宝満川を渡ると一段と田舎らしい風景となる 明治33年(1900)の測図では
山裾の丘陵地を蛇行しながら 鞭掛・二村・大又・蔵役・中牟田・石櫃・松延と集落を伝い街道は続く
2009.11.12 日田街道 筑紫野市宝満川堤−夜須町松延
宝満川堤から夜須町松延まで車で移動
明治33年(1900)の測図
宝満川堤の向こう(右岸)に旧街道が見える
堤防に立ち天山(あまやま)方向を見る
天山は標高338.8mの宮路岳西南山麓に集落があり 西側は川に沿って平地が開け水田が広がっている
かつて農業で生計を立てる富農が多い所でもある 地名は宮路岳を天山と呼んだことに因む
天山は標高338.8mの宮路岳西南山麓に集落があり 西側は川に沿って平地が開け水田が広がっている
かつて農業で生計を立てる富農が多い所でもある 地名は宮路岳を天山と呼んだことに因む
天山村の鞭掛集落 旧福岡藩領天山村字鞭掛
集落入口の太宰府道分岐と常夜灯
「太宰府」「天満宮」の文字
村に入って上り坂となる
豪邸の並ぶ天山鞭掛の町並み
かつて天山村の小字は多く 本村・柴田・上鞭掛・鞭掛・金剛城・中鞭掛・下鞭掛・曲がり・ 日焼
浦の谷・不老給・ 内畑・ 山畑・芋ケ谷・長田町・峰古野・古河・上川原・学入・西崎などがあった
明治初期には本村と鞭掛などに住居が集中しており 天山全域で47戸あった
かつて天山村の小字は多く 本村・柴田・上鞭掛・鞭掛・金剛城・中鞭掛・下鞭掛・曲がり・ 日焼
浦の谷・不老給・ 内畑・ 山畑・芋ケ谷・長田町・峰古野・古河・上川原・学入・西崎などがあった
明治初期には本村と鞭掛などに住居が集中しており 天山全域で47戸あった
鞭掛の恵比須
生業は農業
鞭掛の氏神 天山地禄神社 北西にある本村の氏神は高木神社 境内に大行事が祀られる
ニの境界石
江戸時代宿駅山家の下宿として賑わった夜須郡二(ふた)と御笠郡天山の郡境石である
従是 西 御笠郡 東 夜須郡
筑前国続風土記の巻之十 二村の項に記される
「此村始はなかりしを、寛文の初年に立らる。此所に東西に十三塚ならびたるを崩して、
町を立られし故、所の名をも始は十三塚と称せしが、後に二村と称す。初は町の南側は夜須郡に属し、
北側は三笠郡に属せり。ニ村合て一坊(ひとまち)とす。故に村の名とす。今は全く夜須郡とす。」
江戸時代宿駅山家の下宿として賑わった夜須郡二(ふた)と御笠郡天山の郡境石である
従是 西 御笠郡 東 夜須郡
筑前国続風土記の巻之十 二村の項に記される
「此村始はなかりしを、寛文の初年に立らる。此所に東西に十三塚ならびたるを崩して、
町を立られし故、所の名をも始は十三塚と称せしが、後に二村と称す。初は町の南側は夜須郡に属し、
北側は三笠郡に属せり。ニ村合て一坊(ひとまち)とす。故に村の名とす。今は全く夜須郡とす。」
福岡藩領夜須郡二村 二の追分け 右(南)へ佐賀長崎
長崎道 次の宿は原田(はるだ)宿
宝満神社参道の角 敬止義塾跡
朝倉郡筑前町二字鐘木塚 敬止義塾跡(けいしぎじゅくあと)
福岡藩士であった杉山潅園が 明治10年(1877)頃に自宅の離れで塾を開き 寄宿しているものも含め
近隣から30人ほどの塾生がいた 教科書として『日本外史』『十八史略』『四書』などが用いられていた
明治23年(1890)潅園が死去したため閉塾された
二村の宝満神社
二村の恵比須様
筑紫野市大字山家 古長崎街道分岐
左写真は古長崎街道の旧原田宿往還筋で 右写真は山家村大又の山家宿番所跡と新長崎街道である
元治元年(1864)に庄屋たちが郡代役所に陳情し これまでの原田と松崎への道筋が2つあったのを
一つにまとめ 日田街道に合流させた後 左右に追分けるようにし
日田街道と合流する大又に番所と関門が新設された
元治元年(1864)に庄屋たちが郡代役所に陳情し これまでの原田と松崎への道筋が2つあったのを
一つにまとめ 日田街道に合流させた後 左右に追分けるようにし
日田街道と合流する大又に番所と関門が新設された
山家宿に寄り道 筑紫野市大字山家(旧福岡藩領御笠郡山家村山家下町)・山家宿西構口
幕末の山家宿町並図
山家宿下町通り
御笠郡 山家宿郡屋跡
郡屋とは、その郡内の村役人たちが集まって、郡奉行の通達を受けたり、参勤交代の人馬役の
打合わせなどをする施設で、主要な宿場に置かれていました。敷地内には郡屋のほか、郡屋守の役宅、
土蔵などがあり、郡屋守が管理していました。山家宿の郡屋は、17世紀後半から記録に見え、
