2019.05.14 鳥取県日野郡日野町根雨 根雨宿

新庄宿からの出雲街道は 戸島川そして野呂川沿いを遡り後鳥羽公園に至る 後鳥羽公園は
室町時代に倒幕の企てに失敗し捕らえられ 隠岐に流される後鳥羽上皇が通ったことが由来とされる
その後 標高747mの 嵐ヶ乢を越えて美作国最後の集落である二ツ橋の集落に入る ここまで4.6kmの道程
二ツ橋の集落から難所と言われた四十曲峠までは僅か1.2kmほど 標高755mの峠を越えれば
500m弱で県道に合流する  峠から板井原宿までは3.7kmで 新庄・板井原宿間は9.5kmの道程である
今は 四十曲トンネルが開通し 旧街道・旧国道をあわせ峠越えには3つのルートが存在するが
旧街道は  歩行のみで峠越えをすることが可能で 一度は訪れてみたい峠道である
板井原宿から金持(かもち)集落まで約5km 金持には金持神社が鎮座する
近年 名前の通り金運を授かるとされ有名になった
金持神社
天常立尊(あめのとこたちのかみ)・八束水臣津奴命(やつかみずおみつぬのみこと)
淤美豆奴神(おみずぬのかみ)を祭神とし、近世までは三体妙見宮といわれていた。
社伝によると、出雲国薗妙見宮から勧請されたという。勧請された年代は不明である。
*出雲国薗妙見宮とは 国引き神話のある薗の長浜に鎮座する現・長浜神社(旧妙見大社)で
主祭神:八束水臣津野命 配神:布帝耳神(ふてみみかみ)・淤美豆奴神である

維新後に、現社名に改称された「金持」という景気のよい地名は、タタラか鍛冶に係わる
カヌチ・カナジの語から出た地名だろうといわれる。また、「太平記」に登場する金持景藤をはじめ
『吾妻鏡』『愚管抄』『大山寺縁起』などに名が出る金持氏の本拠地であったと思われる。
この「金持」という縁起の良い名前から、昭和後期から注目され始めた。
「当社に祈願してから宝くじを買ったら大当りした」とか、その真偽は別として、
噂が噂を呼んで今様流行神となりつつある。
と 由緒書きには 金運成就のあるなしについては 少し謙虚に引いた感じで書かれ好感が持てる
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国道の対岸にある金持の集落 田んぼの畦に立つ石灯籠は旧街道の物か?
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根雨宿
日野に人が住みだしたのは弥生時代で 黒坂・下榎・岩田・平ラ・榎市などに古墳が分布していることから
4世紀から6世紀頃になってさらに多くの人々が定住したものと考えられる
律令下では 伯耆国日野郡日野郷とされ 中世には荘園も拓かれて京文化が伝えられた
その後人や物資の移動が盛んになると 出雲往来と日野往来が交差する要衝となって町が形成された
戦国時代には尼子氏と毛利氏の戦場となり疲弊したが 豊臣時代には毛利氏の所領となり
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後 米子藩中村氏の支配となったが 慶長14年(1609年)中村氏が改易され
関一政の黒坂藩が立藩され東隣りの黒坂村に城が築かれた 元和4年(1618)家中不行き届きで同藩も改易
替わって姫路藩主池田輝政の孫・宗家の光政が因幡・伯耆国合わせて32万石を与えられて鳥取藩へ入封した
寛永9年(1632)光政が 死去した叔父の池田忠雄に替り備前国岡山藩主となり
忠雄の嫡男・池田光仲(光政の従兄弟)が鳥取藩へ移封された 以降明治維新まで鳥取の池田分家が
因幡・伯耆国32万5千石を治めることとなる 伯耆国内では米子城に家老の荒尾氏が入り自分手政治を行った
江戸時代に入ると 松江藩松平家の参勤交代の道として根雨に茶屋本陣(七里茶屋)が置かれ
宿場町・河港として繁栄し牛馬市も開かれた また 明治時代に近代製鉄が開始されるまで
古代から続くたたら製鉄が地域の重要な産業であり 江戸中期には当地の鋼が上方で極上品と珍重された
幕末には中国地方の鉄生産高は全国の9割を占め 明治の初めには最盛期を迎え35ヶ所のたたら場があった
1ヶ所のたたら場で千人を養うといわれ栄華を極めたが 大量生産の近代製鉄に押され昭和20年頃には消滅した
明治4年(1871)廃藩置県により鳥取県の管轄となり 明治9年(1876)鳥取県が島根県に統合される
明治12年(1879)日野郡が発足 郡役所が間地峠を越えた二部宿に設置された
明治14年(1881)鳥取県が島根県より分割復帰し鳥取県管轄となる
明治22年(1889)板井原宿・金持村・高尾村・根雨宿・三谷村・貝原村が合併して根雨村が発足
大正2年(1913)根雨村・真住村が合併して根雨町が発足
昭和28年(1953)日野村が根雨町に吸収合併される 昭和34年(1959)根雨・黒坂町が合併し日野町が発足
根雨の由来
日野町誌によると 奈良時代の初め頃 旱魃のため五穀の苗が全部枯れてしまい民が困り果てていたとき
根雨神社に雨乞いをしたところ たちまちこの里から雨が降り始め国中が潤い五穀も豊作となった
雨が草木の根を潤したという「根潤う」から転訛して「根雨」という地名が生まれたとされる
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1.本陣跡 2.日野町公舎 3.近藤家住宅(製鉄業で財を成した) 4.根雨歴史資料館(旧根雨公会堂)
