2019.05.14 岡山県真庭市久世 久世(くせ)宿

地名の由来には諸説あり 鎌倉時代に源頼朝の御家人である久世貞平が赴任したことから久世氏の所領となり
久世庄と呼ばれたことが始まりと言われるが 古代においては 美作国大庭郡久世郷の一部であったとされ
久世の名は郷名をひきついだものという説から 地形を拠り所とする由来がいろいろ唱えられている
古語では「曲」と書いて「くせ」と読み 当地で旭川が大きく西から南へ湾曲していることから
この地を「くせ」と呼ぶようになった説 また 東南部の地で旭川に目木川が合流するところに
古くから出雲往来の渡し場のあった古瀬(こせ)と称する瀬があり これが「くせ」に転訛したという説
さらには同じく古語で 岩の多い浅瀬や川原を曲瀬(くせ)と呼んだことからともいわれているが
鎌倉幕府の記録に 正応五年(1292) 美作国御家人久世頼連と記載されていることから氏名由来説が勝る
鎌倉以前の中世期は平氏の知行地で 鎌倉時代には梶原氏や和田氏が守護大名となったが
後に北条氏の領国となった その後 宇喜多氏の支配となったが 戦国時代は周辺諸侯の戦場となり
政情は常に不安定であった 豊臣時代は毛利氏の支配を受け 関ヶ原後は小早川氏の所領を経て
慶長8年(1603)から津山藩領となった 慶長9年からは牛馬市が始まり最盛期には3万頭の売買を記録した
この頃 大庭・真島郡は 津山から見て山奥にあったことから 山中(さんちゅう)という名で呼ばれた
近世には久世村と称されるようになり その後は久世村の山寄りを「山方」旭川寄りを「原方」と呼んだが
出雲往来の宿場町として また川運などで繁栄したのは「原方」の方であった
享保11年(1726)に凶作と年貢米の収納時期をめぐって山中一揆が起こり 幕府より支配不届きとして
翌年に津山藩が10万石から5万石に減封され 真島郡と大庭郡は天領となり久世に代官所が置かれた
赴任した代官の中でも 早川八郎左衛門正紀は農耕と養蚕の振興に努め
久世を美作西部の政治経済の中心地として繁栄に導いたされる
文化14年(1817)津山藩が元の10万石に再び加増され 久世原方・久世山方ともに津山領へ戻り明治に至る
明治5年(1872)久世原方・久世山方が合併し久世村となった
明治22年(1889)久世・中島・多田・鍋屋・三坂・山久世が合併して大庭郡久世村が成立
明治29年には町制をがしかれ久世町となった 明治33年(1900)大庭郡と真島郡が合併して真庭郡となる
その後明治期に 山久世を一宮村に編入分離 川南村と合併 昭和30年には美和村と合併した
平成17年(2005)久世・勝山・落合・湯原の4町・美甘・川上・八束・中和の4村
および備中側の上房郡北房町を加えた5町4村が対等合併し真庭市を新設 市役所が久世に置かれた
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久世市街図 赤線は出雲街道(国道)
1.旧遷喬小学校 2.上町(かんまち)・栄町・中町・下町の通り 3.元町 4.代官所あと 5.桜トンネル
岡山県真庭市目木 曹洞宗 板画山 毎来寺(まいらいじ)
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元の名は「米来寺」で室町時代の応永年間に開山された 28世住職の手による版画が襖や天井に貼られ
版画の寺として知られるようになった 山号も「仲應山」から「板画山」に変えられた
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朝早く訪ねたので版画を見ることは叶わず 7:45
岡山県真庭市久世 日蓮宗 正法山 興善寺
JR久世駅から東へ約300m 山門から中門までの参道を線路が横切る珍しいお寺
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踏切の先は中門
中門は 明治7年(1874)に栄町にあった久世代官所御蔵を校舎として開校した小学校の門を移設
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慶長13年(1608)に創立されたが 寛政2年(1790)に 山門を残して焼失
本堂は 文化12年(1815)幕府代官・重田又兵衛により再建された
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山門とJR姫新線の興善寺踏切
山門は貞享4年(1687)の建立で 寛延元年(1748)に仁王像が安置された
踏切は 大正14年(1925)3月に作備線・久世−中国勝山駅間の延伸に伴い開設された
下町から上町まで散策
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旧遷喬小学校に車を駐めて散策 8:15
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大正6年の天神橋親柱
華蔵庵の松
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華蔵庵の松
クロマツは、アカマツと並ぶ二葉松の代表です。常緑針葉樹で樹皮は厚く灰褐色を呈し、