明治維新で廃止されました。明治元年6月郡屋守はそれまで預かっていた諸道具を雑餉隈郡役所に返し、
建物は取り壊されました。今は当時の建物の基礎だけが残っています。
筑紫野市教育委員会
山家宿史跡 山家宿場郡屋土蔵
この土蔵は山家宿場郡屋敷地内にあり 参勤交代の旅支度品や街道の補修用具等の収納を目的として作られた
一般の土蔵とは構造的に異なり 柱を一本も使わず規模も大きく非常に珍しい建物である
この土蔵は山家宿場郡屋敷地内にあり 参勤交代の旅支度品や街道の補修用具等の収納を目的として作られた
一般の土蔵とは構造的に異なり 柱を一本も使わず規模も大きく非常に珍しい建物である
山家宿大庄屋役宅跡
寛保2年(1742)ごろ山家村大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡
大庄屋とは 江戸時代に触(郡を二つか三つに区分した行政区)を管理していた役人のことで
各村への年貢の割当てや納入 土木工事 参勤交代の人馬役など 村政に深くかかわっていた
役宅の東隣には 山家宿の東構口があり
長屋門は明治22年(1889)から昭和5年(1930)まで 山家郵便局として使われてい
筑紫野市教育委員会
寛保2年(1742)ごろ山家村大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡
大庄屋とは 江戸時代に触(郡を二つか三つに区分した行政区)を管理していた役人のことで
各村への年貢の割当てや納入 土木工事 参勤交代の人馬役など 村政に深くかかわっていた
役宅の東隣には 山家宿の東構口があり
長屋門は明治22年(1889)から昭和5年(1930)まで 山家郵便局として使われてい
筑紫野市教育委員会
山家宿下町の恵比須様
上町 東構口の恵比須様
再び街道に戻る 朝倉郡筑前町(旧福岡藩領夜須郡朝日村)山家川の間片橋
筑前町朝日(旧夜須郡朝日村)の町並み
同じ朝日集落内に十数メートル離れただけの猿田彦大神と恵比須 小字が違うのか?
筑前町中牟田の西端 旧夜須郡中牟田村で黒田藩領の本村と秋月藩領の分郷に別れていた
筑前町中牟田(旧福岡藩領夜須郡中牟田村)
現在は街道カフェ やまぼうしを営む旧家
筑前町石櫃(いしびつ)の追分石 肥後薩摩街道の起点となる
戸時代初頭の道標で 「右 肥後薩摩道」「左 豊後秋月 日田 甘木道」と印されている
石櫃は当時山家宿の下宿として賑わい 道標は山家宿の問屋・武作(ぶさく)が世話人となって建てた
戸時代初頭の道標で 「右 肥後薩摩道」「左 豊後秋月 日田 甘木道」と印されている
石櫃は当時山家宿の下宿として賑わい 道標は山家宿の問屋・武作(ぶさく)が世話人となって建てた
肥後薩摩道 次の宿は松崎宿
筑前国続風土記・石櫃村の項「中牟田村の枝村也。中牟田村は秋月領に属せり。
(とあるが全村が秋月領では無い)石櫃村は福岡領に属す。村中に天神の社あり。
其初此社の神体を、石櫃に納て土中にうづみ置、是を祭りしと云。其所也とて、民屋の後に
小高き塚あり、故に村の名を石櫃といふ。大道筋に少ばかりなる町あり。是を石櫃町と云。」
筑前国続風土記・石櫃村の項「中牟田村の枝村也。中牟田村は秋月領に属せり。
(とあるが全村が秋月領では無い)石櫃村は福岡領に属す。村中に天神の社あり。
其初此社の神体を、石櫃に納て土中にうづみ置、是を祭りしと云。其所也とて、民屋の後に
小高き塚あり、故に村の名を石櫃といふ。大道筋に少ばかりなる町あり。是を石櫃町と云。」
筑前町松延(旧福岡藩領夜須郡松延村)
松延(まつのぶ)村の恵比須
松延池
松延池は 夜須町のほぼ中央にあり ため池の広さは約10haもあって江戸時代には
筑前国の八大塘のひとつであったと言われている 池の周りにハゼの木や雑多な花木の雑木林があり
四季折々の季節感を醸し出し 後方の砥上岳を背景にすぐれた景観を誇る
今でもこのため池は 筑前町南西部の田畑をうるおす重要な灌漑貯水池となっている
松延池は 夜須町のほぼ中央にあり ため池の広さは約10haもあって江戸時代には
筑前国の八大塘のひとつであったと言われている 池の周りにハゼの木や雑多な花木の雑木林があり
四季折々の季節感を醸し出し 後方の砥上岳を背景にすぐれた景観を誇る
今でもこのため池は 筑前町南西部の田畑をうるおす重要な灌漑貯水池となっている