小石原川を渡り甘木宿へと入る 甘木は近代都市へと脱皮を計るが一歩裏通りを往けば
小字ごとに道祖神があり社も多く存在する 古い面影を色濃く残す建物もまだ存在し宿場の雰囲気がある
しかし街道が現国道と合流する来春・堤から大庭・久保鳥までは 旧街道を拡張したように思われ
街道の痕跡はたちまちかき消えてしまう 現国道を大きく逸脱するような道跡は残念ながら見いだせない
各地の庚申塚も全て国道に面して立っている
2009.12.29 日田街道 甘木宿天神町から十文字交差点まで
甘木宿天神町から十文字交差点まで
明治33年(昭和10年修正)の測図
明治33年(昭和10年修正)の測図
現在の国道386号線には朝倉軌道の鉄道が敷かれ 秋月まで北へ両筑軌道が敷設されている
南には同じ両筑軌道が田主丸まで通じていたが この地図では廃止されている
他に 九州鉄道電車(西鉄)の甘木支線があるが 国鉄甘木線はまだ開通していない
甘木宿
黒田藩貝原益軒著 筑前国続風土記 巻之十 甘木町の項に
「国中にて、民家多き事、早良郡姪浜につげり。町数十五町、民戸数五百廿三軒、人数三千三百七十七人、
馬牛百七十三疋あり。是延宝四年にかぞふる所なり。古より此所にて毎月九度、市たてり。
今において絶ず。二日、四日、七日、十二日、十四日、十七日、廿二日、廿四日、廿七日、筑前、筑後、
肥前、肥後、豊前、豊後、すべて六箇国の人のより来る総会の所にて、諸国に通ずる要路なれば、
商人多く集り交易して、各其利を得る中について、福岡、博多、姪浜より魚籃(びく)多く持ち来たりて
あきなふ。豊後、筑後、肥前の内には、海味おほくは是より買いゆけり。凡博多より甘木の間、
人馬の往来常にたえず。東海道の外、此道のごとく人馬の往来多きはなしといへり。
信濃路、播磨路などは、中々是に及ばず。」と記されている
◆
一説に甘木の地名は 甘木安長が建立した甘木安長寺の山号「甘木山」によると言われているが
定説として 確立されているわけではない しかし甘木の町並みは安長寺の門前町が発祥であるいうのが
通説にはなっている 今も疱瘡除け地蔵尊に子供の無事成長を願い「バタバタ豆太鼓」を売る市が
一月の粉雪舞う門前町に立ち 安長寺は痘瘡除けの祈祷をし護符を発行した
これを授かろうと近郷近在から人々が参詣し これが門前町に市を開く経済的な原動力となった
やがて正月18日に交易の市が始まり初市といわれた この初市が発展し町並みが作られた後
月九日の定期的な市が立つようになる 特に初市は期日を1月4日から5日に変り
「バタバタ市」として今に続く 月九日の定期市は 二日町 四日町 七日町 八日町という町名となり
その痕跡を今に伝えている 近世において甘木村は 福岡藩東郡の要衝として代官所が置かれ
後に郡境目奉行が配置されたが 郡政上は朝日村(筑前町朝日)の大庄屋組に帰属していた
三奈木村にも下座郡を受領する藩大老黒田氏の屋敷があるため 下座郡行政の中心にはならなかった
しかし 藩政の援助を受けること無く護符を発行して寺門を守る安長寺と共に 商人の町として発展した
民間財政により経済的に栄えた甘木は 明治初めには戸数956戸・人口は4427人となっていた
近代に入って郡役所などの所在地として 朝倉地方の主要市街としての立場が確立した
南には同じ両筑軌道が田主丸まで通じていたが この地図では廃止されている
他に 九州鉄道電車(西鉄)の甘木支線があるが 国鉄甘木線はまだ開通していない
甘木宿
黒田藩貝原益軒著 筑前国続風土記 巻之十 甘木町の項に
「国中にて、民家多き事、早良郡姪浜につげり。町数十五町、民戸数五百廿三軒、人数三千三百七十七人、
馬牛百七十三疋あり。是延宝四年にかぞふる所なり。古より此所にて毎月九度、市たてり。
今において絶ず。二日、四日、七日、十二日、十四日、十七日、廿二日、廿四日、廿七日、筑前、筑後、
