「東海道中膝栗毛」初編小田原宿の一節(現代訳)

・・・・・二人は、それよりさらに、歩いていくと、小田原の宿場の中心街に着いたのか、
両側の宿の留め女が、いっせいに声を掛けてくる。「お泊りなさいませ。お泊りなさいませ。」・・・・・

・・・・・と、やがて宿屋に着いたので、亭主は先に駆けだして家にはいりながら、「さあ、お泊りだよ。
おさん、おさん、お湯をとってきなさい。」と、奥に、声をかける。その声に、奥からこの宿の女房走り来て、
「ようこそおいでくださいました。」と、そこへ手をつく。その後ろから、女中が、茶を二つくんで持ってくる。
その間に女中のおさんが、たらいに湯を入れて持って来る。
弥次郎兵衛は女の顔を横目にちらりと見て、小声で北八に呼びかける。「見てみろ。あの女中。なかなかだ。」
そういう弥次郎兵衛の声で、女中を見ると、確かにこれがいい女。「ようし、今夜は、あいつをものにしよう。」
「ふん、どうだか。それは、こっちのせりふだ。」と、弥次郎兵衛と北八は小声でやりあう。
「あれ、お前、草鞋もとかずに足を洗うか。」と、言われて、北八自分の足を見ると、まだ、草鞋をはいたままだ。
「おっと、いけない。ちょっと焦った。ハハハ。」あわてて、草鞋をとくと、「いい湯をだいなしにした。」と、
ぼやきながら足を洗い、座敷へ通った。・・・・・

・・・・・と、この間に女中が煙草盆を持ってきた。
「もし、女中さん。湯が沸いていたら入りたいんだが。」と、
今度は、弥次郎兵衛が笑いながら、
「これは、これは、北八。お前は本当に何もに知らないな。湯がわいたら熱くて入られるものか。
それをいうなら、水が沸いて、ちょうどいい湯になったら、はいりましょう。って言うんだ。」
と、またまた、二人で大笑い。

調べてきましょうと、一旦出ていったこの宿の女中が戻って来て、「ええ、ちょうどいい湯加減です。
入ってきたらどうですか。」と、言うので、それを聞いた弥次郎兵衛は、
「そうか、水が沸いたか。どれ、入ってくる事にしよう。」と、すぐに手ぬぐいを下げて風呂場へ行くと、
そこには、上方で流行っている五右衛門風呂があった。どうやら、この旅館の亭主は、上方出身のようである。

五右衛門風呂とは、ちょうど人がすっぽり収まるくらいの、お寺の鐘のようなものを逆さまにしたような形の、
まわりを漆喰で塗り固めた風呂である。しかもこの風呂にはふたというものはなく、
img
底板が上に浮いているから、それがふたの代わりになって、
早く湯がわく理屈である。また、湯にはいるときは、
底板を下に沈めてその上に乗ってはいる。
そうしなければ、釜がじかにあたって熱いからだ。

弥次郎兵衛は、話には聞いていたが、初めてこの風呂に入るので、
つい、ういている底板をふたが落ちたものと思い込み、
それを取り除けて、すっと片足を踏み込んだところが、
釜の底が直にあたって、足の裏をやけどした。
「あちちち、何だこりゃ。どうやってこんな風呂にはいるんだ。」
と、風呂の前で腕組みしていろいろと考えだした。
これはどうして入るのかと聞くのもなんだか馬鹿々々しいので、
とりあえず、外で体を洗いながらそこらを見渡すと、
便所の下駄がそばにある。
こいつは面白いぞと、その下駄をはいて湯の中へ入っていると、
北八が待ちかねて湯殿をのぞきにきた。

弥次郎兵衛はゆうゆうと、なにやら鼻歌などをうたっている。
「お半、涙のひとつほども・・・。」 それをみた北八、
「おお、こりゃ五右衛門風呂じゃないか。
どうりで長湯だと思った。そんなに気持ちがいいのか。
弥次さん、いいかげんにあがれ。俺もはいってみたい。」
弥次郎兵衛、そんなことはお構い無しに、「おい、北八、俺の手をさわってみてくれ。」
「なぜだ。」「もう、ゆであがったかどうか調べるんだ。」北八は、あきれたように、
「野菜を茹で上げているんじゃない。まったく、いい気なもんだ。」と、座敷へ戻っていく。

