2016.04.10 外宮から内宮へ 弥次さん喜多さんの道「古市参宮街道」を歩く

伊勢の古市
江戸時代になる前の古市は 度会郡楠部郷の丘陵地にあるため水の便が悪く民家も少ない寂しい所であった
江戸時代に入ると街道が整備され各地に関所や番所が設置されたが 一般庶民の移動は厳しく制限されていた
しかし身元がはっきりした庶民には 伊勢参りをはじめ日光東照宮や善光寺参りなど全国有名寺社の
参詣道中手形の発行は無条件で許可されていた また参詣にかこつけた庶民の旅は
  一生涯に数少ない観光目的の旅でもあり 有名社寺の門前には歓楽街が出現するようになった
「お蔭参り」ともよばれた伊勢参りは 度々爆発的なブームを巻き起こし 農民もくじ引きで代参するための
伊勢講を組んで旅費を捻出し伊勢神宮を訪れた 江戸中期以降は参詣客の増加とともに
参拝後の精進落しを目的とする人も増加し 江戸時代初期に外宮・内宮を結ぶ古市に遊女をおいた茶屋が現れ
元禄年間には高級遊女も抱える遊郭もできはじめ歓楽街として発展した
最盛期の天明年間には 妓楼70軒・遊女千人・浄瑠璃小屋も数軒という賑やかさで活気に溢れ
「伊勢参り 大神宮にも ちょっと寄り」という川柳が江戸で流行った
古市が「東海道中膝栗毛」に登場する江戸末期には 北の倭町から中之町まで娼家や酒食旅籠が並び
幕府非公認ではあったが 江戸の吉原・京都の島原と並ぶほどになり 三大遊郭の一つとして名を知らしめた
代表的な妓楼は 備前屋・杉本屋・油屋・千束屋(東海道中膝栗毛に載せられた)などがあった
明治になって丘陵地を迂回する新道路が整備されてからは急激に衰退し 1930年代頃には娼妓の数も
135人に減少し 現在では麻吉旅館が宿泊施設として1軒残るのみとなった
麻吉は斜面に建てられた木造6階の建物で 明治期には眺望がよい料理屋兼旅館「聚遠楼」として知られていた
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国土地理院 色別標高図
1.豊受大神宮(外宮) 2.小田橋 3.お杉お玉の碑 4.備前屋跡 5.古市芝居跡 6.油屋跡 7.麻吉旅館
8.両宮常夜灯 9.宇治惣門跡 10.猿田彦神社 11.おはらい町・おかげ横丁 12.宇治橋 13.皇大神宮(内宮)
外宮前観光案内所で参宮街道マップを貰って出発 距離は約6km弱・所要3時間の道程である
<修道まちづくり会発行のガイドマップ>
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AM 10:55 伊勢市本町 下宮前交差点 観光案内所のある交差点
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マリア保育園角
祖霊社の両宮永代常夜灯
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近鉄鳥羽線
小田の橋掲示板
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小田の橋 西詰
小田の橋 東詰の案内

小田橋の掲示板内容 <東海道中膝栗毛・現代語訳>
勢田川のこの辺りは、昔「御贄川(おんべがわ)」と呼ばれた時代があった 御贄とは神様にたてまつる
御供物のことで、神宮の御饌(御供物)をここを通って運んだからである 小田の橋はこの川に古くから
架かっていた そして 江戸時代になると多くの文書にその名が書かれている それは、この橋が
外宮と内宮をむすぶ参宮街道にあってよく知られた橋だからである
この橋を渡って向こうに見える尾上坂を上り 日本の五大遊里の一つ古市(間の山)を経て内宮へ至る道は
嘗て お伊勢参りの人々が辿った歴史的な道で 往時の賑わいが偲ばれるところである
また その当時内宮・外宮の御遷宮用材がこの橋詰めに着き 両宮への御木曳きがここから行われた
新しい小田の橋は 勢田川の改修に伴い昭和63年3月に造替され 橋長33.2m 橋幅7.2m
欄干を飾る擬宝珠は 嘗て 徳川三代将軍家光の乳母である春日の局が寄進したという故事に倣い作られた
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伊勢参宮名所図会 御贄川(勢田川) 小田の橋
伊勢参宮名所図会は 寛政9年(1797)に刊行された図会 著者は不詳であるが挿絵は大坂の浮世絵師
蔀関月(しとみかんげつ)の手によるものである 京都三条及び桑名の渡しから内宮までの名所を描く
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小田橋の上流・簀子橋の道標(移設)
すぐ御さんくう道 妙見町  右御さんぐう 妙見町/古市 道
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簀子橋の道標 所在伊勢市尾上町