肥前、肥後、豊前、豊後、すべて六箇国の人のより来る総会の所にて、諸国に通ずる要路なれば、
商人多く集り交易して、各其利を得る中について、福岡、博多、姪浜より魚籃(びく)多く持ち来たりて
あきなふ。豊後、筑後、肥前の内には、海味おほくは是より買いゆけり。凡博多より甘木の間、
人馬の往来常にたえず。東海道の外、此道のごとく人馬の往来多きはなしといへり。
信濃路、播磨路などは、中々是に及ばず。」と記されている
◆
一説に甘木の地名は 甘木安長が建立した甘木安長寺の山号「甘木山」によると言われているが
定説として 確立されているわけではない しかし甘木の町並みは安長寺の門前町が発祥であるいうのが
通説にはなっている 今も疱瘡除け地蔵尊に子供の無事成長を願い「バタバタ豆太鼓」を売る市が
一月の粉雪舞う門前町に立ち 安長寺は痘瘡除けの祈祷をし護符を発行した
これを授かろうと近郷近在から人々が参詣し これが門前町に市を開く経済的な原動力となった
やがて正月18日に交易の市が始まり初市といわれた この初市が発展し町並みが作られた後
月九日の定期的な市が立つようになる 特に初市は期日を1月4日から5日に変り
「バタバタ市」として今に続く 月九日の定期市は 二日町 四日町 七日町 八日町という町名となり
その痕跡を今に伝えている 近世において甘木村は 福岡藩東郡の要衝として代官所が置かれ
後に郡境目奉行が配置されたが 郡政上は朝日村(筑前町朝日)の大庄屋組に帰属していた
三奈木村にも下座郡を受領する藩大老黒田氏の屋敷があるため 下座郡行政の中心にはならなかった
しかし 藩政の援助を受けること無く護符を発行して寺門を守る安長寺と共に 商人の町として発展した
民間財政により経済的に栄えた甘木は 明治初めには戸数956戸・人口は4427人となっていた
近代に入って郡役所などの所在地として 朝倉地方の主要市街としての立場が確立した
昭和23年(1948)米軍による空撮写真
国道には 昭和15年に廃止された朝倉軌道の線路跡が道の中央に残されている
国道には 昭和15年に廃止された朝倉軌道の線路跡が道の中央に残されている
朝倉市天神町 国道の南を通る日田街道
残された古い石の欄干
天神町の道祖神
朝倉市川原町
国道の北側 泉町の熊野神社
川原町の道祖神
懐かしい手押しポンプ
石橋を渡れば二日市通り
二日町の石橋 桁石を20本以上並べた大きな橋
二日市通り上二日町の道祖神
二日市通り上二日町 現在建物はない
二日市通り(街道筋)にある本通り商店街
今はアーケードが撤去され廃業した店舗も多い
商店街を抜けると宿場内枡形道 左右の通りは安長寺通り 街道は右へ
朝倉市八日町 安長寺矢田地蔵尊 バタバタ(豆太鼓)で有名
今から約千年前 甘木遠江守安長という豪士がいた 父の名を安道といい 常日頃から奈良は矢田の
矢田寺(金剛山寺)地蔵を信仰していた 安長が幼いとき疱瘡を患い命が危ぶまれたが
父・安道は 金剛山寺に籠もり病気平癒を祈願すると夢枕に地蔵尊が立ち 安長の病が癒えた
後に安長がこの地に移り住み 幼きころの霊護に感謝し 矢田寺の地蔵尊を本尊として迎え祀り
法相宗の大伽藍と合わせて門前に寺邑を創建した 甘木市は、この安長寺の門前町から発展した町である
今から約千年前 甘木遠江守安長という豪士がいた 父の名を安道といい 常日頃から奈良は矢田の
矢田寺(金剛山寺)地蔵を信仰していた 安長が幼いとき疱瘡を患い命が危ぶまれたが
父・安道は 金剛山寺に籠もり病気平癒を祈願すると夢枕に地蔵尊が立ち 安長の病が癒えた
後に安長がこの地に移り住み 幼きころの霊護に感謝し 矢田寺の地蔵尊を本尊として迎え祀り
法相宗の大伽藍と合わせて門前に寺邑を創建した 甘木市は、この安長寺の門前町から発展した町である
樹齢約500年以上と言われる境内の大楠
この大楠は天正14年(1586)6月 島津氏の大軍が岩屋城を攻めたとき甘木の町とともに
