2010.04.18 日田街道 天領日田

日田市夜明関町にトンネルが完成し 筑後川と大肥川の合流地点に大肥橋が架橋され
国道の前身となる福岡県道が日田まで通じたのは 20世紀を迎えようとする明治33年(1900)である
それまでの日田街道は 関村の入口から高さ20mほど登り さらに南へ山裾をたどる
獺の瀬(うそのせ)といわれた急流を眼下に望む難所越えの道であった
道は標高70mばかしの杷木山の集落へと下り 再び標高160mの峠を越えて祝原村にまた下る
小石原村の嘉麻峠を越える筑豊道を経て すぐ先の高野村から今も現役で存在する小月眼鏡橋を渡り
萩尾峠を超え日田盆地の二串村へと下る 二串川を渡って二串村大内田へから友田村の岳林寺まで
おおよそ残されている旧街道をたどることができる 旧友田村の光岡から吹上までは
航空写真で家宅の敷地などに蛇行する街道の跡を垣間見ることが出来るが 今では確証が不可能である
国境から日田陣屋に至る道のうち 関村から友田村までが豊後森藩の領地である
意外ではあるが 明治初めの「旧高旧領取調帳」によれば 日田郡2町91村のうち幕府領は2町54村
豊後森藩領は37村を数え 森藩領地47村の大半は日田郡にある
昭和7年(1932)久大線が夜明駅まで開通し 昭和9年(1934)には日田駅まで延伸開業した
昭和29年(1954)に夜明ダムが竣工し 平成2年(1990)大分自動車道の朝倉−日田IC間が開通して
この区間の日田街道は破壊と忘却にさらされ 痕跡を探すのは困難な状態である
しかし僅かながら杷木山地区に短区間ながらも 旧街道の面影を色濃く残す地域が残されている
筑前豊後国境から永山布政所(日田陣屋)まで
国土地理院の昭和23年の航空写真及び地理院地図の1974年〜1978年の空中写真を参考
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明治33年測図 昭和2年修正地形図 久大本線は夜明駅まで開通
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昭和23年(1948)米軍による空撮写真
1.福岡大分県境 2.久大本線鉄橋 3.関町行徳家 4.袋野 5.筑後軌道跡 6.杷木山集落 7.袋野堰
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旧筑前豊後国境
福岡大分県境の堺谷橋
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懸界標 福岡懸朝倉郡杷木村大字穂坂 大分懸日田郡夜明村字関
至 日田町 十一粁二百六十四米突(11.264km) 至 耶馬渓/羅漢寺 五十二粁七百八米突(52.708km)
至 中津町 六十二粁七百八十米突(62.780km) 昭和三年三月 福岡懸 [境及川中央]
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関浜蔵所跡と石畳道
江戸時代の享保末年(1735)代官岡田庄大夫のころから天領日田・玖珠の租米のうち1万8千石は
この関浜に集められ川船に積んで長崎へ送られるようになり そのための蔵所がここに設けられていた
川に向って 玖珠郡 日田郡の千石倉二棟と役人詰所とが並び その中間に舟着場への石畳があった
倉の大きさは3間半×12間ほど さらにその北側には3間×7間の秤り場(検査場)と
非常の場合に備えた郷米倉二棟とが建っていた 建物はすべて瓦葺平屋で豪壮な造りであった
船の出入り 荷積みなどで賑わったであろうこの蔵所も明治になって廃され
建物も昭和30年(1955)の夜明発電所の建設に際して取りこわされた
夜明ダムのある獺の瀬は 断崖が迫り川中にも岩石が多く 滝のような急流で筏流しは可能であったが
上流への遡航は不可能であった 急流が起こす水しぶきに虹がかかり 筑後街道の峠より
かかる虹を望めることから 虹峠の名が付いたほどの急峻で急流の難所であった
荷船の往復運航が不可能なことから 上流域の玖珠・日田からの租米搬出は
主に荷駄が使われ ここ関浜に集荷されたのである
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関浜蔵所石垣
関浜 道は線路で消える
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関の猿田彦大神と稲荷大明神参道
旧街道はトンネル手前から左折
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関町の国指定重要文化財 行徳家住宅
文化元年(1804)・同2年(1805)・天保9年(1838)の祈祷札が残ることから 建造年代は
