2016.04.08 加太越えから関宿へ

4月7日から12日まで 三重県桑名市長島町の「なばなの里」から伊勢志摩へ5泊6日の旅
三重県桑名市の「なばなの里」にチューリップと春のイルミネーションを見に行く
道程は 「なばなの里」から県境を越えて名古屋へ 知多半島の常滑と半田の町を散策 蒲郡から伊良湖へ
伊勢湾をフェリーで渡って伊勢神宮へ詣で 伊勢本街道を通り 奈良から山陽道を通り九州まで帰る予定
北九州の門司港からフェリーに乗り 大阪泉大津港着は午前6時 助松ICから堺泉北道路・阪和道を経て
松原JCから西名阪道に入る 天理までは有料だが 天理以東は通行無料の名阪国道25号線となる
午前7時40分「道の駅 針T・R・S」で時間調整のため休憩 泉大津港から約70kmの距離である
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早朝のため隣接するファミマで朝食を仕入れる 道の駅の設備は古いが「天然温泉はり温泉らんど」を併設
午前9時に道の駅を出発して 名阪国道板屋ICで旧国道に入り 加太駅に立ち寄る
三重県亀山市加太市場 JR関西本線 加太駅
関西本線の難所「加太越」東側の駅で  明治29年(1896)9月21日 民営の関西鉄道株式会社が
関−柘植駅間に新設駅として開業した駅である  四日市−柘植間の開通は明治23年(1810)まで遡る
加太越(かぶとごえ)は東海道として飛鳥時代に拓かれ  平安時代に北の鈴鹿峠が拓かれるまで
重要な交通の要衝で亀山市関に「鈴鹿関」が置かれた
今でも これより東を「関東」以西を「関西」と呼び慣わしているのは周知のとおりである
実際の峠は 加太駅から西へ直線距離にして約5kmの亀山・伊賀の市境にあり標高309mの位置にある
加太駅のある加太市場は名前が指し示すように 古来から市が立ち峠の宿場町として栄えた
今は国道も鈴鹿越となり 鉄道輸送も東海道本線が名古屋−大阪間の主要路線となって以降は寂れる一方である
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加太越奈良道と加太宿 東海道歴史文化回廊
「加太越奈良道」は、関宿西の追分で東海道から分岐し、加太峠を越えて伊賀・奈良に通じる街道です。
この街道の名前は、関宿西の追分にある是目塔には「いかやまと道」と、幕府の記録には「加太越奈良道」とあり、
定まった呼び方はなかったようです。明治時代には「大和街道」とも呼ばれています。
奈良から加太を越えて関に至る道は、大海人皇子(おおあまのおうじ)が壬申の乱(672)の折に
通ったことなどから、鈴鹿峠が開かれる以前の「東海道」とする説も あります。
江戸時代には、藤堂家が領した津と伊賀上野を結ぶ重要な道筋として、津藩領に含まれていました。
街道の里程は、『三国地誌』(宝暦13年=1763)によると、関〜加太間 が1里23町(約6.4km)、
加太〜柘植が2里8町(約8.7km)です。加太宿は、加太越奈良道の宿場のひとつです。
しかし、本陣は板屋に、問屋場・高札場は市場にあって離れており、加太宿の名はこれらの総称です。
平成22年3月 亀山市教育委員会
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加太越え鉄道遺産群 市場川レンガアーチ橋梁 明治29年(1896)以前建設
基礎部分は石積 スプリングラインの雁木模様が美しい 加太駅設置の際に拡張されている 通路は後年設置
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加太越え鉄道遺産群 全長163mの坊谷隧道
一対の石積高欄付の柱は明治期のトンネルに多く見られる特徴で バランス良く美しい抗門である
左右に付柱(ピラスター)を設け 最上部の柱間に笠石その下に煉瓦積の胸壁(パラペット)
アーチの途中に帯石があり アーチは迫石と中央の要石で構成されている
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市の湯川橋梁
支間9.80m+22.30m 橋脚の石積台座部分は「五角錐台」で上流方向が鋭角になっている
その上に乗る橋脚は 隅石とレンガ積で構成され 両端の橋台も隅石とレンガ積の調和が美しい
橋桁は川崎造船所(後の川崎重工)兵庫工場製 鉄道省とあるので国有化後のもの
関町新所の山桜
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照葉樹林帯の多い九州ではあまり見ることが出来ない風景である
里山でもクヌギの林が多く 椎茸栽培が盛んな九州地方では伐採の邪魔になる桜の木も
