2016.04.08 三重県亀山市 東海道五十三次・亀山宿

伊勢国鈴鹿郡亀山は 東海道五十三次の46番目の宿場であり 伊勢亀山藩六万石(幕末期)の城下町でもある
亀山城は 胡蝶城と呼ばれる優美な城であったが 現存する建築物は 江戸時代の初頭に取り壊され 後に
天守の代替として建てられた多聞櫓のみを残し 天守台や復元された二の丸帯曲輪などが史跡指定されている
伊勢亀山藩は 江戸時代の初めに外様大名の関一政が入城した その後は 一時期天領となったことを除けば
徳川家譜代の大名による統治が続き 徳川家が上洛する折りには宿所とされたことから
参勤交代の諸大名は 亀山宿に宿泊するのを遠慮したといわれている
幕末期に於いては 東の露心庵跡から西の亀山城京口門まで 約2.5kmの範囲が亀山の宿場町とされる
江戸時代初期には 江戸口門(東の惣門)から京口門(西の惣門)までが城下で
その内 江戸口から大手門に至る東町が城下の旅籠町であった その後 往来する旅人の増加とともに
江戸口から外へ町屋が拡がり東新町や本町ができ 最東端には遊興街の茶屋町が出来た 江戸口から京口までの
街道筋は 見通しのきかない曲がりくねった複雑な道や坂道が多く、城下町の特徴を表す町並みとなっている
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歌川広重 東海道五十三次之内 亀山 雪晴
この絵は「亀山に過ぎたるもの」といわれるほど豪華だった京口門と 竜川に架かる橋から門まで続く
京口坂の急坂を 早暁の中 登って行く大名行列を描いたもの 遠景の家並みは北野の侍屋敷
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露心庵跡と能褒野神社二の鳥居
本町三丁目「やまがたや」前
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東町二丁目交差点 街道は右から来て左へ曲がる 大通りは県道566号亀山城跡上野町線
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本町二丁目 昭和の佇まい
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江戸口門(東の惣門)跡と旧街道
江戸口門跡
延宝元年(1673)亀山城主の板倉重常によって築かれた。 東西120m、南北70mで、北側と東側に堀を巡らし、
土塁と土塀で囲まれた曲輪を形成し、東端には平櫓が一基築かれていた。
曲輪内は3つに区画され、それぞれが析形となっていた。
この築造には領内の村々に石高に応じて人足が割り当てられ、総計2万人が動員され ている。
西側の区画には番所がおかれ、通行人の監視や警固にあたっていた。ただ、江戸時代前期においては
この位置が亀山城下の東端と認識されていたことから、江戸口門は東海道の番所としてではなく、
城下西端の京口門とともに、亀山城惣構の城門と位置づけることができよう。
現在は往時の状況を示す遺構は存在しないが、地形や地割、ほぼ直角に屈曲した街路にその名残をとどめている。
平成15年3月 亀山市教育委員会
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大手門跡 江ヶ室交番前交差点
枡形道の北(江戸)側
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枡形道 南(京上方)側
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亀山城堀端 西町の坂 御菓子司「出雲屋」は搗きたての餅が美味い
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道標のある辻 右(北)郡役所  左(南)停車場道
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<上左>右東海道 左停車場道
<上右>右郡役所 左東海道

<左>停車場道標裏面 大正三年寄贈者田中音吉

亀山駅は 民営の関西鉄道(株)による四日市−柘植間の開通にともない明治23年12月25日に開業された
郡役所は 明治12年(1879年)2月5日 行政区画としての鈴鹿郡が発足 郡役所が亀山城下に設置された
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西町の旧家 明治6年建築の旧舘家住宅
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西町の大曲り 南側
西町の大曲り 北側
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京口門(西の惣門)跡
明治元年の京口坂と京口門
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大正3年の新橋架橋 橋の下に旧街道
現在の京口橋 京口坂は消滅した

京口門跡
亀山宿の西端、西町と野村の境を流れる竜川左岸の崖上に築かれた門である。
『九々五集』(江戸時代前期の大庄屋・打田権四郎の見聞録)によれば、亀山藩主板倉重常によって
寛文12年(1672)に完成したとされる。翌延宝元年(1673)に東町に築かれた江戸口門とともに
亀山城総構の城門として位置付られ、両門の建設によって東海道が貫通する城下の東西が画された。
京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所を構え、通行人の監視にあたっていた。
また、門へ通じる坂道は左右に屈曲し、道の両脇にはカラタチが植えられ不意の侵入を防いだとされる。
大正3年(1914)、京口橋が掛けられたことで坂道を登る道筋は途絶えてしまったが、
往時は坂の下から見上げると門・番所がそびえる姿が壮麗であったことから、
亀山に過ぎたるものの二つあり伊勢屋蘇鉄に京口御門と謡われるほどであった。
歌川広重「東海道五拾三次」のうち「雪晴』をはじめとする風景画の舞台として著名である。
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亀山市野村3丁目
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野村の一里塚
三重県内には旧東海道に12基の一里塚が設置されたが 現存するのはこの野村一里塚のみとなった
もとは道の両側に一対の塚があったが 現在は北側だけが残存する 昭和9年(1934)に国の指定文化財となった
塚の上には 推定樹齢400年の椋の巨木がそびえ立つ
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