2018.03.16 津山城下・城東界隈の散策(城東重要伝統的建造物群保存地区)

出雲街道沿いの城東地区は 津山城跡から宮川を挟む東部に位置し 町人町と足軽町の混在地であった
元は林田郷と呼ばれ その区域は丹後山南麓の全域と考えられている 中世期にはすでに繁栄していたと思われ
近世城下町の形成発展にともない 慶長〜元和年間に城下に取り入れられた その後 寛永〜正保年間に
橋本・林田(はいだ)・ 勝間田・中之町・西新町・東新町の六町に分けられた この町並の中を出雲街道が
鍵曲りで 屈折しながら東西に走っている 城東界隈の商いは 近在の民を相手とした雑貨小商いを中心に
営まれたが  城下町の東端となる東新町には 職人町では無いにも関わらず鍛冶屋が多く軒を連ねていた
城西の鍛冶町では刀剣を扱ったのに対し 城東の東新町では 鎌や鍬など生活に必要な物を作る野鍛冶が占め
鍛冶商いが 江戸期より今日まで連綿と続けられている
城東六町の北に上之町の武家地があり 東西に細長く延びた町は下級武士や足軽・中間の居住地であった
武家地中央のやや北側を東西に東下りの道が通り 出雲街道とのあいだを13本の小路でつなげている
この南北に延びる坂道には 西から「西美濃屋小路・美須屋小路・国信小路・関貫小路・栴壇小路・長柄小路
松木小路・福田屋小路・蘭田小路・札場小路・大隅小路・東美濃屋小路・瓦屋小路」の名がつけられている
この武家地は 享保12年(1727)から松平氏の石高が五万石に減封となったため大半が空き屋敷となった
しかし 文政元年(1818)に 再び十万石に復帰したことにより家臣数が再び増加し空き屋敷も少なくなった
武家地北側の丹後山南麗には6つの寺院が連らなり東寺町とも呼ばれている
また 城東地区の氏神である大隅神社が山腹にあり 変化に富んだ地形を生かした独得の景観を形成している
このように城東地区は 津山城跡と宮川をはさんで向かい合い 武家地・寺町・出雲街道沿いの町人地という
城下町の構成要素が良く残り 特に出雲街道の町並は平入りの低い軒庇・格子戸・ナマコ壁・防火のための
卯建など往時の姿を良くとどめており 出雲街道に面した町屋部分が平成25年(2013) に
重要伝統的建造物群保存地区に選定された
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享保8年(1723)頃の町割図
およそ黄色部は武家屋敷(無表示部分は足軽などの下士町) 赤色部は寺社地 黒色部は町家を表す
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城東界隈は 出雲街道沿いに町家が置かれ 足軽などの武家地は町家の北側に その北側の山麓に寺町があった
大橋の架かる宮川を境にして 城西界隈・城東界隈に分けられ 城東に重要伝統的建造物群保存地区がある
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早瀬豆腐店前の枡形
荒神曲(こうじんまがり)と呼ばれる
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東新町の町並
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「のこぎり屋根」は明治以降か?
