2010.03.08/04.18 日田街道 久喜宮宿

日田街道は本陣橋から北東へ国道から外れるため 志波宿の道筋は古いまま残された
志波の東で黒川・小石原道と別れた街道は 南に折れ曲がり
高山の集落を過ぎて山沿いの旧道へと入り旧上座郡久喜宮(くぐみや)村に入る
久喜宮は 西鉄バスセンターを核とした現在の杷木中心部から西へ約2km離れており
今は静かな田舎町として旧街道沿いにひっそりと佇むが かつては久喜宮村の中心部で栄えた
明治22年(1889)久喜宮・若市・古賀・寒水の4村が合併し新たに久喜宮村が設立され大字となった
同じく池田・白木・林田・穂坂の4村が大字杷木村となり役場が林田に置かれた
奈良時代の律令制度により 朝倉郷が上都安佐久良(かみつあさくら)下都安佐久良(しもつあさくら)
安(やす)の3郡に分けられ 以来 明治29年(1896)に上座・下座・夜須の3郡が統合され
朝倉郡となるまでこの制度は続いた 今は旧郡部は解体され筑前町・朝倉市・東峰村に分かれる
『筑前国続風土記』による志波村は 道目木村・高山村・宮原村・志波町・瀬戸村に分かれていた
街道が通るのは 志波本村とされた志波町である
志波本陣橋から大分県境まで
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明治33年(昭和10年修正)の測図
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昭和22年(1947)米軍による空撮写真
1.本陣橋 2.黒川・小石原追分 3.大膳樟 4.久喜宮村久喜宮 5.久喜宮小学校
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福岡県朝倉市杷木志波(しわ) 本陣橋
宿場らしい橋名であるが 本陣の存在や由来については不明である
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幕末時は上座郡志波村で福岡藩領であった 志波の歴史は古く 筑前国続風土記によれば
福岡より12里あり 律令時代は筑前国上座郡の壬布郷・遠市(とほち)の里と呼ばれていた
筑前から豊後に向かう交通と 黒川・小石原を経て豊前に通じる交通の要所として栄えた
鎌倉時代には秋月氏が台頭して 戦国時代末期には弱体化した大友氏に変わり
豊前筑後の領有する石高は36万石とされるまでなったとされ その領地に入った
九州探題を務めた一色範氏が秋月氏に滅ぼされたあと 九州探題となった斯波氏経が下向し
当所に居住したことから斯波という村名になったといわれ 後に志波の文字が当てられた
また室町時代から戦国時代にかけ 黒川に英彦山座主の館が築かれ英彦山の支配が及ぶ地域となった
秋月氏は 秀吉の九州征伐で敗退し筑前国は小早川氏の支配となったが
慶長5年(1600)関が原の戦功により 黒田長政が筑前国の領主となり福岡城を築き
筆頭家老の栗山利安が 上座郡志波村以東の1万8千3百石の領地を長政より拝領して
志波の痲氏良(までら)城の城代として赴任した 二代目となった栗山大膳が 久喜宮に立っていた
「杷伎の市」を志波に移した 『筑前国続風土記』には以下のように記されている
「近代栗山大膳、志波の町を盛んにせんとて、久喜宮の市をやめて、志波に市を立つ。
され共旧(もと)に仍(ならい)て志波の市をも杷伎の市と云。毎年二月廿五日より市立初て、
同晦日に至る。廿七日殊市盛也。商人の仕廻成がたければ、三月廿三日に至りて市残るなり。
又十月廿九日に祭あり。十一月廿六日鎮祭ありて、よく廿七日に到る。」とある
寛永9年(1632)栗山大膳が騒動を起こし 大膳は幕府の沙汰により盛岡藩へ追放された
なお痲氏良城は 遡る元和元年(1615)の「一国一城令」により破却されている
また黒川の英彦山座主の館も300年近く15代の間存続していたが 黒田藩によって破却された
黒田藩は藩内の街道と宿場を整備し 幕府直轄の長崎街道の藩内6宿を含み藩内27宿を数えるが
黒田藩の支配は街道六筋と21宿であった 志波はこの21宿に数えられ郡屋が置かれていたと思われる

六筋と21宿調べるのに一苦労した  備忘録として調べた結果を記す
長崎街道・筑前6宿は 黒崎・木屋瀬(こやのせ)・飯塚・内野・山家(やまえ)・原田(はるだ)で
山家は薩摩街道の起点であるが 次の宿場が松崎で久留米藩領となるため六筋には入っていない
六筋と宿場は次のとおりである
唐津街道 若松・芦屋・赤間・畦町・青柳・箱崎・博多・福岡・姪浜・今宿・前原の11宿
唐津街道の深江宿は豊前中津藩領 浜崎宿は対馬府中藩領で含まず
日田街道 雑餉隈・宰府・二日市・甘木・志波・久喜宮の6宿
三瀬街道(筑前福岡と肥前佐賀の最短ルート) 金武・飯場の2宿
秋月街道
(豊前小倉と筑後久留米を結ぶ街道) 野町の1宿 他は秋月・小倉藩の領地で含まず