簀子橋は小田橋とともに 勢田川の上流にかかる代表的な橋の一つであった 寛永20年(1643)の
古地図にも描かれ 橋名の由来は 竹を編んだ簀子の上に土を置いた橋の形態からつけられたとされる
 道標の元位置は 橋の東詰で 次の文字が刻まれている(「すぐ」は直進の意味である)
(西面)右御さんぐう 妙見町/古市 道   (南面)すぐ二見 川崎神やしろ/左り みや川 道
(東面)弘化四丁未年(1847)/九月吉日再建  催主 隠岡 永昌社中
(北面)すぐ御さんくう道 妙見町(尾上町)    伊勢市教育委員会
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妙見町 古民家の珈琲ショップ「野の亀蔵」とバー「de Horreo」
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自然木の看板に「古民家テナント」
古民家テナント
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伊勢古市参宮街道
江戸時代中期の小田橋から常明寺門前町(倭町)付近の図 (文化12年(1815)伊勢山田之図)
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「伊勢にいきたい伊勢路がみたい せめて一生に一度でも」と道中伊勢音頭にうたわれたように
江戸時代の伊勢参りは 幕府公認の旅で庶民の夢であった 全国の津々浦々から胸躍らせて伊勢参りに向かう
人々の群れは 慶安3年 (1650)・宝永2年(1705)・明和8年(1771)・文政13年(1830)・慶鷹3年(1867)の
「おかげ参り」に全盛期を迎え 多い時には半年間に約458万人の参拝者があったと記録に残されている
外宮から内宮へ向かう古市街道は伊勢参りと共に繁栄し 現在でもこの古市街道周辺には お紺の墓のある大林寺
千姫の菩提寺であり画僧月倦が住職であった寂照寺 天細女命(あめのうずめ のみこと)を祭神とする長峯神社や
桜木地蔵など 往時を偲ばせる名所旧跡が残されている
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間の山 お杉お玉の碑
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尾部坂は「間の山」と呼ばれた 起矢食堂で名物・伊勢うどんを食べる
伊勢参宮名所図会に描かれる お杉とお玉
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江戸時代 間の山(尾部坂)の道端には大道芸人が多く出て賑わっていた 中でもお杉とお玉の両名は
三味線に合わせて唄いながら客の投銭を上手く躱すことで知られ 東海道中膝栗毛の一節にも登場する
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伊勢参宮道では注連縄を年中飾る
古市屈指の妓楼・備前屋(牛車楼)跡
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妓楼・油屋跡 近鉄鳥羽線跨線橋北詰
長峰神社

長峰神社の主祭神は天鈿女命(アメノウズメノミコト)である 長峰とは文字通り長く続く峰
即ち外宮と内宮の間に横たわるこの古市丘陵の地形に由来している 祭神の天細女命は 天岩戸の前で
舞をまったとされる女神で 伊勢音頭の遊女や古市歌舞伎の役者の祖神として祀られてきた
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麻吉旅館に寄る
麻吉旅館は崖山に建つ五層六階の建築で 幕末の嘉永4年(1851)に建てられ古市で唯一残る旅館となった
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麻吉旅館前の道標 左 あさま/二見へ ちか道(あさまとは朝熊山金剛証寺)右面:此おく つつらいし
つづら石は 「伊勢参宮名所図会」によれば 「高さ八尺余、横二丈許、石重なりてつづらの形に似たり、
今は注連を引て小社とす、此傍に観音堂あり、是を大岩の観音といふ、春は桜多く咲て騒客遊宴の地とす」とあり
元は小高い山の上にあったが 宅地造成や伊勢自動車道の工事により麻吉旅館の下に移設された
移転に伴い大きさも縮小されて 現在は浅香稲荷が祀られている
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麻吉旅館
本館・土蔵・聚遠楼・名月・雪香之間・前蔵が国登録有形文化財に指定 現在も営業中
創業年は不明だが 天明2年(1782)の『古市町並図』に記載されている もとは「花月楼 麻吉」という茶屋で
明治時代は県下でも珍しい三層楼の建物として知られ 伊勢音頭の舞台を持ち 芸姑も常時30人程を抱える
