2010.03.08 日田街道 比良松宿

十文字交差点から上枦畑の旧街道入り口まで現国道を踏査するが やはり街道の痕跡を
確認することは出来ない 上枦畑から旧街道を辿り 比良松宿から古毛へと街道は続く
特に比良松宿は その中心街が国道から外れたがために 往時の面影を残す数少ない町並みを今も保つ
古毛・菱野から山田にかけて今でも一部旧街道が存在するが 三連水車の里「あさくら」から
恵蘇八幡宮まで古い空撮写真を見ると 街道らしき痕跡が直線で引かれた国道の北に確認できる
恵蘇八幡宮から杷木志波の本陣橋までは 概ね現国道とルートを重ねている
甘木十文字から志波本陣橋まで
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明治33年(昭和10年修正)の測図
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朝倉市大字三奈木字上枦畑(かみはじはた) 三所大神社 旧下座郡櫨畑村
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上櫨畑の旧街道分岐 (株)石松組本社ブロック塀と歩道の間が街道
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街道は下座郡三奈木村と上座郡大庭村の境
草が茂る日田街道跡
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国道と並行する街道跡
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荷原川(いないばらがわ)に架かる石橋 左が下座郡三奈木村字久保鳥 右は上座郡大庭村
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江戸末期の安政5年(1858)に板橋から石橋に架け替えられた久保鳥橋
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橋長:14.0m 橋幅:3.6m 4径間 日田街道に架けられた江戸期の石橋としては
建設時期が明確で保存状態も良好であったが 2017年7月の豪雨により流失した
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左は下座郡三奈木村字久保鳥 右は上座郡大庭村
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朝倉市入地(いりじ) 旧上座郡入地村
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新立川を渡り旧上座郡宮野村に入る 朝倉市宮野下町 かつての醤油醸造所
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宮野下町の幸神(さいのかみ)
宮野下町の猿田彦大神
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朝倉市宮野 恵比須神社
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朝倉市宮野 県道80号線との交差点 向こうの交差点は国道386号線甘木バイパス
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桂川橋を渡れば上座郡比良松村 比良松宿西口
古代 上座郡広瀬郷の中心地で 筑前と豊後を結ぶ陸路及び筑後との河運による集積地として栄えた
661年(斉明天皇時代)に朝倉橘広庭宮(たちばなのひろにわのみや)の造営がはじまったが
斉明天皇が急死し朝鮮半島白村江の敗北によって宮は放棄された 以降この地は「宮野」と呼ばれた
律令時代には 太宰府と豊後を結ぶ官道がこの地を通っていたとされ 恵蘇宿に朝倉の関が設けられた
近年の発掘調査の結果 上座郡衙(じょうざぐんが)が比良松の中心部にあったことが確認されており
古代の駅がここにあり 官人や荷駄の隊列が大宰府と豊後国府(国衙)を行き来する重要な道であった
比良松の名は戦国時代に始まる 鎌倉時代初めに大宰少弐に任命された武藤氏が少弐氏と改めていた
永正3年(1506)少弐重房(出自不詳)が大内氏に追われ 飯塚の弥山に隠れて古賀姓を名乗った
後の天文23年(1554)嫡男・重儀が上座郡宮野村に移り住み 枝を四方に広げた松を植えて
これを平松と名付け 村の名も平松村と称し その後平松が比良松に転じた
松は現・舒翠館の位置にあり 明治10年の火災がもととなって枯れるまでその姿を残していたとされる
その後も古賀氏は代々上座郡下郷の大庄屋を務め 支流も近隣の村々の庄屋として活躍した
江戸時代にかつての官道が日田街道となり宿場町となった 江戸中期以降は日田が天領となって
日田代官所の公金を元手にした「日田金」による経済力を背景に街道は賑わった
また筑後川の治水・利水工事が施された結果 近隣周辺の農業が発展し比良松は在郷町としても発展した
安政2年(1855)に大火があり 街道筋に残る歴史的建造物は直後に再建されたものが多くを占めている
明治から大正にかけての比良松は 在郷町として繁栄のピークを迎え酒造業なども盛んとなり
商店が密集して近郷近在からの買い物客で賑わったが 明治末に完成した新県道(現国道386号)と
明治44年(1911)新県道に敷設された朝倉軌道によって 次第に新道沿いの商店街に繁栄が移り
結果的に幹線道路から外れたことで 往時のたたずまいが残されることになった
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清酒比良松や国菊の篠崎酒造所 創業江戸時代後期
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電話五番の表示 一桁の電話番号
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貝原益軒の『筑前国続風土記』では「下比良松町 宮野村之内 古は平松町といふ」
「比良松村 古は上平松村といふ」と目次で紹介され 本文では「比良松 上下二村、大道にある町なり。
宮野村に属せり。今は別村となり。昔は平松の字を持ちゆ。寛文元年より文字を改む。」
「下の比良松町の街道に松樹あり。其枝四辺に茂りたひらか也。故に町の名を比良松と称す。
其側に石あり。是を夷三郎殿と祝ひまつる。此夷のためにうへし松なるべし。」とあり
福岡に近いほうが上比良松 東側が下比良松となる
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廃業した造り酒屋
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比良松旧郵便局 昭和10年頃建築
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下比良松 比良松旧公会堂「舒翠館」 ここに地名の由来となった平松があった
舒翠館(じょすいかん)は明治18年(1885)の建造物で 甘木朝倉地方では最も古い公会堂である
明治24年海軍拡張問題によって議会は解散し 政府は支持の吏党(与党)を当選させるため
民党(野党)に対し選挙妨害を始めた この舒翠館でも明治25年2月1日約2700名からの
群衆を集めた民党の演説会に 吏党が妨害を加えた為 双方大乱闘となり
多数の負傷者を出した(選挙干渉乱闘事件) この事件は県議会で問題となり
ついには内務大臣が失脚することとなった
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比良松圓誠寺近くの日田街道
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厳島大神神社
661年 斉明天皇が朝倉橘広庭宮に入られたおり 遠征軍の海上安穏と武運長久祈願のため
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に命じ創建したと伝わる
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宿場北外れの辻堂
朝倉市須川 コンビニ裏の街道と石橋
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用水路の石橋 幕末から明治期
石橋の下部
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妙見川の堤へ上っていく街道 街道から左が上座郡須川村 右が同郡古毛村
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櫨の木と妙見橋
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朝倉市大字古毛(こも)字久重 老松神社 正面参道
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朝倉市大字古毛字久重 旧上座郡古毛村久重
国道に合流し 朝倉市菱野で旧道(左)へ
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朝倉市大字山田字通堂 通堂橋
旧通堂橋記念碑 明治20年架橋
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旧上座郡山田村通堂 不動明王と恵比須
古道は続く
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昭和22年(1947)米軍による空撮写真
1.妙見橋 2.老松神社 3.通堂橋 4.丸の木殿跡 5.本陣橋 6.志波の家並み
3〜4の間 山に沿う国道とは違う道筋が見える
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明治33年(昭和10年修正)の測図
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鉄工所北側の一段高いRC舗装された細道
細道は字金場に出る
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道はまだ続く
この先で道は消滅 振返り撮影 辺りは柿園
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朝倉市大字山田字恵蘇宿 国道386号線恵蘇宿交差点 奈良時代の宿駅である
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福岡県朝倉町大字山田字恵蘇宿297 国指定天然記念物 隠家森(かくれがのもり)
指定日 昭和9年12月28日
樹齢1500年以上経つといわれる樟で全国第8位の巨木である 地上3mのところから三叉に分かれ
幹の部分から樟に抱き込まれるように 大きな「ムク」の木が生えている
樟の根部は8畳ほどの空洞となっていて 伝説では むかし朝倉の関所があった頃
この関所を昼間通れなかった者が 夜になるまで森に隠れていたとされる
その頃はこの木を含む大きな森があったとされることから 「隠家森」の名前が付いたといわれる
胸高幹周:18.0m  樹高:21.0m  根廻り:35.4m
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奈良時代の関所跡 別名「名乗の関」
斉明天皇の仮御陵と木の丸殿跡