篠栗街道(筑前福岡と飯塚を結ぶ) 金出の1宿 飯塚は長崎街道の宿場で含まず
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旧上座郡志波村 集落は 下町・中町・上町に分かれる
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虫歯の神様・伽藍様
志波下町の恵比須
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志波中町 猿田彦大神 恵比須 屋須多宮
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志波上町 黒川・小石原追分 黒川まで5.8km 小石原まで19.8km
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志波上町 須賀神社と猿田彦大神
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杷木志波 旧街道口 大木は大膳樟
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大膳樟と日田街道
栗山大膳は 黒田家の筆頭家老であった栗山利安の嫡男である 栗山家は 黒田長政より杷木志波の
麻底良城の城代として志波以東の領地を与えられ 30年ほど栗山大膳親子の治世が続いた
昔このクスノキの側に大きな池があり「大亀が住んでいて旅人を襲うので退治して欲しい」と
村人から願いが出された一方 別の村人から「あの亀は村の守神だから殺さないでくれ」と頼まれた
現場に出向いた大膳は 池中央の岩の上で甲羅干しをしている牛ほどもある大亀が
長い首を出しにらみ付けるのを見て鉄砲で殺してしまった とたんに黒雲が一面を覆って激しい雨が降り
地面が揺れて香山の半分が崩れ落ちたため 大膳はほうほうのていで逃げ帰った
そのがけ崩れで民家も池も埋もれてしまったが クスノキは残った
以来 このクスノキを「大膳樟」と呼び がけ崩れのことを「大膳崩れ」と呼んだ
その後 当時の楠は延宝7年(1679)に焼失し その根元より生じたのが現在のクスノキである
久喜宮(くぐみや)宿
黒田藩筑前21宿に数えられ 江戸時代には杷木郷の中心地であった 筑前国続風土記には
「久喜宮村 古町 久喜宮村之内 久喜宮町 久喜宮、若市両村の内にあり。」と記されており
西側の久喜宮町と東の古町に分かれていた また「久喜宮町 是より南豊後国日田に行大道なり。
久喜宮町の北側は若市村の境内也。若市の本村は別にあり。
南側は皆久喜宮也。同町にて南北別邑なり。久喜宮町にも又別に本村あり。」と記されている
栗山大膳によって「杷伎の市」が志波に移される前は この久喜宮で市が立っていたとされる
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久喜宮新町 愛宕社
猿田彦大神
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杷木若市 浄土真宗本願寺派 光曜山 西宗寺
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杷木久喜宮中町 浄土真宗本願寺派 江月山 建立寺
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杷木若市 浄土真宗本願寺派 足立山 長念寺
街道を挟んで西宗寺と長念寺は若市村に 建立寺が久喜宮村に属す
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須賀神社
風情のある水路
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久喜宮小学校の石橋
石橋の下は自然石の玉石垣
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久喜宮古町 朝倉市立久喜宮小学校 創立明治7年(1874) 2018年3月閉校
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左側・杷木若市(旧上座郡若市村)右側・久喜宮上町(旧上座郡久喜宮村)
杷木
杷伎郷の志波・久喜宮・若市・古賀・寒水・池田・白木・林田・穂坂・星丸・大山・松末・赤谷村
全てが福岡藩の領地であった 東側は豊後国に接している 明治22年(1889)町村制の施行により
志波村(単独)・久喜宮村(久喜宮・若市・古賀・寒水)・杷木村(池田・白木・林田・穂坂)
松末村(星丸・大山・松末・赤谷)の4村に統合され 明治29年(1896)の郡制の施行のため
