2010.03.26  浪速の散歩道  河内と和泉

河内(かわち)
律令時代の河内国は 生駒・金剛山地の西方に沿った南北に細長い地域で 現在の大阪府東部に該当し
奈良時代初頭まで和泉国の領域も含んでいた 大阪の中央部にある平野は 縄文時代の温暖化による
海水面の上昇によってできた河内湾が 上町台地から北へ伸びる砂嘴によって塞がれ 河内湖となり
淀川と大和川から流入する土砂が その後 湖内に堆積して出来たもので
新開池(しんがいけ)・深野池(ふこのいけ)の2つの広大な水面をもつ池が残っていた
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●<上左>縄文時代前期前半 海水面の上昇によって河内湾ができた
●<上中>弥生時代後期から古墳時代前期 上町台地から北へ伸びる砂嘴によって塞がれ河内湖となった
●<上右>川の堆積作用で平野が生まれ 新開池・深野池が残った
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上図は大阪デジタル標高地形図で 薄い水色の範囲で河内湖の姿が微かに分かる
奈良盆地周辺の山から水を集めた大和川は 金剛・生駒鞍部の峡谷から河内平野に出るが
上町台地に遮られ蛇行しながら河内平野を北へと流れ 長瀬川や玉串川など多くの支流に分かれた後
深野池・新開池及び広い範囲の低湿地帯を通り 淀川に合流して大阪湾に注いでいた
現在は水路と化した大和川本流の長瀬川は 広いところでは川幅が700mもあり 河内の里を潤した
また 大阪と奈良を最短で結ぶ水路として剣先船が往きかい 久宝寺や八尾といった町が栄えた
玉串川は菱江川と吉田川に分かれ 分流地点である現在の近鉄花園駅付近は物資の集散地として発展し
定期的に市が開かれ市場村と呼ばれていた 江戸時代 大坂から船で淀川・新開池・深野池と進み
舟で「野崎参り」をすることが盛んになった しかし大和川は 何百年もの長い間に土砂が積み重なり
天井川となって一旦氾濫すると大きな被害をもたらした 幕府に対する河内住民の50年にもわたる直訴で
漸く 宝永元年(1704)2月に大和川付け替え工事が始まり 多くの農民の労力と豪商の資金によって
工期を二年以上短縮し 僅か八ヶ月足らずで竣工させた 旧河川は運河として残され 両大池は水量が減少し
新開池は 宝永2年(1705)大阪の豪商・鴻池善右衛門宗利によって 約119haの鴻池新田に生まれ変わり
深野池や周辺の低湿地は新田が拓かれ それに伴い水路も整備されて農業と田舟による水運が盛んになった
農地となった旧河床は砂地で稲作には不向きであったため 木綿栽培が始まり河内木綿の一大産地となった
明治になると 天井川であった旧河川沿いに鉄道が敷設され 駅周辺に町が出来た 新開池は姿を消し
深野池も一部が調整池として残るのみであるが わずか半世紀前の高度成長期まで 河内平野は
河内の作家・今東光の小説に出てくるような豊かな田園風景の続く水郷地帯であった
和泉(いずみ)
もとは「泉」であったが 和銅6年(713)に 国名や郡名を二字とする政令が定められ「和泉」とした
霊亀2年(716)に河内国から和泉郡・日根郡・大鳥郡を割き 和泉監(いずみのげん)が建てられた
天平12年(740)和泉監を廃止し再び河内国になったが 天平宝字元年(757)に再度分離し和泉国となった
立国時の郡は 大鳥郡・和泉郡・日根郡であったが 13世紀頃に和泉郡より南郡が分割された
明治4年(1871)に摂津国との境界が 長尾街道筋(堺から東へ二上山の北・田尻峠越えで葛城の長尾神社
に至る道筋)から大和川に変更された 明治29年(1896)の郡制施行により 泉北郡と泉南郡に収束した
●北河内 枚方・寝屋川・交野・守口・門真
四條畷・大東の各市と大阪市鶴見区の一部
●中河内は 河内音頭発祥の地で河内の中核
東大阪市・八尾市・大阪市鶴見区の一部
生野区の一部・平野区の大半
●南河内 松原・藤井寺・柏原・太子・河南
羽曳野・大阪狭山・富田林
河内長野の各市と千早赤阪村
堺市北区の一部・堺市東区と美原区の全域
●和泉 堺市堺区・西区・中区・南区の全域
堺市北区の一部と高石・泉大津・和泉
岸和田・貝塚・泉佐野・泉南・阪南の各市
忠岡町・熊取町・田尻町・岬町

文化的には 河内と和泉のつながりは古く
他県から見るとその違いが分かりにくいが
明治までは 江戸幕府の政策により
人的交流は少なく 河内でも北と南では
違いがある 北部は大阪と交流が深く
南部は奈良との交流が深い
和泉の泉北は摂南の住吉や河内と
泉南は和歌山と結びつきが強く
それぞれ微妙に違う文化を醸し出している
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西行法師終焉の地 河南町弘川 真言宗醍醐派 竜池山 弘川寺(ひろかわでら)
本尊は薬師如来 天智天皇4年(665)に役小角によって創建されたと伝えられる
平安時代の弘仁3年(812)空海によって中興され 文治5年(1189)西行法師がこの寺を訪れ この地で没す
江戸時代の寛延年間(1747〜1750)に 歌僧似雲がこの寺を訪れ 西行堂を建立した
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弘川寺 西行堂
河内長野市 高野山真言宗 檜尾山 観心寺(かんしんじ)
本尊は如意輪観音坐像 寺伝によれば 大宝元年(701)役小角が開創し雲心寺と称したとされる その後
大同3年(808)に空海がこの地を訪れ「北斗七星」を勧請したとされ 7つの「星塚」が現在も境内にある