焼き払われ幹に空洞が生じたが樹勢は旺盛である 須賀神社の大樟とともに 玖珠の切株山より
子苗を移したとされ 安長寺の大楠が女樟(赤樟)須賀神社の大楠が男樟(青樟)で夫婦とされ
夜はフクロウに託し語り明かすと伝えられている
この大楠は天正14年(1586)6月 島津氏の大軍が岩屋城を攻めたとき甘木の町とともに
焼き払われ幹に空洞が生じたが樹勢は旺盛である 須賀神社の大樟とともに 玖珠の切株山より
子苗を移したとされ 安長寺の大楠が女樟(赤樟)須賀神社の大楠が男樟(青樟)で夫婦とされ
夜はフクロウに託し語り明かすと伝えられている
安長寺通りを南へ行くと厳島神社がある かつては大きな池であったと伝わる
朝倉市三福町 厳島神社前の老松醤油 松岡本家 創業 明治39年(1906)
通りを北へ戻ると須賀神社参道
朝倉市四重町 尾籠質店
朝倉市七日町 須賀神社 鳥居には「祇園社」の額を掲げる
明治までは牛頭天王を祀る祇園社 明治以降は須賀神社と名を変え須佐之男命を祭神とする
明治までは牛頭天王を祀る祇園社 明治以降は須賀神社と名を変え須佐之男命を祭神とする
須賀神社の大樟
朝倉市七日町 県立朝倉高校の正門
恵比須町の由来 西宮大神宮
八日町・馬場町 再び枡形に戻って日田街道(右の道)
馬場町 山光町庵
馬場町の蛭子大神
水町の旧家
街道の石橋
水町の屋須多神社 甘木村は水町まで
朝倉市堤(秋月藩領下座郡堤村)国道と合流
朝倉市堤 立石神社
古賀茶屋交差点 猿田彦大神と恵比須
堤村から下座郡に入る 街道の北に堤村・柿原村(秋月領) 南に来春村・頓田村・古賀村(福岡領)
佐田川を渡り福岡藩領の相窪村を抜け 街道北に三奈木村(福岡藩領)南に牛鶴村(秋月藩領)と
街道南北に福岡・秋月両藩の領地が輻湊するが秋月藩領はこれまで 後は福岡藩を通過する
堤・来春・頓田三村の境 国道に石の橋という交差点があり 来春村の入口となっている
これについて貝原益軒は筑前国続風土記 下座郡の項で
「禮拜村 今来春村と書は訛也。秋月領に入」と記し「禮拜村」の本文では
此村中に禮拜橋とて小き石橋あり。僧家いひ伝ふるは、伝教大師(最澄)唐土より帰向の時、海上にて
風難にあひ、危かりしときに心中に祈願し、恙(つつが)なく帰朝せば七仏薬師を
刻彫せんと誓はれしに、からうじて帰朝せり。平城天皇の御宇(ぎょう)、風難にあひし時の祈願を
果たさん為に、朝に申て筑紫に下らる。時に夜須郡古所山の嶺に、あやしき紫雲たなびきければ、
伝教斜ならず歓喜し、此橋の上にて一歩三礼して彼山に登り、仏像を造るべき材を求し故に、
是を禮拜橋といへり。」とある この石橋が地名の由来であろうかと思われる
松尾宮の大樟 旧下座郡古賀村で福岡藩の領地となる
松尾宮
貝原益軒の『筑前国続風土記』巻之十一 上座郡 下座郡に「貴野大明神」として
「古賀村の内、御社原と云所あり。松尾明神の社也。元和の初、肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を、
此地に勧請せし故に、貴野大明神と号す。9月29日祭あり。此神瘡瘍を能治し給ふとて、
祈願する者多し。祈願する者は海鰛(いわし)を食せず。」とある
貝原益軒の『筑前国続風土記』巻之十一 上座郡 下座郡に「貴野大明神」として
「古賀村の内、御社原と云所あり。松尾明神の社也。元和の初、肥後国菊池郡貴野村の松尾大明神を、
此地に勧請せし故に、貴野大明神と号す。9月29日祭あり。此神瘡瘍を能治し給ふとて、
祈願する者多し。祈願する者は海鰛(いわし)を食せず。」とある
佐田川橋
佐田川は『筑前国続風土記』で相久保川(あいのくぼがわ)として紹介されている
対岸が旧下座郡相窪村である
佐田川は『筑前国続風土記』で相久保川(あいのくぼがわ)として紹介されている
対岸が旧下座郡相窪村である
一里塚交差点 下座郡相窪村東端
十文字 北三奈木村 南牛鶴村 藩境