上座・下座・夜須の3郡が朝倉郡に統合された 昭和14年(1939)杷木村が杷木町となり
昭和26年(1951)志波・久喜宮・松末の3村が合併して旧杷伎郷全域が杷木町となった
平成18年(2006)甘木市・朝倉町・杷木町が合併し朝倉市となり自治体としての杷木は消滅した

日田街道は北の杷木バイパスと 南の旧国道に挟まれた東西に長く続く町中にある
少し蛇行する道筋は街道の面影を残す 町はずれからは杷木小の前を通り赤谷川堤防に至る
現在架かる頼母橋は街道ルートの南側に新に架けられた橋であろう
頼母橋の由来は 久留米藩の家老・普請奉行の丹羽頼母に因むものと思われる 対岸は久留米藩領で
頼母は大石堰に代表される用水路や筑後川の堤防建設などに功績がある土木技術に秀でた人物であった
長厳塚のある穂坂の峠道は竹藪に覆われ通過することは出来ないが 西・東側共に出入りは可能である
阿蘇神社参道口を過ぎると 堺谷橋で懸界標石が建っている 谷を渡れば豊後国夜明村関である
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昭和22年(1947)米軍による空撮写真
1.久喜宮小学校 2.杷木神社 3.頼母橋と地蔵堂 4.杷木神籠石遺跡
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国道386号線・杷木寒水交差点 旧街道口
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杷木池田の町並み
筑前国続風土記 巻之十一 上座郡池田村の項に「此村の枝村に把伎と云所あり。
把伎は源順和名抄に出たる当郡の郷の名なり。把伎の郷とは、林田、星丸、池田、穂坂、久喜宮などを云。
今は池田の枝村をさして云。此所に把伎二所大明神の社あり。把伎の産神なり。
祭る所の神四座、二座は男神、二座は女神也。此内一神は御母のよし、いかなる神にや、神号詳ならず。
又把伎の郷に野手(のって)の神をあがむ。大凡筑前国の内、そのかみ大友家の領分なりし所の神社は、
宗麟耶蘇宗になられし時、皆火をかけて焼たりしゆへ、旧記文書等悉(ことごとく)ほろびて、
其故実をうしなへる事多し。此把伎の社も宗麟に焼れしが、後に漸興立して、今わづかなる社也。
社は川に近し。近年少なる町を立たり。正月朔日初祭あり。二月廿五日鎮祭あり。
(古は二月廿三日より廿五日まで、一切音樂謡を禁ず。今は然らず。)
同廿七日祭的あり。昔は此祭に、社の前に市をなす。故に把伎の市と云。然れども田圃の中にて、
種植の妨なればとて、いつの時にかありけん、久喜宮にうつる。近代栗山大膳、志波の町を盛んにせんとて、
久喜宮の市をやめて、志波に市を立つ。され共旧に仍て志波の市をも把伎の市と云。
毎年二月廿五日より市立初て、同晦日に到る。廿七日殊市盛也。商人の仕廻成がだければ、
三月廿三日に到りて市残るなり。又十月廿九日に祭あり。十一日廿六日鎮祭あって、翌廿七日に到る。
此摂社に息引の神あり。其前に大なる藤あり。喘息を病るもの、此藤をひけば其病いゆるとて、
方々より来りて引者あり。愚俗のならはしなり。今はさのみ人来らず。其外末社四所あり。」と記されている
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街道は杷木神社前を通る 筑前国続風土記にある「把伎二所大明神」鳥居扁額は「杷岐神社」
祭神は 伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)大己貴(オオナムチ)武甕槌(タケミカヅチ)
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杷木池田 旧上座郡池田村
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謎の洋館
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大内田モータース裏の三差路を下る
白木谷川の深い谷を渡る
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杷木小校門前を通過
旧宝珠山路との追分
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杷木林田 旧上座郡林田村
赤谷川左岸の地蔵
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杷木林田(旧林田村)現・頼母橋で赤谷川を渡ると北側に御堂と猿田彦大神がある
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明治15年の銘
お堂 仏様?神様?
