅公はつよく心をうたれ 何事も不断の努力がなければ成就しないものだと、
再び天拝山に引き返し、天に向かって訴えを続けられたと伝えられています。
「筑前国続風土記」(1703年)によると
この石は、もとは山のふもとにありましたが、近年、この場所に移されたとあります。
筑紫野市
同じ話が近江の国(滋賀県)中山道にもある
米原・番場宿から彦根・鳥居本宿へ行く途中に磨針峠(すりはりとうげ)がある 峠からみる琵琶湖の風景は
中山道一の絶景といわれ安藤広重「 木曾街道六十九次 」の鳥居本宿には 磨針峠の茶屋が描かれている
今 峠には鳥居が建ち小さな祠と湧き水もあり 又の名を「鳥居峠」ともいわれる
磨針峠という名は その昔諸国を歩き修行していた若き僧が 疲れ挫折しそうになってこの峠を通りかかり
石で斧を摺っている老婆を見かけ「その斧をどうするのだ」と問うと 老婆は「針にいたします」と答えた
「老婆の苦難苦行に比ぶれば 己が未熟者」と思い知った若き僧は心を入れ替え修行に励み高僧となった
「 若き僧は修行中の空海で のちの弘法大師である 」という言い伝えが残っている
昭和23年の米軍による空撮写真
1.六地蔵 2.現・二日市東小学校 3.松尾宮 4.西鉄朝倉街道駅 5.現・ゆめタウン 6.針摺峠 7.宝満川堤
1.六地蔵 2.現・二日市東小学校 3.松尾宮 4.西鉄朝倉街道駅 5.現・ゆめタウン 6.針摺峠 7.宝満川堤
針摺中央二丁目
国道とゆめタウンで街道は消失
寄り道 筑紫野市12番地 地禄神社 祭神は埴安命・高木神(高御産巣日神)
2009.11.12 針摺から宝満川まで車で移動
2009.11.12 針摺から宝満川まで車で移動
針摺東5丁目 針摺峠は標高50m程あり標高差約15mの坂道であった
小鳥持(旧御笠郡牛島村)左斜めへ
醤油醸造工場を通り抜ける
宝満川右岸堤から対岸の筑紫野市大字天山(あまやま)旧御笠郡天山村
旧街道に橋はない 対岸に街道の続きが見える
旧街道に橋はない 対岸に街道の続きが見える