2018.04.03 津山城下・城西界隈の散策

津山の中央部には吉井川が西から東へ流れ その堆積物により中国地方最大面積の盆地が形成された
山地の多い美作において平地面積が多く 国の中央部にあったことから
古代律令時代より畿内と出雲を結ぶ街道が通り また 宿駅なども置かれ当地方の中心地として栄えた
和銅6年(713)備前国から英多郡・勝田郡・苫田郡・久米郡・真嶋郡・大庭郡を分け美作国が立てられ
津山に国府が置かれた 美作の分立によって吉備国の分断は完結され 吉備は 備前・備中・備後・美作の
四国に分けられた これは製鉄産業を吉備氏から奪いヤマト政権の管轄下に置くため 吉備氏の弱体化を
図ったものとされる 中世には平氏の知行地となり 鎌倉時代には梶原氏や和田氏が守護大名となったが
後に北条氏の領国となった この時期 美作一宮の中山宮門前に市が立ち戸川宿が成立する しかし
その後は美作国を基盤とする勢力が定まらず 戦国時代が終るまで 周辺勢力の山名・赤松・尼子・浦上
毛利・宇喜多氏などの草刈り場となって政情が安定することなく疲弊した
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで東軍に寝返り参与した小早川秀秋が岡山城に入り 備前美作及び備中東半分を
領するが慶長7年に急死 小早川家はわずか2年で無嗣改易された 慶長8年(1603)森蘭丸の弟の森忠政が
18万6500石を拝領し戸川に入封し津山藩を立藩した 中世に山名氏が築城した鶴山城跡地に姫路城をもしのぐ
平山城を築いた 同時に新たな町割りを行い城下町も整備して「鶴山」を「津山」へと改称した
古代以降 再び津山が美作の中心的都市となったのは この時代に森氏が城下町を整備してからのことである
それ以前の津山は 吉井川を境に苫田・久米郡に分割され 美作の中心は西の院庄であった
元禄10年(1697)森家が改易され一時天領とされたが 翌年には 越後高田藩から松平家が10万石にて入封し
徳川親藩として津山藩が復活され 後に譜代の勝山藩も立てられ さらに東南条と真島を除く各郡部に
幕府領が置かれた その他飛地として上野沼田・常陸土浦・下総古河・三河挙母・岩美浜田・播磨明石
播磨龍野藩の各領地が錯綜し 天領内にも倉敷代官所の飛地があるなど小領に分割されたまま幕末に至っている
その後 廃藩置県により美作国は旧藩体制のまま 津山・真島・倉敷・鶴田・挙母・古河・生野・明石・沼田
龍野の各県が分立したがすぐに統合され北條県となった 後の明治9年(1876)岡山県に併合・廃止された
同時に 旧吉備国の備前・備中・美作は岡山県に 備後は広島県に属すことが決められた
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正保元年(1644)の正保城絵図による津山城下絵図
明治11年(1878)9月 郡区町村編制法の施行により城西は西北条郡に城東は東南条郡となったが
「東南条・西北条郡役所」が西北条郡津山町山下に設置され両郡をともに管轄した
明治22年(1889)6月 新たな町村制施行に伴い 津山城下の宮川以西の桶屋町・鍛治町・上紺屋町・茅町
河原町・北町・京町・小性町・細工町・材木町・堺町・山下・下紺屋町・城代町・新魚町・新茅町・新職人町
船頭町・田町・椿高下・坪井町・鉄砲町・戸川町・二階町・西今町・西寺町・吹屋町・福渡町・伏見町・二丁目
三丁目・南新座・美濃職人町・宮脇町・元魚町・安岡町を合併し西北条郡津山町となり 役場を三丁目に置く
同じく町村制施行に伴い津山城下町の宮川以東の橋本町・林田町(はいだまち)・上之町・勝間田町・中之町
西新町・東新町を合併し東南条郡津山東町となり 役場を上之町に置いた 続いて 明治33年(1900)4月に
城東の東南条郡津山東町を津山町に編入すると共に 西北条郡と西西条郡・東南条郡・東北条郡を合併して
苫田郡(とまたぐん)となり苫田郡津山町となった 同じく苫田郡となった林田村(はいだむら)が
大正12年(1923)4月に町制を敷き苫田郡津山東町(二代目)に改称された 昭和4年(1929)2月には
津山町が 苫田郡津山東町・院庄村・西苫田村・二宮村・久米郡福岡村と合併し津山市となった
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享保8年(1723)頃の町割図の城西部分
黄色部は武家屋敷(城西は上級武士)赤色部は寺社地 黒色部は町家を表す  城の北に衆楽園がある

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宮川に架かる大橋西詰の東大番屋跡と津山城址