弘仁6年(815)再度 空海が訪れ如意輪観音像を刻んで安置して「観心寺」の寺号を与えたとされるが
この説話は伝承の域を出ない しかし本尊として安置される如意輪観音像は 様式的に9世紀の作品とされ
他に 奈良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから 奈良時代草創説もあながち否定はできない
観心寺の実質的な開基は 空海の一番弟子にあたる実恵とされる 観心寺縁起によると天長4年(827)に
実恵の意を受けて弟子の真紹が造営を始め 鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇る大寺院となった
同寺は 楠木氏の菩提寺であり南朝ゆかりの寺としても知られ 正平14年(1359)12月から翌年9月まで
後村上天皇の行宮となった 境内には後村上天皇桧尾陵がある
室町以降は 管領畠山氏の庇護を受けて栄えたが 戦国時代に織田信長に寺領を没収された
文禄3年(1594)に 25石の寄進を豊臣秀吉から授かり 秀頼によって金堂や諸堂の修復などが行われた
江戸時代に檀家の旗本甲斐庄氏などの支援で伽藍の維持に努め 安永年間(1772−1781)には
30余りの塔頭があったが 幕末には12坊と減少し明治の廃仏毀釈でさらに衰退し
今では本坊となった槙本院の他には中院を残すのみである
平成17年(2005)に総本山金剛峯寺より遺跡本山の寺格が贈与された
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国宝の金堂 南北朝時代の正平年間(1346−1370)の建立
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弁才天堂
御影堂と修業大師
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建掛塔(たてかけとう)
三重塔の一重目だけが建てられた未完成の建築である 伝承によれば 楠木正成が南朝勝利を祈願して
三重塔の建立を発願したが 造営なかばで湊川で討ち死にしたため建築が中断されたという
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後村上天皇檜尾陵参道
河内長野市 真言宗御室派 天野山 金剛寺
大阪在住で中学生の頃 耐寒歩行訓練の休憩地で暖かい豚汁が印象に残っている
寺伝ではインドのアショーカ王(阿育王)が投げた8万4千の鉄塔のうちの一つがこの地に落ちたとする
奈良時代に聖武天皇の勅願によって行基が開いたとされ その後 空海も修行をしたとされている
平安時代末期に高野山の僧・阿観が庵を結んだ後 後白河上皇と妹の八条院が帰依し 治承4年(1180)には
地元の源貞弘から土地を寄進されるなどして 金堂・御影堂などを建立し再興した
八条院の帰依の他 八条院の侍女大弐局と妹の六条局が 阿観の弟子として尼僧となり
また 二代続けて院主となるなど 女性の参詣ができたため「女人高野」と呼ばれて有名となった
最も栄えた鎌倉時代末期には100近い塔頭があり 南北朝時代には観心寺と共に南朝方の一大拠点となったが
正平15年(1360)には北朝の畠山氏の攻撃を受けて40余りの塔頭が焼失した その後は戦火にも遭わず
依然として残された塔頭が70もあって威勢を誇り 江戸時代末期には307石の寺領も抱えていた
明治の廃仏毀釈によって塔頭は減少衰退し 現在では摩尼院、観蔵院、吉祥院を残すのみであるが
主要伽藍などが戦火に遭遇することなく貴重な文化財が今なお数多く残されている
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登録有形文化財 昭和16年建築の鎮守橋
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境内の枝垂れ桜
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天野川
和泉市 天台宗 槙尾山 施福寺
通称は槇尾寺(まきおでら)山号の槇尾山は「まきのおさん」と読む 気軽なハイキングコースである
本尊は弥勒菩薩 古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で 葛城修験道の寺院として創建されたものとみられている
正平15年の『槇尾山大縁起』によると 欽明天皇の時代に播磨国加古郡の行満上人が創建したものと伝わる
しかし施福寺草創期の歴史は判然とせず 『日本霊異記』に表される「和泉国泉郡の血渟(ちぬ)の山寺」は
施福寺のこととされており 同書の成立した9世紀前半には著名な真言宗寺院であったことが辛うじて伺われる
南北朝時代には 南朝方の拠点の一つとなってからは戦火に巻き込まれることが多くなり 寺は衰亡した
天正9年(1581)織田信長と対立し全山焼き払われるが 慶長8年(1603)豊臣秀頼によって伽藍が復興された
江戸時代は 徳川家の援助で栄え その関係上 寛永年間頃に天台宗に改宗し 上野・寛永寺の末寺となった
江戸時代末期の弘化2年(1845)の山火事で仁王門を除く伽藍を焼失し 現在の本堂等はその後の再建である
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弘化2年(1845)の山火事で残された仁王門 建築年代は不明
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対岸にある廃参道の石橋と石塔
