弥次さん喜多さんのお伊勢参り

文化3年(1806)に刊行された 十返舎一九の代表作『東海道中膝栗毛』には、弥次さん喜多さんのお伊勢参りが
描かれています。物語はフィクションですが、そこには当時実在した建物や人物が登場します。
二人の珍道中に描かれた古市界隈の情景をご紹介しましょう。
(掲示板内容を編集追記)
<参考:意訳 東海道中膝栗毛 https://sites.google.com/site/hofurinktokaido/home>

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◇妙見町の旅籠「藤屋」
 弥次喜多は、明星村の茶店で上方者と道連れになった。道々、上方者は弥次郎兵衛を気に入り「これから、山田の妙見町に一緒に泊まって、古市をおごろかいな。」という。
 弥次喜多と上方者の三人連れが山田の茶屋で休んでいると、太々神楽を奉納する太太講の一行と同席となり、弥次郎兵衛の町内の米屋・太郎兵衛と偶然に会ってしまう。米代を払わずに内緒で旅立ったことから気まずい思いだったが、同郷のよしみで馳走の席に喜多八とともに呼ばれる。座敷では後から来た太太講の一行も合わさり大賑わいとなった。
 やがて酒盛りも終わり二組の講が一斉に退出するため表は大混雑となった。米屋の太郎兵衛が、ろれつの回らない口調で、弥次郎兵衛の手をとると、「おい、弥次公。貴様は俺のかごに乗っていけ。」と、弥次郎兵衛に言ってきた。弥次郎兵衛は断るが「いや、俺はここから酔い覚ましに歩いて行く。貴様洒落に乗っていけ。」と、なおも、太郎兵衛が、しつこく言うので、弥次郎兵衛は、「なるほど、それなら乗らしてもらおう。」とかごに乗ることにした。
 しかし、混雑しているからか、それともただの間抜けか、弥次郎兵衛の乗った駕籠人足は、後から来たほうの駕籠の群れへ紛れ込んだのに気が付かないで、さっさと担いで行く。ところが、他の連中も、この混雑の中で、誰もそれに気がつかない。
 しばらくして弥次郎兵衛の駕籠は岡本太夫宅についたが、貴様は誰だと罵られ、挙げ句の果てに盗人呼ばわりされる始末。そうこうしていると御師の使いが、「いや、面白い人じゃ。ああ、思い出した。お前の行く所は内宮の山荘太夫どのじゃわいの。さっきの使いが山荘太夫じゃからな。ここから妙見町をまっすぐ行って、古市の先へいって尋ねさんせ。」と教えてやると、「はあ、そうか、こりゃ有りがたい。本当に、賑わせました。」と、弥次郎兵衛が出て行くと、連中は「えらいあほうじゃ、ははは。」と、どっと笑う。
 弥次郎兵衛は、腹が立ったが怒ってもしょうがないと、しょぼしょぼと教えられた通りに歩き出した。道すがら喜多八はどうしたかなと思い、米屋の太郎兵衛らといっしに御師の方へ行ったものか、あるいは上方者と妙見町に泊まったものかと思案しながら歩き、やがて参宮道の広小路に着いた。
 「まてよ、その妙見町で連れの上方者が泊まるといっていた宿は、さて、何屋だったか。」と、思い出そうとしたが、『藤屋』というのが出てこない。もう少しで、出てきそうなんだがと、弥次郎兵衛が、歩きながら、まだも思案していると、ふと、棚からぶらさがっているような名前じゃなかったかなと思い出した。それで、「もしもし、妙見町にぶらさがっている宿屋はございませんか。」などと聞いて歩くものだから、首吊りがあった家や、棚から落ちた牡丹餅を食って、咽をつめて死んだ家を教えられたりしてなかなかたどり着けない。やけくそになった弥次郎兵衛が、ある家の前で「もし、棚からおちた家は、お前さんとこじゃあございやせんか。」と、とんでもないことを言う。
 すると、この家の女房らしき女が出てきて、「いいえな、私のとこの家は元からここで、いまだかつて棚へ上げておいたことはない。」と、言うのを聞いて「はあ、他には、ございませんか。」と、弥次郎兵衛が、女房に問うと、
「そりゃ、お前さんの、聞き違いじゃあろぞいな。山から落ちた家じゃおませんかいな。それじゃと、相の山の与次郎の小屋がこの間の風で、谷へふきおとされたということでおますがな。うん、それじゃろいな。」と、勝手に納得してしまう。
 弥次郎兵衛は、「いや、それでもない。こりゃあ、困ったことになった。何が何だか、さっぱりわからなくなってしまった。何もかも無くしてしまったようだ。」と、この店先に腰掛け、「さっきから尋ねまわして、もうもう、がっかりとくたびれました。どうぞ、一服させてください。」と言う。
 この様子に、ここの亭主気の毒そうに煙草盆を下げてくると、「さあ、一服しなされ。いったいお前さんは、どこを尋ねさんすのじゃいな。みたところ、参宮らしいが、お一人か、あるいは、お連れでもおますかいな。」と親切に接してくれる。「さようで、道連れは二人おります。私はその連れにはぐれて、こんなに困ったことはございません。」と、弥次郎兵衛は、いいながら煙草を吸い付ける。
 亭主は、あれっと言う顔で、「いや、もしかすると、そのお二人のお連れは、お一人は、お江戸らしいが、今一人は、京のお人で、目の上にこのくらいの、出来物のあるお方たじゃおませんかいな。」
 「そうそう、鼻くそがついたような。」と、弥次郎兵衛が、上の空で答えると、亭主はほっとしたように、「それじゃと、家にお泊りのおかたじゃさかい。泊まりの手続きを済ましてから、すぐに、お前様のお迎えを出しましたわいな。」と言う。ぼおっと聞いていたが、亭主の言うことが次第に飲み込めてきて、「そりゃ本当か。やれうれしや。そういえば、お前のところの名前は、何屋といいます。」 と、弥次郎兵衛が聞くと、亭主は、表の看板を指差しながら、「あれ、御らんなされ。掛札に藤屋とかいておますがな。」と言う。・・・・・