文化年間頃と推定される 構造形式:寄棟造茅葺 建坪60.17坪 二階10.33坪 計70.5坪(254.1u)
桁行15.7m 梁間10.8m 一部二階 南面玄関 南面及び北面庇付 桟瓦葺
北面突出部 桁行2.9m 梁間9.8m 寄棟造茅葺 東面及び北面庇付桟瓦葺
行徳家は代々医者の家系であるが この建築物は 当地によく見られる曲屋形式の屋根と
土間を広くとった大庄屋階級の屋根様式を示しているのが特徴的である 玄関 仏間 客室等は各八畳で
柱・鴨居・長押等は面皮付材を使用している 台所は12坪の土間付き板の間 天井は大和天井である
土間に天井はなく梁組上に「さす」で棟を支える 宅地は約450坪あり西側に山を取り入れた見事な
庭園を擁している 幕末に活躍した建築主の2代目行徳元遂は 眼科医のかたわら民政にも尽力し
夜明歌詠橋の架橋にも 広瀬家や干原家と力を含わせ完成させたことで知られる篤志家である
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関町(旧日田郡関村・豊後森藩領地)有王社前の街道
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有王社(ありおうしゃ) 祭神:瀬織津日女命(セオリツヒメ)
宝永2年(1705)有王宮として遷座された 境内に天満宮と水天宮を合祀する
瀬織津姫とは 流れの速い荒瀬にいる祓戸大神(はらえどのおおかみ)で 神道の祝詞(のりと)
大祓詞(おおはらえのことば)に出てくる神で かつて民間では水神や竜神と同一視されてきた
眼下に獺の瀬(うそのせ)を見る山上に 筏流しの安全及び治水を祈願して勧請されたと思われる
参道石橋の架橋年月は 江戸時代の嘉永5年(1852)9月と刻まれる
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関町 標高73m辺り 大分自動車道(高速)の関橋梁が見えてくる
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旧日田郡関村字杷木山 豊後森藩領地
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標高75mの杷木山 160mの峠まで登る
旧高野村 大肥川・茶屋ノ瀬橋

歌詠橋(かえいばし)
かつて茶屋の瀬橋の位置に「歌詠橋」と呼ばれる石造の眼鏡橋が架けられていた
歌詠橋は 豆田の広瀬氏 千原氏 関の行徳氏が施主となり 長さが30mあったとされる
広瀬淡窓は嘉永2年4月12日 塾生の青邨等と訪れ「真に偉観なり」と日記にしたため
また碑文を書き 詩にも詠んで 空を横切る橋の美しさを 長虹とも新月ともたとえた
しかしこの橋はわずか一年ほどで 洪水のために流失した
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歌詠橋 下絵 右側向こうに小月橋が描かれている
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茶屋ノ瀬川・小月橋を渡る
小月橋 架橋は嘉永2年(1849)
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小月橋と茶屋ノ瀬川
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旧高野村 萩尾に上る旧街道
街道は高速道路で行止まり
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高速南側の旧道
萩尾公園前
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萩尾公園は 1975年頃に着工し1980年頃には完成している 日田街道は公園内にあった
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二串川を渡る
旧友田村字内田
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友田村の片山磨崖種子(梵字岩)上から光岡側を展望
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道路工事で移転した道祖神
左の旧街道へ入る
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旧日田郡友田村下今泉 友田村は豊後森藩領地
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下今泉の道祖神