県下第一級の大料理店だった 現在 中心となる建物が5棟あり 様式としては懸崖造りで最上層まで6層に及ぶ
麻吉は 嘗ての古市の華やかさを偲ぶ事ができる 唯一の存在となった
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伊勢参宮名所図会 古市
古市には 江戸の吉原・京の島原と並ぶ三大遊廓があり 全盛期には妓楼70軒・遊女1,000人を数えた
特に油屋・備前屋・杉本屋は古市の三大妓楼として有名であった 寛政8年(1796) に 油屋で起きた
医師・孫福斎による 遊女お紺をはじめとする殺傷事件(古市十人切り)は 後に近松徳三により
『伊勢音頭恋寝刃』という歌舞伎になり 現代でも演じられている
当地で行われた伊勢歌舞伎は 江戸と上方の中間にあり かつての松本幸四郎や尾上菊五郎らも来勢するほど
役者の登竜門として有名であった また 千束屋(ちづかや)は『東海道中膝栗毛』にも登場する
有名な妓楼であったが 後に歌舞伎用の貸衣装屋となり伊勢歌舞伎を支えた
麻吉旅館の他 昭和40年代まで存在した大安旅館なども古市を代表する旅館であった
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掲示板の参宮道旧旅館写真
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寂照寺 家康の孫「千姫」の菩提寺 延宝5年建立
伊勢古市参宮街道資料館
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道標 月よみの宮さんけい道(内宮別宮 月読宮)
 主祭神は 照大御神の弟神・月読尊天
江戸南町奉行へと出世した大岡越前守忠相がお参り
していたことから 出世地蔵として信仰されている
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両宮常夜灯
奉献は東京神田旭町・富樫文治  大正3年2月27日に建立 管理者は油屋旅館が努めていた
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牛谷坂
黒門橋北詰めにある宇治惣門跡の碑
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黒門橋を渡ると猿田彦神社
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PM 1:10 内宮参道の「おはらい通り」
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菊の御紋と鯱の棟瓦
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桜に誘われ 五十鈴川の川辺りへ
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「おかげ横丁」正面入口あたりは人がいっぱい
宇治橋を渡ると内宮の境内
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伊勢参宮名所図会に描かれた宇治橋 東海道中膝栗毛の一節に
・・・・・・・・・三人は更にに歩いていって、
「で、この橋は宇治橋というのか。」と、弥次郎兵衛が、上方者に問いかけると、
「さよじゃ。あれ、見さんせ。網で金をうけている。」というのでそのほうを喜多八がみると、
竹の先に網をつけて人がなげる金をうけとめている。上方者が、「弥次さん、小銭があらば、ちと貸しさんせ。」
と、弥次郎兵衛から金を借りると、さっさっと放りなげる。下にいる連中は、それをすべて見事に受け止める。
「えろうおもしろいな。よう受けくさる。もちっと放ってこまそかい。これ、北八さん。お前もちと貸しさんせ。」
と、今度は、喜多八から金を借りると、さっさっと放りなげる。・・・・・・・・・・
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今は小銭を投げる者も これを拾う者もいない 江戸時代は大らかだったのかも知れない
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五十鈴川の禊場
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内宮・正宮
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PM 2:25 車は外宮駐車場に駐めたままである
喧騒のおはらい通りを跡にして三重交通バスで内宮前から下宮前まで乗車し外宮駐車場に戻る
運賃は430円 乗車時間は庁舎前経由で約11分である 
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