◇「藤屋」は現存しないが、その場所は古市へ上る尾部坂に向かって右手、寿厳院下の広場あたりである。
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◇古市の妓楼「千束屋」
 その夜上方者に誘われ、神宮参りもせぬうち「藤屋」の亭主の案内で、古市へと繰り出した上方者と弥次喜多の三名であった。
 しかし、弥次郎兵衛が上方と江戸の流儀の違いから、目当ての「おやま」を相手に選ぶことが出来ず、上方者と言い争い、挙げ句の果てに拗ねて帰ろうとする。
 そこへ、弥次郎兵衛の相方のおやまの花江が来て、「お前さんは、そないに帰る帰るといわんすが、わしがお気にいらんのかいし。」とねじ込まれ、「いや、そうでもねぇが・・・」と言いながら、なおも帰ろうとすると、「なら、帰らんでもいいやし」と無理矢理に羽織を脱がされ、あげくに帯も解かれてしまいそうになる。
 弥次郎兵衛は、垢じみて汚れた越中褌を締めていたので、ここで裸にされたはたまらないと、あわてて帯を抑えると、「わかった。もうかんべんしてくれ。」と言うと、初江が「そじゃさかい、ここにいさんすか。」といい、仕方なく弥次郎兵衛は「いるともいるとも。」・・・・
 それぞれが相方の部屋に引き上げる段になって、いたって見栄っ張りな弥次郎兵衛は、醤油で煮たように汚れている褌がことのほか気にかかり、見られては恥の上塗りと、ふところから手を入れて、そっと外して廊下の格子の間から庭に放り出してしまう。・・・・・・・・
 翌朝、引き上げようとする弥次郎兵衛たちを見送りに、おやまどもも廊下に出てくると、一人のおやまが格子から何か見えるので覗いている。「これこれ、あれ、見さんせ。庭の松に浴衣がかかってあるわいなあ。」・・・・・・
 そこで黙っておれば良いものを、「ははあ、こいつはおかしい。三保の松原の羽衣の松じゃあねえ。褌かけの松とは、珍しい。」と、それが褌であることを当の弥次郎兵衛がつい口を滑らしてしまう。そこで、北八がよく見てみるとたしかにそれは褌だ。「弥次さん。ありゃ、お前のじゃねえのか。」 初江が、なにか思い出しように、「ほんに、それじゃ。お前さんの褌じゃないかいな。」と、弥次郎兵衛の顔を見て笑う。・・・・・
 初江は、この騒ぎに出てきた下男に話しかけ、「そうじゃいな。おほほ、これこれ久助どん。そのまわしはお客さんのじゃ。取ってくだんせ。」久助と呼ばれた男は、持っている竹ぼうきの先で、例の褌を起用に取ると、初江のところまで持ってきた。
 「さあ、褌がやってまいりましたぞ。それ、取らんせ。取らんせ。」 初江が、それを摘み上げると、「おお、臭い。」
と、思わずそこにほっぽり出してしまう。
 「ははは。弥次さん、ほれ、拾ったらどうだ。」と、褌を指差しながら言うと、「ええ、情けないことをいう。俺のじゃないというに。」と、弥次郎兵衛は、そっぽを向いてしまう。
 喜多八が、「そんなら、お前、前をまくって見せろ。」と、弥次郎兵衛を捕まえると、帯を解こうとする。
 弥次郎兵衛は、そんな北八から、逃れると、そのままにげ出して行く。
 居揃う皆が、「おほほほ。」「わははは。」と、大笑い。・・・・・・・