同じように倒されてしまうことが多い また杉の植林地でも山桜はあまり見かけない
三重県亀山市関町 東海道五十三次・関宿
関宿は 東海道五十三次のうち 品川宿から数えて47番目の宿場町である
古代から交通の要衝であったため 畿内より至る鈴鹿越の道に関が設けられ
古代三関(さんかん=さんげん)の一つとされていた 関の名もこの鈴鹿関に由来している
古代三関は 畿内防御のためその周辺に設けられ 東山道の美濃国不破関(岐阜県不破郡関ヶ原町)と
近江国と越前国の境に置かれた愛発関(あらちのせき) そして東海道の伊勢鈴鹿関の三ヶ所であった
平安時代には 山城と近江国の境に設けられた相坂関(おうさかのせき)が愛発関にかわって三関に入る
現在判明している鈴鹿関趾は 平成18年(2006)に「西の追分」の北 観音山公園で
北辺の城壁とみられる土塁が発見されており 現在も発掘調査が継続されている
江戸時代においても 東の追分からは伊勢別街道 西の追分からは大和街道が分岐する活気のある宿場町で
参勤交代や伊勢参りの人々などで賑わった 天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』には 家屋数632軒
本陣2軒・脇本陣2軒・旅籠屋42軒の記録が残る 現在は この追分から追分までの約1.8km・25haの範囲に
江戸時代から明治にかけて建てられた町屋200軒余りの古い町並みが 今では 旧東海道に在った
宿場町の多くが旧態を留めていない中で 奇跡的とも思える良好な状態で保存され往時の姿を色濃く残している
昭和59年(1984)に 国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている
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歌川広重 東海道五十三次之内 関 本陣早立
まだ明けやらぬ早朝に 本陣での大名行列一行が出立準備をしている様子を描いている
江戸時代の旅は早立が基本で 夜明け前に提灯に灯りを入れ暗い内に出立する
一般の旅人も 武士や大名も同じであった 代わりに宿入は早く 夕食は午後4時から5時頃である
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一里塚のあった東の追分 南(左)へ伊勢別街道が分岐する
伊勢別街道の名称は 明治10年(1877)以降に 四日市から伊勢に至る街道を伊勢街道と名付けたのに対し
その街道の支道という意味で名付けられた 江戸時代には「いせみち」「参宮道」などと呼ばれていた
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伊勢参宮名所図会 巻之二 関の追分
東海道の関宿・東の追分から 津の志登茂川に架かる江戸橋西詰で伊勢街道(四日市・東海道追分−伊勢神宮)に
合流する道である 江戸時代には 楠原(津市芸濃町楠原)椋本(津市芸濃町椋本中町)
窪田(津市大里窪田町)に宿揚が設けられ おもに鈴鹿峠を越えてくる京や近江方面からの参詣道であった
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「いせみち」との三差路に建つ鳥居は遙拝所も兼ねており 東海道を行く旅人が伊勢神宮に向かって
手を合わせた場所でもある この鳥居は習わしとして式年遷宮により古くなった宇治橋南詰の鳥居が移設される
道程は合せて15里(60km)となり 伊勢街道の江戸橋西詰の追分(三重県津市上浜町3丁目)まで18.5km
そこから伊勢本宮の外宮鳥居まで42kmある
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現在も旅館業を営む「長谷屋伊三郎資料館」
下写真のいっぷく亭内部
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無料休憩所の関宿散策拠点施設 いっぷく亭木崎(こざき)には座敷やトイレがある
いっぷく亭は 木崎町の他に地蔵町と西の追分にある
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木崎の坂 東の追分(京方向)に向かって下る坂道
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西向きの登り坂
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馬つなぎの環金具
伊勢地方では注連飾りを年中掲げる
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御馳走場跡
朽ちていく古民家