亀甲状にはげ落ちることが特徴です。アカマツより大ぶりであることから「男松」の別名をもっています。
この華蔵庵の松は、高さ約18m、目通り約4.3mを測り、県下最大級のクロマツです。
樹齢約360年と推定される巨木です。
名前の由来は、かつてこの場所に華蔵庵という寺院があったことによります。
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日本基督教団久世教会
100mしかない下町アーケード
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三村医院
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中町 旭川に架かる中川橋と古い欄干の親柱 かつては対岸と結ぶ橋は中川橋ひとつであった
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フリースペース「風曜日」
風曜日の室内
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上町(かんまち)は今でも旅館が多い旧旅籠町
旧遷喬(せんきょう)小学校校舎
学校建築の設計基準が確立する時代の 明治40年(1907)に竣工した独特な擬洋風校舎として
国の重要文化財に指定されている歴史的建築物で 当時岡山県庁に勤務していた江川三郎八の設計による建物
校名は 中国の漢詩・伐木の一節「出自幽谷 遷于喬木」(幽谷より出で 高木に遷る)から採られた
ウグイスが深山の幽谷から飛び立ち 高い木に移る情景を詩った場面で 学業に励み立身出世することとされる
小学校の前身・明親館を名付けた儒学者の山田方谷により 「遷于喬木」の二文字をとり遷喬とした
同名で 明治5年創立の鳥取市立遷喬小学校とは姉妹校の縁を結び交流を続けている
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中央棟の一階に玄関・職員室・校長室 二階に講堂を設け その両側に教室が伸びるシンメトリー形式で
中央棟は玄関と左右の部屋を前面にせり出し マンサード屋根とふたつの破風を組み合わせたモダンな構成で
正面中央に独立したドーマーを設け校章の入る丸窓をひときわ目立たせる
校章は帆を張った高瀬舟で漢字の「久世」をデザインに取り入れている 開校時から大正12年(1923)まで
使用されたが その後は久世の「久」を上下に組み合わせ その中央に「小」の字を入れたデザインに変更
廃校後の建築物保存のため 平成6年(1994)に化粧直しをした時 元の高瀬舟に復元した
当初はマンサード屋根の頂部に鋳鉄製のルーフクレストがあったが 第二次大戦末期の金属供出により消滅した
2階の講堂の天井は 二重折り上げの洋風格子天井となっており 鏡板はすべて無節の檜柾目板である
腰壁板は無節の檜柾目板 廊下と講堂の床材は分厚い松材を 戸の板壁は全面無節の杉材とし
建築材は真庭郡木山村から国有林の優れた檜・杉材が運ばれた また軒下の真壁に化粧筋交いを組み込み
レンガ基礎に設けられた換気孔は 特製のくさび形煉瓦でアーチに組むなど 細部にまで凝った意匠が施される
工事期間は2年間を費やし 工費は17,984円56銭で 当時の町予算(経常経費)の2.93倍もの巨額を投じた
そのうち11,500円は県からの貸し付けであった 平成2年(1990)に移転するまで校舎として利用
現在は文化施設・久世エスパスランドの付属施設として位置づけられ 教室は図書室・展示室に
職員室は会議室 講堂は集会室 校庭は屋外展示場や催場に貸し出されている
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一階廊下
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給食のヤカン 黒板用定規と分度器
大正12年から使われた校章
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二階廊下
講堂
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歪みがあるアンティークガラス
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整列基準位置
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二階教室廊下
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校長室
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もともと時鐘は外にあったもの
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午前10時退出
次の目的地は勝山宿だが6.3kmの近さ なので 昔の旅では美甘か新庄まで歩いたと思われる
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