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仁王門の六丁石 本堂まで約655m 駐車場から本堂までは約1kmの山登り
和泉市父鬼町 南横山八坂神社
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参道の石橋
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阿弥陀寺への参道 阿弥陀橋と槙尾川
泉大津市中町一丁目 和泉穴師神社(いずみあなしじんじゃ)
創建年代は不明 天平10年(738)の和泉監正税帳によると 聖武天皇から社領を賜ったという記録がある
元弘元年(1331)楠木正成が石燈籠を奉納し 天正3年(1575)織田信長より社領安堵の朱印状を与えられ
慶長7年(1602)に豊臣秀頼によって社殿が再建された 和泉五社のひとつに数えられ 泉州二ノ宮である
主祭神は 農業神の天忍穂耳尊(アメノオシホミミノミコト)と
機織神 栲幡千々姫命(タクハタチチヒメノミコト)の夫婦二柱の神で 江戸時代に繊維産業が興り
現在に至るまで盛んな地であり 機織神の栲幡千千姫命は織物に関係する神として崇敬されている
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埋め立てられた川と石橋
以前は中央の太鼓橋を 神輿を担いで渡ったらしいが 今は左右の橋を渡る
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和泉市黒鳥町二丁目 山口大師堂
和泉市 だんじり小屋

堺市西区 高野山真言宗 一乗山 家原寺(えばらじ)
高野山真言宗別格本山の寺院で 院号は清涼院 本尊は文殊菩薩 昔から「家原の文殊さん」として有名である
寺伝によれば 慶雲元年(704)行基が自分の生家を寺に改めたのに始まるとされる
かつては多くの坊があったが 兵火などにあい衰退した 江戸時代に田安家が帰依して寺領を与えられた
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本堂
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境内の参道石橋
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堺市北区百舌鳥赤畑町 百舌鳥八幡宮(もずはちまんぐう)
約一万坪の境内を有し 大阪府の天然記念物に指定されている樹齢約800年の巨大なクスノキが茂る
主祭神は 応神天皇・神功皇后・仲哀天皇で 配神として住吉大神・春日大神を祀る
創祀は古く 欽明天皇(532−571)の頃とされ 八幡神の宣託をうけてこの地を万代(もず)と称したのが
始まりと伝わる 江戸時代は大坂城代が替わる度に この神社に参拝していたという由緒ある宮である
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参道の八幡橋
岸和田市池尻町 高野山真言宗 龍臥山 久米田寺(くめだでら)
本尊は釈迦如来 院号は隆池院 行基が指導し開削した久米田池を維持管理するため 天平10年(738)に
行基によって創建されたと伝えられる寺 当時の寺域は「東は角河の流れ、春木の峯ならびに上の津川の東峯、
七層の峯を限り、南は葛城の横峯、西は松村の登路ならびに延年ヶ峯・八坂切上を、
そして北は熊野詣大通を限りに、この四至内の田畑地利を挙げて仏聖の灯油重僧のころ依怙となさしむ」とあり
かなりの規模であったと推測され これが山号の由来となった 平安時代後期に承久の乱により荒廃したが
鎌倉時代に再興された 室町時代には足利尊氏・直義兄弟により全国に設けられた安国寺のひとつに指定された
戦国時代に兵火等によりほぼ焼失したが 江戸時代前期の永保2年(1674)には復興を果たしている
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和泉府中からの散歩道で見かけた七福神の瓦
久米田寺山門
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本堂
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岸和田市 久米田池
池尻町と岡山町にまたがる大阪府下最大の灌漑用池で 三方を台地に囲まれ残りの一方に堤防を構築して
作られた 池の中央部には 旧春木川の川床が見られ川をせき止めることによって構築されている
八木郷および付近一帯は水に乏しかったため 聖武天皇がこの池の開削を行基に命じ
神亀2年(725)から天平10年(738)まで14年におよぶ工事を経て竣工した
また 聖武天皇は久米田寺に対してため池の維持管理を命じ 院号を「隆池院」にしたと言われている
戦国期には久米田寺が管理から外れ 灌漑地域12か村で久米田池郷が結成され昭和32年まで管理された
久米田池郷は 昭和32年(1957)に 土地改良法に基づく久米田池土地改良区となった
久米田池には 年間100種類以上の野鳥が訪れ 野鳥の「国際空港」といわれている
カモ類は10月後半の数日間に中国大陸から数千羽飛来し カムチャッカ半島からはシギ・チドリ類が飛来し
その後 南半球のオーストラリアへ飛び立っていく そのほか 特別天然記念物であるナベヅルの
2ヶ月間の滞在や コウノトリの飛来などもあった また 絶滅危惧種のカワチブナの養殖も行われている
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