旧友田村下今泉
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北友田の窟堂
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窟堂からの展望
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岩崖を穿ち造られた窟堂
光岡農業倉庫裏
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光岡農業倉庫 背後は吹上台
岳林寺の西
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臨済宗妙心寺派 松陽山 岳林永昌禅寺
日田郡司大蔵氏の第10代当主大蔵永貞が 正安元年(1299)頃から13年を費やして建立した禅宗寺院
開山は 元の高僧・明極楚俊による
元弘元年(1331)に 後醍醐天皇より綸旨が添えられた九州唯一の勅願の霊場である
大蔵氏の滅亡やその後の大友日田氏の滅亡などによって荒廃したが
寛文11年(1672)徳川4代将軍家綱の時 幕府から岳林寺宛に寺領再興および修復等についての
裁許が下され 天領の内30石の領地が綱吉の名義で寄進され 以降も将軍家から加護を授けられた
これは第14代将軍・徳川家茂が没する慶応2年(1866)まで続いた
明治維新後もしばらくは寺領についてはそのまま引き継がれたが 神仏分離令によって堂内にあった
後醍醐天皇像や楠木正成の肖像は 日隈山の春日神社境内に新しく建立された日隈神社に移された
明治7年(1874)現在あるかつての本坊跡の一部・約3500坪以外の寺領は全て没収された
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山門に掲げられた菊の紋章と菊紋瓦 塀には勅願寺を表す五本の線が入る
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長善寺の鐘楼門
吹上町の茅葺き民家
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吹上地蔵尊
ここも岩窟堂である
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台地上の吹上神社
吹上観音と吹上神社 大師堂もある
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吹上台地の中腹にある吹上神社から見る日田中心部
吹上観音坐像は 約1.2mほどの高さがあり平安中期の作と考えられるが 創作時の部分は
顔・胸・胴の全面のみで 他の部位は鎌倉時代から室町期にかけて修復されたものと思われる
観音堂の石板浮彫り一対の仁王像は 文政九年丙戌の刻字があり江戸時代後期の建立である
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月隈山公園 円山城址 今は一部の石垣や堀が残る
天領日田
日田(ひた)という地名は 8世紀中頃に著された『豊後国風土記』に日田郡の記述が見られ
その後の『和名類聚抄』では 日高郡とされているが「比多」の読みが付されており
古くから和語で「ひた」と呼ばれていたことが解る
しかし その由来については諸説あり 不明な点が多く確たる説は存在しない
日本神道の神典である『先代旧事本紀』の国造本紀に 古墳時代後期の日田のことが記載されている
それによれば 止波宿禰(鳥羽宿禰)が 靱編連(ゆぎあみのむらじ)に構えた会所宮(よそみや)に住み
村人に農業などを指南した人物として『豊日志』に記されていたと書かれている
現在でもこの周辺を刃連(ゆきい)町と呼び 氏神として会所宮(よそみや)神社を祀る
また『豊後国風土記』靭編郡(ゆぎあみぐん)の条には
6世紀の欽明天皇の時代 日下部氏の祖で靱部として仕える邑阿自(おうあじ)が
村に家を構えたことから靭負(ゆぎおい)村と呼び 後に靭編郡と称されたとある
靭(ゆぎ・ゆき)とは矢を入れる容器で 靭負は靭を使用する者 靭編は靭を編み作る者のことをいう
大化の改新後はそのまま郡司に任ぜられ 11世紀終わりの平安時代後期に大蔵氏が郡司に就くまで
約500年以上日田を支配していたと考えられている
大蔵氏は慈眼山麓に館を構え500年近く支配を続けたが 文安元年(1444)に内紛により大蔵氏は滅亡した
後に家臣たちが 豊後の大友氏より親満を養子として授かり大友系日田氏として再興したが
天文17年(1548)の家系断絶後大友氏の領地となって旧大蔵一族に連なる8氏(八奉行)により統治された