木の丸殿
660年 百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされ 百済滅亡と遺民の抗戦を知ると 執政者の中大兄皇子は
日本に滞在していた百済王子・豊璋を百済に送還し百済援護のため 難波に遷って武器と船舶を作らせ
更に瀬戸内海を西に渡り 母の斉明天皇を筑紫の朝倉宮に迎え戦争に備えたが
遠征軍が出発する前に 斉明天皇は67歳で死去した
皇太子中大兄皇子は 母斉明天皇が亡くなって7日後の8月1日 遺骸を朝倉橘広庭宮からこの地に移し
その夕方御陵山へ仮葬した そして山腹に殯宮となる丸木の仮殿を作り 1日を1ヵ月に数え
都合一年となる12日間喪に服したとされる 以来この地を「木の丸殿」や「黒木の御所」と呼んだ
後の時代に 木の丸殿跡に恵蘇八幡宮を建て 斉明天皇と天智天皇を祀った
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漏刻 復元模型
恵蘇八幡宮鳥居扁額 寶作無窮

漏刻(ろうこく)
天智10年(671)6月10日 天智天皇は漏刻(水時計)を作り 民に時を知らせられたと伝えられている
実物の記録はないが 中国で用いられていた漏刻の形式を模倣したものと考えられている
この漏刻は4個の桶を段違いにならべたもので 上段から夜天地・日天地・平壷・万水壷といい
最下段の万水壷の中には矢を浮き立てている 夜天地の桶に水を注ぐと 水は管を通って順次落下し
最後は万水壷へと流れ込み水が溜まると矢が浮き上がり 矢の目盛で時刻を知る仕組となっていた
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恵蘇八幡宮参道 旧上座郡山田村恵蘇宿
旧国道跡
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朝倉市大字山田字恵蘇宿 堀川用水頭首工 山田堰
全国唯一の傾斜堰床式石張堰で 南舟通し・中舟通し・水吐通しの3つに区分される
面積は7688坪(25370平方m)あり 土砂吐・船通し・魚道をそれぞれ一箇所設けている
寛文3年(1663)堀川用水の開削工事着工し 翌年に竣工し150haの田を開いた
享保7年(1722)取水口を現在地に移し切貫水門とし灌漑面積を220haに増やした
明和元年(1764)堀川用水を延長し 灌漑面積は370haに増加 寛政元年(1789)三連水車が完成
寛政2年(1790)上座郡下大庭村の庄屋・古賀百工により山田堰が完成
平成2年(1990)に用水路とともに「堀川用水及び朝倉揚水車」として国の史跡に指定された
『筑前国続風土記』によれば 上座郡の内
「下郷は南は山田村を以かぎりとし、北は大庭鳥集院を以限とす。」とあり
「上郷は志波村より南は山谷の中にあり。奥は小石原、福井、宝珠山を以限とし、口は志波を以限とす。
山田村、恵蘇宿山下の河端せばき所。名乗関のありし処、是上郷下郷の境なり。」とある
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