2019.05.14 岡山県真庭郡庄村村 新庄宿

美甘村と同じく旧美作国真島郡に属し 高田城(勝山)の支配下にあった
因幡国(鳥取県)に接する国境の村で難所の四十曲峠を控え 江戸時代初期から家が建ち始め
元禄2年(1689)には47戸 江戸時代末期には100戸程の町並みとなり 本陣・宿場町として栄えた
幕末の宿場は 問屋場・本陣・脇本陣があり 旅籠9戸 商家3戸 醸造業1戸 水車業1戸
紺屋・表具屋・髪結処・木地師・檜皮師・鍛冶屋各1戸 鉄山師4戸 馬喰2戸 専業農家47戸 兼業農家19戸
と記録されている 現在  日本で最も美しい村連合加盟自治体のひとつではあるが 豪雪地帯でもある
豊臣時代の天正12年(1584)には備前・美作を治めた宇喜多家の所領になり 関ヶ原後の慶長5年(1600)に
宇喜多氏から小早川家の支配に替わったが 2年で小早川家が無嗣断絶による改易となった
慶長8年(1603)美作国を岡山藩から分離し 森家による津山藩が立藩され 新庄村も森家の支配となった
元禄10年(1697)森氏が無嗣断絶により改易されてから天領となったが 江戸中期の明和元年(1764)に
高田藩(後に勝山藩に改称)が立藩され その支配下に入り 以降明治維新まで三浦氏の支配が続いた
明治5年(1872)新庄村が成立 明治9年(1876)から岡山県の管轄となる
明治22年(1889)町村制施行により単独で真島郡新庄村となる 単独自治体のため大字は編成しなかった
明治33年(1900)真島・大庭郡が合併して真庭郡となる
平成17年(2005)平成の大合併で 勝山・久世・落合・湯原・美甘・川上・八束・中和・上房郡北房の
5町4村が対等合併し真庭市が新設されたが 新庄村は単独で存続することを選択した
県内では 英田郡西粟倉村と共に村制をしく自治体の1つで 人口は県内最小である
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新庄宿マップ 1.本陣 2.脇本陣
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雲州侯本陣
寛永12年(1635)に参勤交代制がきまり、出雲街道をいつも通っていたのは、松江藩松平であつた。
元禄2年(1689)の文書によると、この町並みに御茶屋一軒あり、松平出羽守が通行の折りには、
毎年昼休みをされたという。佐藤家が松平指定の「御茶屋」になったのは、寛文6年(1666)であり、
その後の宝暦7年(1757)「本陣」役の請負ができた。
この頃から松平藩主は、昼休みだけでなく宿泊もするようになったのである。
本陣は、門・玄関・書院造り・上段の間で構成され 世襲制となって苗字帯刀が許された。
参勤交代1回目の先触は50日以上前に行われ、間取り図を付けた請書を提出した。2回目の先触は、
到着二日程前にあり、宿役人が宿割や人数割りを行い、当日は、定紋付幕・関札・提灯が掲げられた。
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凱旋(がいせん)桜
明治37年(1904)に勃発した日露戦争の勝利凱旋を記念して桜が植えられ「がいせん桜」と命名された
明治38年(1905)12月の村会で 戦勝の永き記憶 地方風致を保ち 衛生上も利するとして
桜の植樹が議決され 御幸橋より町尻までの200間(約360m)の長さに3間(約5.4m) 間隔で
137本の桜が植えられた 桜は100年以上の古木となり  樹木医による手当が継続的に施されている
がいせん桜並木は 春らんまんと花が咲き 夏の緑に秋の紅葉 冬は雪の花となり
四季折々に風情を変えて 旧出雲街道新庄宿の町並みを 美しく引き立てている
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出雲街道宿場町 脇本陣
江戸時代末期の代表的な建物です。式台があり、見越しの格子、親子格子の出格子を取りつけ、
二階は大壁造りで、一階は真壁造り、腰はささらこ下見板張りという造りです。
入り口の柱には、馬つなぎの環があり、トイレには今でも刀掛が残っています。
問屋場
宿場町の中心的な機能をもったところで、そこには、このような人達がいたのです。
問屋場の長 問屋の補佐役・年寄 帳付(書記)人足の割り当てをする人足指 馬の割り当てをする馬指
人馬賃銭
文化2年(1804)新庄宿−美甘宿 本馬1匹・143文 軽尻1匹・130文 人足1人・125文
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一里松
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