宮脇町の藺田川(いだがわ)に架かる翁橋東詰の西大番屋と この東大番屋の間が城下内町となる
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材木町の出雲街道
津山城
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津山城全景
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復元された備中櫓
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櫓内部
明治初年頃の本丸天守
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本丸への石段
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津山郷土博物館の屋外に展示された道標 元の位置も内容も解説なし
出雲 京大阪 一ノ宮 いつも道 はりま道 作州木山宮 伯州大せん 雲州一ばた薬師 雲州大社
大阪 か宇や山(高野山) 西? いせ大神宮 大渡橋(坪井宿東入り口にある橋?)などが読める
衆楽園
二代目藩主の森長継が明暦年間(1655-1658)に京から庭師を招いて造営した池泉廻遊式の庭園で
家臣や他藩・他家からの使者を謁見するための「御対面所」として造営された 森家の改易後も
松平家が幕末まで藩主の別邸として使った 明治3年(1870)に 一般公開に合わせて「衆楽園」と命名された
古い建造物は現存せず 復元された余芳閣・迎賓館・風月軒・清涼軒が建ち 庭石や灯籠など人工物を少なくし
庭園の大半を占める池や島などによって自然と調和の取れた 季節ごとの美しさと幽玄な世界を醸し出している
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風月軒から見る苑池
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衆楽園に桜は多くない しかし満開である
旧岡山県津山中学校本館
この建物は 明治33年(1900)に岡山県津山中学校本館として 建てられたものである
建物は東面し 平面は正面23間(41.83m) 側面5間(9.09m)を主体とする
構造は 木造二階建の洋風建築で屋根は寄棟造 壁面は下見板張りとし
上げ下げ窓にルネサンス様式の窓飾をつける
基礎は煉瓦造のイギリス積である 外観はイタリア盛期ルネサンス様式をモデルとし 調和と比例に優れ
特に軒下・窓の構成意匠は注目に値する 内部に改修はあるが旧講堂の天井・階段・建具枠などに原形が残り
意匠と技術は高く評価される なお 軒下・玄関・内部の階段の手すりには
シンボルマークが彫り込まれている
春休み中ではあったが 門が開いており外観を見学することが出来た
室内ではブラスバンドの練習中であった 古い木造校舎に響く心地よい音が 外まで聞こえる
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旧中島病院本館
大正6年に建てられた、津山で最も古い病院建築です。木造2階建て、基礎は御影石、外壁は小豆色の
モルタル掻き落とし、人造石の柱や窓の枠飾りを配します。建物正面にはポーチが張り出し、
その屋根はドーム状につくられています。ポーチの円柱にあるコリント式の柱頭飾りや窓の飾り枠などに、
凝った洋風意匠が見られます。平成20年、所有者から津山市に建物が寄贈され、
翌年から「城西浪漫館」として一般に公開されています。
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江戸時代のコーヒー
現在もコーヒー(オランダ語:Koffie)の当て字として使われる「珈琲」は 津山藩医を努めた
宇田川榕菴(うたがわようあん)が考えたものである
榕菴が養子となった宇田川家は 津山藩医を代々務める家柄で 特に寛政9年(1797)に当主となった
宇田川玄真(うだがわげんしん)が開いた私塾・風雲堂は 医学のみならず 化学・ 科学・自然哲学など
幅広い分野で日本の礎を築き 蘭学中期最大の実力者と賞賛されている 門弟には 緒方洪庵・坪井信道
箕作阮甫らが名を連ねていた 榕菴がその玄真の養子となり 名門・ 宇田川家を継いだのは
文化8年(1811)であった 榕菴は薬学・植物学・化学などを学び多くの書を著した
それに際し当時の日本語に存在しなかった学術用語を翻訳して 酸素・水素・元素・酸化・細胞といった
現代の日本人が慣れ親しんでいる単語の多くは 格奄が考えたものである