◇ 「千束屋(ちづかや)」は古市屈指の規模を誇る妓楼であった。ここには、50畳敷の伊勢音頭を踊る「鼓の間」があり、襖や欄間は言うに及ばず、什器、茶器、煙草盆にいたるまで、鼓の絵が描かれ、全国的に知れわたっていた。
 千束屋初代市右衛門と妻里登は、古市から内宮に抜ける峻険な牛谷坂を改修するため、総額一千両にも及ぶ寄付を行い、地域社会にも貢献している。夫の死後、里登は妓楼を廃業し、歌舞伎用の貸衣装業に転じた。古市は遊郭だけではなく、歌舞伎も盛んに演じられた場所であった。
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 さて、「藤屋」に戻ってきた三人は、いい天気なので急いで内宮と外宮のお宮参りをしようかと、再び古市へと上る。途中の「間の山」には、露天が店をだして客を呼び込んでいる。
 そこに、有名な「お杉とお玉」のような女たちが、やや高い音調の三味線を弾いているが、弾き方が無茶苦茶で何の歌かわからない。行きかう旅人の一人が、この女の顔をめがけて銭を投げつけると、うまい具合にそれぞれに顔をふりよける。
それを見ていた弥次郎兵衛が、「あっちの若い方に、ぶつつけてやろう。」と、銭を二、三文投げると、さっとよけてしまってあたらない。
 「べんべら、べんべら。」と、女らは馬鹿にするように、やたらと三味線を弾いている。
 「どれ、俺が当ててやろう。」と、今度は、北八が投げるが、やっぱりあたらない。
 上方者が、「いくらやっても、お前がたでは、どないに放りさんしても、相手は当てさせるものではない。」と言う。
 ちょっと考えて、弥次郎兵衛が、「今度は見てろ。これでどうじゃ。」と、銭をとめている紐ごと投げつけた。
 これを見ていた喜多八は、「おやおや、あんなでかい物もあたらんか。」 「こりゃ、あんまりしゃくにさわる。」
と、小さな石を拾って投げた。
 女どもは、その石を器用にばちで受けると、ひょいと投げ返す。するとその石は、弥次郎兵衛の顔にぴっしゃりと、あたってしまう。
 「あいたたた。」と、弥次郎兵衛が、顔を抑えるのをみて、「ははは、こいつは大わらいだ。」と北八が笑っている。

◇尾部坂に実在した「お杉・お玉」は固人名ではなく、同時に何組も何代にも渡って存在した女性大道芸人の通称である。
 三味線に合わせて「間の山節」を唄ったが、旋律や節まわしは不明である。また、宇治町へ下る牛谷坂にも「お鶴・お市と呼ばれる同様の芸人がいた。明治になり、一度は途絶えたが、興行として復活し舞台小屋で大正15年(1926)まで続いた。「間の山」の跡地には「間の山 お杉お玉」の碑が建っている。