5.旧根雨神社 6.根雨神社社叢 赤線は出雲街道
観光用の駐車場が見当たらないので根雨神社の鳥居の前にあった駐車スペースに駐めた
県指定天然記念物 根雨神社社叢
根雨神社社叢は、根雨の町並み西方にある現社殿社叢と市街地東方の旧社殿域からなる。
現社殿は標高190mに位置する。シラカシの巨木林としての面影を残している。
また、近郷には見られないカゴノキやオオキヨスミシダが成育している。
社殿に向って登る石段左横のカゴノキの大木は注目される。旧社殿域は宝仏山の西側に下った
標高210〜270mの尾根の末端に位置する。この社叢は常緑広葉樹林が安定した構成となる時期の
極相をよく保持している。斜面上部や尾根部にはシイ・モチノキ林が形成されており、
これらの間から抜き出てよく茂るシイの大木が目立つ。斜面下方や山すそ部ではシイが減少し、
シラカシ林となる。高木の樹高は20メートルにおよび、主要樹林の目通りの直径はシラカシで1m、
ウラジロガシで1.2mと大木が散見され、樹勢も良い。また、オオモミジやヤブツバキの大木も見られる。
日野郡域の数少ない常緑広葉樹林としての極相を保持し、小さな社叢内に上方はシイ林、すぐ下方には
シラカシ林といった森林植生の組み合わせは他に多くみられないも ので、貴重な社叢の一例といえる。
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根雨神社拝殿  通称「祗園さん」と呼ばれる 創建年は不明
社伝によれば 出雲国須賀宮(雲南市・須我神社)より牛頭天王を勧請したと言われ 牛頭天王社といわれた
牛頭天王を祀る社は祗園とも呼ばれ 牛頭天王とスサノオを神仏習合した信仰であった
神仏分離された明治以降は根雨神社と改められ 主祭神はスサノオとされた
その後 高尾・三谷の両神社を合祀し 現在は配神を含め16柱の神を祀る
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祇園橋と対岸の旧社々叢
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街道から見た現・根雨神社の社叢
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旧社々叢
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本陣の門
松江藩主は参勤交代の折 根雨宿に宿泊することを恒例とした 当時を物語る本陣の門である
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山陰合同銀行根雨支店
昭和4年(1929)に雲陽実業銀行根雨支店として建築された建物で その後 松江銀行へ吸収合併され
同銀行の支店となり 昭和16年(1941)松江銀行・米子銀行を統合させて山陰合同銀行が設立された
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平成30年(2018)観光複合施設「金持テラスひの」への移転に伴い閉店
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根雨宿場町と日野町公舎
江戸時代に出雲街道は上方往来として松江侯の参勤交代路となり、根雨はその宿場町として発展し栄えた。
本陣、お茶屋、問屋をはじめ駅馬、駕籠、渡守のいる舟場もあった。
日野町公舎は旧出店近藤で明治初年の建造である。二列型間取りで江戸時代の町家の平面構造・形態を
継承している。特にしっくい塗壁にむしこ窓や格子によって構成される卓越した外観は、
当地方の町家の特徴をよく発揮して往時の町並みの美しさを彷彿させる。
筋向いの広壮、重厚な近藤家とも合わせて、旧根雨宿場町の面影を残し、伝統的町並みの景観を構成している。
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近藤家住宅
近藤家の製鉄事業は 二代目の喜兵衛が安永8年(1779)から始めた 住居は片方に土蔵を取り込んだ
片方入り母屋造りの二階屋で 黒漆喰の長い虫籠窓・格子・出格子・赤味のある石州瓦葺き
煙だしもあり 手入れのいい見越しの松が白い土塀の上からのぞく
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近藤家の土塀と町並み
町並みの殆どは 耐寒性があり凍結に強い赤い石州瓦で葺かれている
伝統的な民家は切り妻造りの二階建ての平入りで格子・虫籠窓、白か黒の漆喰壁で煙だしのある家や
袖卯建のある家などである 道の両側に清水が流れ 庭に池を掘り清水を取りいれて鯉を飼う家が多い
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午後3時20分 根雨をあとにして九州へ帰る 今日は中国自動車道七塚原SAで車中泊 距離81.5km
途中かんぽの郷庄原で入浴する 明日は自宅まで376km 時間にして10時間ほどの行程
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