榕菴は 当時まだ一般の人がロにすることのほとんどなかったコーヒーにも興味を持ち
文化13年(1816)に「哥非乙説」(こっひぃせつ)という 日本で初めてとなるコーヒーについての論文で
産地や効用などを紹介したほか コーヒーの当て字 「珈琲」も考えた 日本のコーヒーの歴史に津山の蘭学者が
大きく関わったことになる 後に玄真と榕菴は 幕府のもとでオランダ語の「家庭百科事典」の翻訳に携わり
コーヒーの項目を担当した玄真は 榕菴の意見として「味は淡白で微甘」と当時のコーヒーの味を伝えている
城西浪漫館内のカフェで 江戸時代にオランダを通じて日本に持ち込まれたコーヒーと同種の豆をブレンドし
榕菴らが考案した珈琲罐を復元使用して淹れた「榕菴珈琲」を飲んだ 少し高価だが二杯分はある
希少とされるアラビカ種特有の 味はまろやかで香りの良いコーヒであった
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城が見える西城地区の武家地 田町
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城下町資料館に車を止めて(無料)散策
出雲街道 坪井町

宮脇町 徳守神社
徳守神社は、戦国時代兵火を被り荒廃していたものを、慶長九年(1604)森忠政が津山城下の総鎮守として
造営したものである。現在の本殿は、寛文四年(1664)に森長継が再建したもので、拝殿、幣殿も
同時期のものである。本殿は、東面してたち正面三間、側面三間の中山造(入母屋造、妻入型式)で、
現在では屋根を銅板で 覆い正面に唐破風の向拝をつけている。とくに組物あるいは蟇股(かえるまた)の
彫刻など軒廻りにみごとな装飾がなされていること、また拝殿、幣殿が同時期の建物として残っていることなどが
特色としてあげられる。市内の近世初期の神社建築として優れたものである。
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街道側の北門鳥居
東向の正面鳥居
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神門と拝殿
出雲街道
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宮脇町 津山銘産 初雪 元祖 武田待喜堂本舗
<津山瓦版より転載 http://www.e-tsuyama.com/
津山名産の「初雪」は、淡い甘味のあるかき餅で、火鉢を囲んでひとつひとつ炙り少し冷ましてから食べます。
この「初雪」は、後醍醐天皇が、北条高時によって隠岐に流される途中に、津山の院庄で
一夜を過ごされたとき里人が献上したという伝承があります。また、旧津山藩主松平家の資料の中から
購入代金の領収書が見つかっています。 この領収書は明治17年に墓参りのため津山に来た松平確堂が、
東京に帰ってから津山土産として配るために購入した時のものだということです。
この「初雪」がお土産に選ばれた理由は、長期間保存が出来ること、軽いことだそうです。
これらから、昔から初雪を贈答品として使う習慣があったのかもしれないということでした。
 明治の初めまでは数十件のお店が初雪を作っていましたが、大正初期には16軒、
今では武田待喜堂1軒のみとなっています。伝統を守り続けると言うことは大変なご苦労があると思います。
津山名産の「初雪」をこれからも守り続けてくださいね。(2012年6月18日取材)
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宮脇町 平井呉服店前から城方向
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登録有形文化財 翁橋
津山城下の西部を北から南へ流れる問田川に架かる橋で 旧出雲街道筋にあたる 江戸時代には茅橋あるいは
九蔵橋ともよばれていた この翁橋東詰に西大番屋が置かれ 宮川に架かる大橋西詰の東大番屋との間が
城内町となっていた 現在の橋は大正15年に それまでの木橋を鉄筋コンクリート造に架け替えたもので
橋の四隅に位置する大型の欄干親柱に 当時日本で盛行したアール・デコ様式が取り入れられている
登録有形文化財  作州民芸館 (旧土居銀行本店)
建物は大正9年、旧土居銀行本店として建設されたものです。外観は正円アーチと直線で構成される
ルネッサンス様式を基本としながらも、多彩なモチーフを用いており、特に玄関周辺は、両翼を張り出すなど
厳格な左右対称で、正面性の強い意匠となつています。また、正面1階にドリス式、2階にはイオニア式の