津山城東とうふ茶屋 早瀬豆腐店
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左は 創業元禄年間の本家忠兵衛鎌製造元 現在「野鍛冶」を生業とする家は二軒のみ
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鍛冶屋を営んでいた町家 煙出屋根と間口が狭く奥行の長い敷地 また土壁は煤で黒くなっている
江戸時代の税は間口の広さによるため あえて間口を狭くして奥行きのある町家が多い
津山では 煙出屋根のてっぺんを「鳥休めの瓦」と言うらしい
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鶴山ホテルの結婚式場用教会
複雑な三層屋根が多い
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東新町
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東美濃屋小路
登録有形文化財 城東むかし町家 旧梶村家住宅
元禄時代(1688−1704)に建てられた町家である 主屋は江戸時代終わり頃の建物で
西側の部屋は明治時代 北側の2階建は 洋館も含め大正時代の建築物である
敷地は 間口:31.5m(16 間)奥行:34m(17間1尺7寸)の方形で 前面東寄りに主屋
西方に高塀・門や庭園 後方に座敷・付属屋 背面に東蔵・西蔵・茶室・裏座敷や洋館など全8棟を配する
敷地の西側7m(3間半)は 昭和3年(1928)に隣地を買って現在の規模となった
後に西蔵・茶室・高塀や庭園が設けられている 主屋は平入りのつし2階建で間口8間半 奥行7間と大規模で
こみせをもつ複雑な間取りである 主屋の東寄り6間は江戸後期に建てられ 西寄り2間半の落棟の座敷は
明治期に増築され後の昭和初期に内部が改装されている
後世の改造は間取りばかりでなく表構えや架構にまで及んでいる 表構えは腰石貼・格子など
架構では小屋束を継いで棟高を上げ 屋根勾配を3寸から5寸に強くしている
座敷は二階建で大正期に新築され 当時の姿が良く保存されているほか 洋館・東蔵も大正期に建てられた
このように旧梶村家住宅は 江戸後期頃に建てられた主屋から昭和初期の西蔵まで 各時代の生活様式の変化に
対応した改造・増築が行なわれており、時代とともに生きてきた変化に富む複合的な町家として
歴史を物語る貴重な遺構である 建築物は 平成9年(1997)に国の登録有形文化財に
庭園は「旧梶村氏庭園」として 平成24年(2012)に国の登録記念物に登録されている
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梶村家はもとの屋号を米屋といい、元禄年間(1695年頃)には出雲街道の南側に居住し、その後現在の地に
住んだようである。宝暦年間(1760年頃)には山内屋と称しているが、商いは不明である。
明和4年(1767年)に「札元並」という町役に任命され、五人扶持、名字を許され茂渡藤右衛門と改名、
その後数代にわたり「札元」を勤めている。梶村姓を名乗るのは明治4年(1871年)からである。(後略)
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茶室と庭
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茶室と土蔵
四畳半の茶室内部
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塀外から覗いた庭園
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大正建築の東蔵
大正建築 離れ洋館
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明治期建築の主屋 新座敷廊下
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大正期建築の床の間
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江戸期建築の中の間と仏間
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「城東むかし町家」前の出雲街道
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幕末の洋学者 箕作阮甫(1799−1863)旧宅 寛政11年(1799)の生誕から文化9年(1812)まで居した
ペリー米国使節の来航及びプチャーチン露使節来校の折に外交文書の翻訳に携わった
その他 医学・語学・兵学・造船学・地理など多岐にわたる翻訳出版など 洋学の発展に寄与した
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東新町 むかし薬種問屋 今は「まちなかピザカフェ・水のや」
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東新町の町並み
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大隅神社参道 大隅小路
漆喰壁を護る水切り庇
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西新町 卯建の連なる町家
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西新町と中之町を分ける「大曲り」
糀屋の桶看板
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市街地中心部に近い中之町は少し雑然として
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「隣が無くなったので窓を沢山つけました」感じ
福田屋小路
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作州城東屋敷 入口の大戸と寅さんロケ地の碑
松竹映画「男はつらいよ」の実質最終作となった第48作目の「寅次郎紅の花」ロケ地
寅さんが津山まつりで露店を出すシーンで登場 マドンナは浅丘ルリ子演ずるリリー
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勝間田町
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福寿湯 むかし銭湯 今はコーヒースタンド
漆喰が剥がれると土壁は崩れる
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勝間田町の町並み
勝間田町 重要文化財・旧苅田酒造 宝暦8年(1758)創業 代表銘柄「諸白」
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酒造所跡は津山市によって買い取られ観光施設となる予定らしい
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勝間田町 苅田酒造前
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勝間田町の家並み
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河野美術館
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林田町から勝間田町
林田町 美須屋小路の石巌当
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橋本町の曲り
大橋
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大橋東詰の掲示板(ピクセル:1320x552)
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