2011.06.23  浪速の散歩道 平野環濠集落

平野は 摂津国住吉郡杭全郷の東部にあり 後に竜田越奈良街道となった難波京と斑鳩・平安京を結ぶ
古代渋川道が通り また中高野街道の起点にもなった交通の要所である
平安時代初期に坂上田村麻呂の次男である坂上広野が荘園を拓いたことから 広野と呼ばれ
それが「平野」へ転訛したといわれている しかし かつて荘園は杭全(くまた)荘と呼ばれており
貞観4年(862)に鎮守社として牛頭天王を勧請し 杭全神社が創建された
その後 荘園は宇治平等院へ寄進され 織田信長の直轄地となるまでの約500年間は平等院領であった
鎌倉時代頃から平野荘とも別称され 大治2年(1127)に大念佛寺が開基されると 門前町が形成された
町は坂上氏の末裔を称する「平野七名家」による自治が行われ 戦国時代には町の周りに二重の濠と
土居を築き 13ヶ所の出入口全てに門と門番屋敷が設置された 門の脇には地蔵堂も建てられ
今でも12ヶ所の地蔵堂が現存している 濠内は七名家による分権が行われ 馬場・泥堂・市・野堂・流・
背戸口・西脇の本郷7町に分かれていた 戦国時代には浄土真宗の光永寺も開かれ門徒宗200余名が
石山本願寺の普請に携わったことが記録として残されており 本願寺との関係も深かったが
織田信長と本願寺の石山合戦には加わらず 信長の天下布武に対し中立を通したことで所領も安堵された
豊臣秀吉が天下統一後は 町の有力商人は大坂城下へ移住させられた 大坂の陣では七名家の筆頭とされる
末吉家が徳川方に味方し平野に徳川秀忠の陣が設けられている その勲功により元和元年(1615)末吉家は
平野および河内国の志紀郡・河内郡の代官に任ぜられ 大坂の陣で焼け野原となった平野の復興を行い
環濠も再度掘り直され河港も築かれた 寛永13年(1636)には 柏原村と大坂城下を結ぶ柏原舟が平野川を
通うようになって 寛文11年(1671)には馬継場にも指定され 水運・陸運双方の恩恵を受けるようになった
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江戸時代の摂津平野郷図
河内木綿の集散地として発展した平野は 元禄15年(1702)に本郷7町と濠外西方の
今林・新在家・今在家・中野の四村を統合して平野郷町となり 野堂町に惣会所が設置された
明治12年(1879)に散郷4村が再び分離 明治16年(1883)には本郷7町もそれぞれ分離したが
明治22年(1889)町村制施行で本郷7町が合併し平野郷町が発足 大正14年(1925)に大阪市へ編入された
第二次大戦後の空中写真では 濠外に田畑が拡がるのを見て取れるが 高度成長期を迎え一気に宅地化された
環濠も 明治以降は徐々に埋め立てられ 今は杭全神社の東に200m程度しか残っていない
しかし一方では 環濠内の町割りは往時のまま ほぼ残存している
環濠と十三口地蔵堂
杭全神社(くまたじんじゃ)
現在 杭全は神社の西1.5kmの東住吉区の町名であるが かつては一帯が杭全荘という荘園であった
貞観4年(862年)荘園を支配していた坂上当道が 牛頭天王を勧請し鎮守社を創建したのが始まりで
元亨元年(1321)後醍醐天皇の勅命により熊野三所権現(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀した
かつては祇園宮 または熊野権現社と呼ばれていたが 明治になって現在の杭全神社に改称された
明治以降 主祭神は素盞嗚尊である 配神として熊野三所権現を祀る
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鎌倉時代建立の大門
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重要文化財の本殿 <wikipedia
第一殿は 正徳元年(1711)に奈良春日大社の本殿を移築
第二・第三殿は 永正10年(1513)造営の記録が残る大阪市内最古の建造物である
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境内摂社 恵比寿神社
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大阪府指定天然記念物 杭全神社のクス
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神社の東に残る環濠
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参道の宇賀弁財天 社の建つ池は環濠の一部であった
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宮前交差点の鳥居 後方は金光教
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十三口・社内口の道標 右大坂
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道標の南・東面
菓子舗の福助人形
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環濠集落外周道路(路面の印)
奈良街道(竜田越)泥堂口地蔵堂
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平野小学校々庭の一里塚跡と国道25号線
平野上町の旧家
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融通念仏宗総本山 諸仏護念院大源山 大念佛寺
平安時代の大治2年(1127)比叡山天台宗の僧・良忍が 鳥羽上皇の勅願により開基した念仏道場である
平野荘を支配する坂上広野の私邸内に建立した菩提所の融通念仏道場・修楽寺の別院が前身となる
その後 鎌倉時代の永享元年(1321)に第7世・法明が中興して寺域を拡大し伽藍を整備したが
度重なる兵火に遭い荒廃した 江戸時代の元禄年間に 第46世・大通が諸堂を再建し融通念仏宗の本山とした
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小馬場口地蔵堂
田邊道西脇口地蔵堂
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上町の旧家
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上町2丁目9 環濠外周道路の標識
西高野街道 奈良街道は左へ
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平野本町2丁目4 南海平野線 終点停留所跡
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平野線とモ205型電車
南海平野線は大正3年4月26日今池・平野間の開業以来、 大阪市東南部の重要な足として
地域の人々に親しまれてきましたが、地下鉄谷町線天王寺・八尾南間の開通により昭和55年11月28日
66年の歴史をとじました。 モ205型電車は、開業当初の木造車を昭和10年代に鋼製化したもので、
通称(改造車)とよばれ平野線で活躍しました。また、広場中央の照明塔屋根は八角形の欧風木造建築物として
建築史上もユニークな平野駅駅舎のイメージをとり入れたものです。
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線路跡は一部を除き 阪神高速14号松原線橋脚の敷地に転化されている
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明治41年測図 大正1年発行地図
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現在の航空写真 目を凝らせば環濠の跡が見えてくる
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