西洋古典様式風のオーダーが付く石造風の外観となっています。
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内部は 玄関を入って正面カウンター腰壁の枡形意匠や2階研修室の折上格天井など
外観に比べ抑制的な意匠が用いられている
木造二階建 建築面積:233.84平方m 延床面積:405.14平方m 棟高:14.55m
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作州民芸館前の出雲街道
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西今町の町家
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西今町 作州絣工芸館
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大正から戦前に盛んだった輸出用唐草織・経木帽子などを製造販売していた旧岡本商店 
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後藤酒造所跡の路地
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古民家の かふぇ花音(カフェ・カノン)
古い町での控えめな表示は高感度良し
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西今町 町人街の西端
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凝った意匠が随所に見られる 江戸時代から明治にかけての町家建築
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謎の手回しサイレン
ご当地マンホールは ごんご・お城・桜

「ごんご」とは 美作地方の方言で  河童(カッパ)のことをさす 伝説によれば
現在の県立作陽高校の下にあったという吉井川の覗き渕に生息していたと伝わり 背中に水盤が付いており
これで子供に吸い着いて川底へひきずりこみ その柔らかい尻子をぬいたとされる
この悪ガッパが 今では津山市の「ゆるキャラ」となって町おこしに奔走している
カッパのモニュメントや「ごんご通り」「ごんごバス」「ごんご関連商品」など 「ごんご」の目白押しで
「ごんご」に仮装した踊り連が 通りを練り歩く「津山納涼ごんごまつり IN 吉井川」は夏の風物詩である
「津山納涼ごんごまつり」は昭和53年(1978)から始まり 今年の夏で40回を重ねる
西寺町
城下町の建設期には、武士や町人など、多種多様な宗派の人々が集まり住むことによって城下町ができた。
そうした人々の必要に応じて、津山藩は、城下町の東西の端に各宗派の寺院を集めて寺町を作った。東の寺町が
丘陵上に配置されたのに対して、西寺町では、町人町から続く主要な街道に沿う形で寺町が形成されていった。
高い土塀と豪壮な建築物が建ち並ぶ寺町は、城下町の防衛施設と位置づけられることもあった。
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西寺町の出雲街道
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高野山真言宗 高室山 浄光院 愛染寺
愛染寺の鐘楼門及び仁王堂は 境内の南西に位置し旧出雲街道に面して建てられている
棟札の写しに記される建立時期は 正保元年(1644)と推定される古い建物である
  楼門の両脇に仁王堂が附属した建物で 基壇は切石の四半敷きである 楼門は 一間一戸の形式で
下層は桁行1間・梁間2間・上層は桁行3間・梁間2間である 屋根は正面と背面に唐破風が付く
入母屋造の檜皮葺で 下層両脇正面側の柱間に 方1間の仁王堂が附属している
  仁王堂は左右同形で 屋根は平側を正面に構える唐破風造の檜皮葺で 他に このような構成は
両山寺の鐘楼門(美咲町)が知られるが 美作地方では稀少なものであるとともに 建立年代が江戸時代前半に
遡れる点でも貴重な建物である さらに 主要な部材に桜材を用いていることが特徴の一つである
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愛染寺の桜
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妙法寺の枝垂れ桜
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