さて、弥次郎兵衛は湯から上がって、例の下駄を片隅に隠して、素知らぬ顔で、
「さあ、でたぞ。お前も入ってこい。」と、声を掛ける。
北八、まってましたとばかりに、早々、裸になると、一目散に風呂に行き、片足を突っ込み、大声をあげる。
「あちちち、弥次さん、弥次さん、大変だ。ちょっと来てくれ。」
弥次郎兵衛は、想像していた通りの事が起こったので、内心笑いながら、さも、慌てた様子に、
「なに、なに。どうしたんだ。いったい。」と、風呂に駆けつける。

北八は、右足をさすりながら、「お前、一体どうやってこの風呂へ入ったんだ。」
弥次郎兵衛は、笑いをこらえながら澄ました顔で、「簡単なことだ。いいかよく聞け。風呂へ入るのに、
要領がいるものか、まず、外で金玉をよく洗って、そして足から先へ、どんぶりこっこ、すっこっこ。」
と、弥次郎兵衛が答えるのを、北八はムッとしながら、「ふざけんな。この底は、じかに釜じゃねえか。
このまま、入れるわけがねえ。」弥次郎兵衛は、必死で笑いをこらえながら、
「お前も見ただろう。さっき、俺がそうやって入っていたんだ。」
そういうのにも北八は耳を貸さず、「うるせえ、お前は、どうやって入ったんだ。」
「なんと、しつこい男だろう。風呂へ入るのに、どうして入ったとは何のことだ。」
弥次郎兵衛がまともに答えないので、北八は、考えている。
「なあに、難しいことはない。初めのうちは、ちょっと熱いが辛抱すると、後はよくなってくる。」
弥次郎兵衛が言い募るが、北八、首をふって、
「馬鹿な事をいうな。辛抱してよくなる前に、足が真っ黒に焦げてしまうわ。」
「そんなら、すきにしろ。」と、弥次郎兵衛は、おかしいのを堪えきれずに、座敷へ戻った。

北八は、そこらを見回して弥次郎兵衛が隠した下駄を見つけ、ははん、読めたと肯いて、
すぐにその下駄をはいて風呂の中へはいり、 「弥次さん、弥次さん。」
と、また、弥次郎兵衛を呼び付ける。

「なんだ、なんだ。まだ、なにかあるのか。」と、弥次郎兵衛が風呂にもどってみると、
風呂に浸かって澄まし顔の北八、「なるほどお前のいう通り、じっくり入って見るとちっとも熱くない。
いや、逆にいい心持ちだ。あわれなるかな石童丸は、てんつく、てんつく。」と、
これも、鼻歌交じりに弥次郎兵衛に言う。さてはと、弥次郎兵衛は、あたりを見まわし、
隠しておいた下駄がなくなっているので、こいつ見つけたなと、おかしく思っていると、
北八はさすがに尻が熱くなって、釜の中で立ったり座ったり、あんまり下駄で釜の底をがたがたと踏み散らしたので、
ついに釜の底を踏み抜いてしまって、べったりと尻餅をつけば、湯はみんな流れてシゥシゥシゥシゥ。

「こりゃいけない。助けてくれ。」と、風呂の中からでようとする北八に、
笑いながら弥次郎兵衛は問い掛ける。「どうした。どうした。ハハハ。」
この旅館の亭主が、北八らのあげる音に驚いて、裏口から風呂にまわってびっくりした。
「なんだ。こりゃ。どうなさいました。」北八は、風呂の横で、四つんばいになって、尻をさすりながら、
「いや、どうもこうもない。命に別状はないが、どうやら、ふろの釜の底が抜けたみたいだ。」
その言葉に旅館の亭主は、更にびっくりして、「はて、これは、また。どうして底が抜けたんだ。」
「いや、なに、つい下駄で、ガタガタやったからだろう。」
と北八が言うので、亭主は不思議そうに、北八の足を見て、下駄をはいているので、
「いや、お前さんは、風呂へ入るのに、下駄をはいて入ったのか、ふざけたことをする。一体どういう事だ。」
と、北八に言う。北八それで、小さくなりながら、「いや、俺も最初は、裸足で入ってみたんだが、
あんまり熱いから、この下駄を履いてはいったんだ。」「なんと、馬鹿なことをする。」
亭主は、怒りながら風呂の入りかたを説明する。
北八は、恐縮しながら、こそこそと体をふいて、いろいろ言い訳をする。それを見ていた弥次郎兵衛も
気の毒に思ったので、仲裁にはいり、釜を弁償する事で話がまとまった。

東海道中膝栗毛は文化2年(1805)に刊行された 十返舎一九の著作
初篇 - 意訳東海道中膝栗毛:https://sites.google.com/site/hofurinktokaido/home/tk21
膝栗毛とは 自分の膝を栗毛(=馬)に擬した言葉で 徒歩で移動することを指す