2019.05.14 岡山県真庭市勝山 勝山宿

古代では美作国真島郡高田郷に含まれ 平安前期には荘園となって高田庄と呼ばれた
町の北部にかつて如意山と呼ばれた標高312mの頂きに城跡があり 現在では城山と呼ばれている
一般的な説では 室町初期の延元5年(1340)に 美作国高田荘の領主となった三浦貞宗が如意山と勝山に
城を築いたとされているが 史料的な裏付けもなく中世城郭の形態からも学術的な信憑性は薄いとされている
一方 江戸初期に書かれた「高田城主次第」の筆頭に戦国時代初期の武将・三浦貞連が記され
また同時代の別の史資料にも三浦貞連の名があり美作西部における同氏の活発な展開が確認できることから
かつての高田城は美作三浦氏による築城の可能性が高いと今では考えられている
高田は 出雲街道の渡しや因幡往還の追分 高瀬舟による船運の集積地として交通の要衝となっていた
戦国時代の美作西部は 出雲の尼子氏 安芸の毛利氏 備前の宇喜多氏などの戦国大名の勢力が拮抗し合う
最前線となり 三浦氏の高田城も落城・奪還を繰り返したが 元亀元年(1570)に三度目の高田城奪還に成功し
六代目三浦貞広が城主となったが 打続く戦乱で領土は疲弊し政情も不安定なままであった
尼子氏の滅亡後は 毛利・宇喜多氏ともに安堵を望み 領界の線引を画策するようになった
天正3年(1575)貞広が 宇喜多氏の説得を受け入れ毛利氏と和解し高田城は毛利氏に明け渡しとなった
翌天正4年(1576)三浦貞広は京都で地震による災禍により死亡 美作三浦氏は断絶となった
豊臣時代の天正12年(1584)備前・美作は宇喜多家の所領になり 関ヶ原後の慶長5年(1600)には
宇喜多氏から小早川家の支配に替わったが 2年で小早川家が無嗣断絶による改易となった
慶長8年(1603)美作国を岡山藩から分離し 森家による津山藩が立藩され 高田は森家の支配となった
元和元年(1615)幕府の一国一城令により高田城は破却され陣屋が建てられたと見られるが定かではない
元禄10年(1697)森氏が無嗣断絶により改易され天領となったが
江戸中期の明和元年(1764)に三河・西尾藩の譜代大名・三浦明次が転封され 真島郡内の5村を除く107村と
大庭郡内の1村の2万3千石で高田藩を立藩した 三浦明次は かつて高田城を築いた美作三浦家の遠戚とされる
転封に際し幕府より4千両の築城費が下賜され かつて城のあった如意山の西山麓に御殿などを整備した
その後 勝山城と名付けられ 藩名も旧来の高田藩から勝山藩に改称された
修築された勝山城は二ノ丸に二重櫓が上がり 三ノ丸には御殿が建てられたが天守は建築されなかった
以降 城下町を整え美作西部の要衝として発展を図り 明治維新まで三浦氏の支配が続いた
明治4年(1871)廃藩置県により真島県となり 北条県を経て明治9年(1876)には岡山県に編入された
明治22年(1889)町村制の施行により高田村は旧藩の名をとって勝山村として村制を施行
現在の大字勝山の範囲が勝山村である 明治29年(1896)に町制に移行して勝山町となった
明治45年(1912)川西・一宮・月田村の3村を吸収合併 その後月田村を分離したが
昭和30年に月田村を再び統合し新たに富原村を吸収合併した 平成17年(2005)平成の大合併で
勝山・久世・落合・湯原の4町と美甘・川上・八束・中和の4村 および備中・上房郡北房町の5町4村が
対等合併し真庭市が新設された 勝山の町並みは 昭和60年(1985)に岡山県によって県下初の
街並み保存地区に指定され 今も約500mに渡って古い街並みが残されている
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赤線は出雲街道
1.速日神社 2.勝山城三の丸(藩主御殿)跡 3.御前酒蔵元辻本店 4.因幡追分石 5.三浦坂
6.勝山郷土資料館 7.文化往来館ひしお 8.武家屋敷館渡辺邸 9.檜舞台ウッドストリート(商店街)
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勝山町並み保存地区は 「のれんの町」としても有名である そのきっかけとなったのは
勝山にUターンされた染織作家の加納容子さんが 旧酒蔵の自分の店先に手染めの「のれん」を掛けたことが
町内で評判となって一軒二軒と徐々に広まったものである 資金についても行政の補助金が出ることになり
当初は16軒で始められた「のれんの町」も メディアの紹介もあり全国的に有名となった
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理容コユキ
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クマ・ウサギ・ヒツジ・ブタ それぞれ「ぬいぐるみ」を着た子供たち
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かつて川運の主役であった高瀬舟の船着場跡
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御前酒蔵元辻本店の醸造蔵と廃業した登録有形文化財の岡野屋旅館
岡野屋旅館の主屋は 明治31年(1898)〜大正元年(1912)にかけて建設された入母屋造桟瓦葺の
木造2階建の建築物 建築面積172平方メートル(約52坪)株式会社辻本店所有
1階に6室 2階は50畳の大広間にもなる5室の客室を川に面して並べ 東に通し廊下がある
西側は川岸の上にせり出し ガラス障子をたて河岸景観を引き立てている
現在 再活用を模索する「岡野屋旅館プロジェクト」が活動中である
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岡野屋旅館の門
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喫茶&酒 おにのすみか
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追分石
小さい方は 元禄2年(1689)津山藩によって建てられた道標 南 是より右 ゆばら/東 ?/西 ?/北 ?
大きい方は 嘉永6年(1853)に勝山藩によって建てられ  西 右京大坂道 南 左雲伯往来 東 大仙倉吉道
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辻本店の蔵 鏝絵のある漆喰防火窓扉
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和食処 宮文
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前田菓子舗
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御前酒蔵元 辻本店 母屋
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背後の太鼓山
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秋田自転車店
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おみやげ 喜志屋
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三浦坂を上れば安養寺
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出雲街道 大阪へは左へ
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道標:左 玉雲宮/すぐかみがた  この道が出雲街道
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浄土宗 本然山 雲照院 安養寺
創建は平安時代の長承年間(1132−1135)に天台宗の寺院として建立された 江戸時代に浄土宗に改宗
勝山藩の立藩後は 藩主三浦家の菩提寺として庇護された 安永9年(1780)に多くの堂宇を焼失した
文化11年(1814)に再建された
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渡辺屋敷
勝山で唯一残された武家屋敷である 上の段と呼ばれたこの高台一帯は侍町で武家屋敷が並んでいた
渡辺家は 家老に次ぐ職を努めた家柄であった この建物は後世の補修改築もなく
当時の上級武士住宅の佇まいを今に伝える
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渡辺屋敷の土塀
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スズランが咲いていた
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明徳寺と秋葉宮
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町並み保存区域南端
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いつも自然体の原さん家
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全部に目を通すには時間がかかる
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煙突と回転砥石で想像するに 元は鍛冶屋さん
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のれん発祥の店 ひのき草木染織工房
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ギャラリー佐久知(佐久知商店)
午前11時40分 勝山から新庄へ 距離20.3km
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