御馳走場とは
関宿に出入りする大名行列の一行を 宿役人が出迎えたり見送ったりした場所で 関宿には四ヶ所あった
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百五銀行
REST HOUSE & 喫茶 山石 パフェから釜飯まで
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同じ棟に 和風カラオケスナック「一休庵」まで
関まちなみ資料館
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関まちなみ資料館前
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明治浪漫
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ナショナルの文字が今では懐かしい
関の山車倉

関の山
「頑張っても、それが精いっぱい」 またはネガティブに「頑張ってもその程度」という意味の言葉「関の山」
その語源となった「関の山車」は 元禄年間から続く伝統行事の「祇園祭り」に宿場内を曳き回される
町内を練り歩く山車が絢爛豪華なため これ以上の豪華な山車は作ることが不可能という意味から
または 大きな山車が街道をいっぱいにふさぎ これ以上通るに通れない様子を表現したもの
という二つの説がある 現在は4基の山車があるが 最盛期には16基の山車があったという
関神社の祭礼ではあるが 現在の祭神は天照大御神・伊邪那美命・天太玉命の三柱である
明治42年(1909)熊野皇大神社(江戸時代の熊野三所大権現)に笛吹大明神社・宇佐八幡宮・大井神社の
三社を合祀して関神社としているが 祇園神であるはずの「午頭天王」または「素戔嗚尊」が祭神として
一切見当たらない不思議がある 山車が出現したのは江戸時代末期であり 京の祇園会を模したものと
思われるふしがあり 由来は定かではなく合祀以降各町の山車が急速に廃れとされている
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I屋脇本陣 波多野家
脇本陣ではあったが 平素は一般庶民も泊まることができた
「関で泊まるなら 鶴屋か玉屋 まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの 関宿の大旅籠である
代々当主が西尾吉兵衛を名乗っていたので「西尾脇本陣」とも言われた
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川北本陣跡の桜
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百六里庭にある眺関亭二階からの眺望 百六里庭は関宿が江戸から百六里在ることから名付けられた
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眺関亭二階から
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宿場の中心地 関町道路元標と明治の書状集箱(郵便ポスト)がある高札場後の関郵便局
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関町道路元標
復元された高札場

高札場<掲示板より>
高札場とは、幕府の法度や掟書、宿場の決まりなどを掲示した場所です。関宿の高札場は、江戸時代に描かれた
数々の絵図を見ても、関中町北側(現関郵便局)にありました。 当時この敷地は、「御茶屋御殿」と呼ばれ、
江戸時代初期においては本陣の役割を果たす施設でしたが、 関宿に本陣が確立されてからは、亀山藩の施設として
番所などが置かれていました。 高札場は、この御茶屋御殿の街道に面した位置にあり、街道に面した間ロ11間余の
ほぼ中央に、耕形状の土塀に囲まれてあり、高札場の建設、高札の付け替えなどは亀山藩が行っていました。
『東海道宿村大概帳』によると、関宿高札場には八枚の高札が掲げられており、
その内容は、生活にかかわる様々な規範、キリシタン禁令や徒党・強訴などの禁止といった幕府の禁令、
隣接宿場までの人馬駄賃の規定などでした。明治時代になると、各地の高札場は撤去されますが、
関宿の高札場も、明治10年、関中町伊藤家の土蔵建築の際、旧高札場の石、土、 瓦等を残らず処分したことが
当家文書にあり、周囲の土塀なども含めすべてが撤去されたことがわかります。
この度、関宿の町並み保存に取り組んでいただいている「関宿町並 み保存会」、「関宿案内ボランティアの会」、
「関町観光協会」の三団体より、高札場復元のご要望をいただき、また、復元場所を所有する
日本郵政公社及び関郵便局の多大なるご理解・ご協力を賜り、
宿場町の重要施設のひとつである高札場の復元が実現したものです。
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大旅籠の玉屋(玉屋歴史資料館)
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「宝珠の玉」の虫籠(むしこ)窓
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玉屋 濯ぎ桶のある上がり
鍛冶屋(まちかど博物館)かじや道具や仕事場を展示

旅籠の濯ぎ桶
旅人が 旅籠に着いて真っ先にやることは 旅路の泥と埃を払うことである 昔は一日に7里から多い人は
10里を歩いたそうで その間にわらじはすり切れ足袋は泥にまみれ 着物の裾は土埃だらけとなる
玄関の土間でわらじをぬぎ捨て足袋をとり 泥や砂のついた足をきれいにし
着物の尻端折をもどして着物の砂埃を払う これが作法であった 草鞋をぬいで濯ぎ桶で足を洗うときが
一日の旅の疲れを忘れるほど 「ほっと」する気持ちの良い時であった
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古い看板を掲げる薬局跡 土台の金環は「牛繋ぎ」
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エスエス製薬 1970年代の7代目のスーパーピョンちゃん」
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関地蔵院
真言宗御室派  九関山(きゅうかんざん)宝蔵寺 古くから関の地蔵と呼ばれ信仰をあつめる
寺伝によれば 天平13年(741)奈良東大寺の僧・行基が 諸国に蔓延した天然痘から人々を救うため
この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられ 我が国最古の地蔵菩薩像と云われる
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地蔵院の扁額と地蔵院の角に建つ大正3年建立・停車場道の道標 明治時代は「ステンショ道」と呼ばれた
関駅は 民営の関西鉄道(株)による四日市−柘植間の開通にともない明治23年12月25日に開業されている
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新所の坂 西の追分に向かって登り坂となる
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町屋特有の漆喰を塗り込めた虫籠窓(むしこまど)
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漆喰細工や鏝江
これは生きているツバメ
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西の追分 左へ大和街道が分岐する
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法華経題目塔が道標となっている
ひだりハいかやまとみち(左は伊賀大和道)
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現在の大和街道・国道25号線の分岐点 関新町交差点 
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