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杷木穂坂の峠道 この先通過困難
峠の長厳塚

長厳塚について
杷木神籠石のある鵜の木山は筑後川右岸に向かって数10mの断崖で 江戸時代には道も整備されたが
それ以前は人馬がやっと通れるぐらいの道幅であった 昔 ここ林田の集落を通りかかった行脚僧が
村人の心からの接待に感謝をし 旅路の難儀を強いていたこの断崖絶壁の安全と道幅拡幅の祈願をするため
土中に自らを入定させ即身成仏となった 慶長4年(1599)旧暦10月18日のことであった
そして翌年には関ヶ原合戦となり江戸時代となる 筑前福岡に着任した黒田長政は 街道の整備に着手し
日田街道も拡幅と整備がされ 狭い山下の道が荷車が自由に通れる広さにまで拡幅され
かつての行脚僧の予言通りとなった 村人たちは僧のことを忘れまいと拡幅された道路脇に祠を建てた
行脚僧の名を「長厳」(ちょうごん)と言い 今日まで「おちょごんさま」と呼ばれ大切に祀られている
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長厳塚の峠道
老人ホーム「日迎の里」横に峠出口
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国境の村杷木穂坂 旧上座郡穂坂村
筑前国続風土記に「是上座の東南のはしにて、豊後境也。村より豊後のさかひ目迄、六町二十三間あり。
久喜宮より穂坂へ一里。又穂坂より杷伎の渡を越て、筑後生葉郡吉井へ二里半あり。
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穂坂村の猿田毘古神
国道に出る下り道
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杷木穂坂 街道跡の国道386号
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阿蘇神社
筑前国続風土記に 「阿蘇大明神 穂坂村の産紳也。肥後の阿蘇大明神を勧請せしと云。御社は村より
二十町ばかり山の奥にあり。則其所を阿蘇山といふ。一嶽、二嶽、三嶽とて、いと高き岩山あり。
其内一嶽といふ大岩の内に、横三尺、長一間の石あり。則是を神体と崇め侍る。」とある
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チンチンと逆立ちの狛犬
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拝殿と鯰の石像
熊本県阿蘇市にある「阿蘇神社」は肥後国の一宮である  阿蘇神社は熊本県内を初め広く勧請され
分社・末社を合わせて300社を超えると言われる
そのひとつに 阿蘇神社の北宮とも呼ばれる阿蘇国造神社をはじめとし「鯰」を祀っているところがある
阿蘇神社と鯰の関係について 阿蘇神社の社家の人々は いまなお鯰を食べないとか
鯰は 古代阿蘇カルデラ湖の主であったとか また阿蘇大明神の使いとされてきたとか
謂われがいろいろあるらしい 古代部族「阿蘇氏」と鯰の関係 ぬるぬるとつかみ所がない
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阿蘇神社に移設された 旧領界標石
旧領界標石には「谷川半境」と刻まれ 谷川の中央が領界であることを表している
裏面には「従是北西筑前領」と刻文字があることから 筑前福岡藩の建立によるものである
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