豊臣秀吉の時代・文禄2年(1593)に大友氏が改易され 日田郡は蔵入地(秀吉直轄地)となって
宮木豊盛が代官として赴任し日隈山に城を築いた 後・毛利高政が着任し日田郡2万石および玖珠郡を治めた
関ヶ原の戦い後は 黒田長政(黒田藩)の預かりとなり 家臣の栗山善助が城代として日隈城に入った
翌慶長6年(1601)小川光氏が入封し日田藩が立藩され 月隈山に丸山城を築き日田郡の北部を領地とした
日隈城を中心とする南部は黒田藩預かりから萩藩毛利氏の飛び地預となった
元和2年(1616)小川氏に代わり石川忠総が入封し 城を永山城と改め城下町も移転して豆田町と称した
寛永10年(1633)石川氏が下総佐倉藩に移封され 日田北部は中津藩領 南部は杵築藩の飛預地となった
寛永16年(1639)には江戸幕府直轄領(天領)となり 丸山城を廃して麓に陣屋(永山布政所)を置いた
後の天和2年(1682)に 松平直矩が国替えで日田へ移封となり 再び日田藩が立藩されたが
わずか4年後の貞享3年(1686)に出羽山形藩へ転封された それ以降 日田は明治維新まで天領であった
明和4年(1767)日田代官が西国郡代に格上げされ 日田は九州の天領を統括する拠点として
豊前・豊後・日向・筑前の天領12万石を支配することとなり 江戸時代末期には石高が16万石まで増えた
日田では 掛屋と呼ばれる御用商人が大名貸しの金融業などで繁栄し 掛屋を中心に町人文化も栄えたが
明治維新以降は幕府から得ていた利益は消滅し 農林産業が主体となり町の経済規模は大幅に縮小された
明治元年(1868)日田県となり明治5年(1872)大分県へ編入された
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堀の石橋を渡る
月隅神社の鳥居 扁額は天満宮
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月隅城址 本丸石垣
月隅神社 鳥居扁額は正一位稲荷大明神
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月隈公園本丸跡から永山布政所(陣屋)跡と花月川・豆田町
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月隈公園は永山城三の丸跡に出来た公園である 永山城は慶長6年(1601)に小川光氏によって築かれれ
当初は丸山城と命名された 寛永16年(1639)に廃城となり麓に日田陣屋が置かれた
江戸中期には西国筋郡代役所が置かれ「永山布政所」と名付けられた
明治に日田県が発足し三の丸に知事官邸と県庁舎が置かれ 大分県に合併されるまで政治の場となった
日田の廃県後 日田山林学校 日田区裁判所となり 裁判所移転後に月隈公園として整備され
今も城山の石垣や水堀の一部などが残っている 永山布政所跡は宅地となり陣屋の遺構は残っていないい
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日田市豆田町
豆田町(まめだまち)は 花月川沿いにある重要伝統的建造物群保存地区である
南北に貫く御幸と上町の通りがあり小京都と呼ばれる 電柱を撤去しより伝統的町並みを再現するが
忠実な再現と言うより 古く造ったようだという評価もある
慶長6年(1601)に小川光氏が丸山城を築く際 城の東に南北二筋の通りを開き城下町とし
丸山町と名付けられた 後の元和2年(1616)に石川忠総によって現在の場所に移され
豆田町と改名された 現在の町割りは 享保9年(1724)以降 西国郡代増田道脩により改修された
安永元年(1722)と明治20年(1887)の豆田大火で多数の商家を焼失した
2009年12月4日に福岡雑餉隈をスタートし 2010年4月18日一応踏査終了していたが
まだ疑問点のある箇所も多く 今に至るまで思考踏査は続いている
福岡にいた頃から国道386号線が旧日田街道であると長い間思っていたのだが
山家宿について調べるうちに 筑紫野市歴史博物館のHP内「ちくしの散歩」に出会い
雑餉隈から日田まで 旧街道筋が多く残されている事を知る しかしながらその全体に付いての
踏査の記事も情報も少なく  日田市においても研究踏査の痕跡も皆無であった
よって自分で調べ自分で街道を踏査することを始め  街道の魅力に惹かれていった
歩行踏査は雑餉隈から針摺まで そのあとは車での踏査による
印象的な区間は天山から甘木までの区間であった  地形図の等高線をトレースするように
美しく蛇行しアップダウンして続く道は「街道」と呼ぶにふさわしい姿であった
2020年1月16日 再編集終了
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