2008.08.18/2010.03.27/2011.06.23  天王寺界隈散歩

荒陵山 和宗総本山 四天王寺
正確には「してんのうじ」と読むが せわしない大阪人は「し・う」を抜いて「てんのじさん」と呼ぶ
荒陵は「あらはか」と読み 古代の「茅渟の海」(ちぬのうみ=大阪湾)に面した浜の背後丘陵地であった
四天王寺は この丘陵地・荒陵の東にあった荒陵池を埋立て建立されたという伝承が残っている
当寺周辺の区・駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である 太子が四天王寺を創建した際に
鎮守社として 大江・上之宮・小儀・久保・土塔・河堀稲生・堀越の七宮を建立した
江戸時代に これらの宮を産土神とする七つの集落が東成郡天王寺村となり「てんのじむら」と呼ばれた
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国土地理院空中写真
聖徳太子建立の七大寺のひとつとされ 蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)と並ぶ最古の仏教寺院である
本尊は救世観音菩薩(ぐぜかんのんぼさつ)である 別名に金光明四天王大護国寺や
過去に荒陵寺・難波大寺・御津寺・堀江寺などと呼ばれた 『日本書紀』によれば推古天皇元年(593)に
造立が開始されたといわれ 草創の由来について次のように記されている
用明天皇2年(587)対立していた蘇我氏と物部氏の間に武力闘争が勃発した
蘇我氏は仏教を物部氏は古代神道をそれぞれ信仰の対象としていたとされており
宗教戦争のように語られてはいるが 新興勢力と既成権力の闘争であることに違いはない
蘇我軍は物部氏の本拠地・河内国渋河へ攻めいったが 籠城した物部守屋に苦戦を強いら三たび退却した
蘇我軍の後方にいた厩戸皇子(聖徳太子)が 白膠木(ヌルデ)の木で四天王を形どり
「もしこの戦に勝利したなら 必ずや四天王を安置する寺塔を建てようぞ」と誓願をすると
味方が放った矢が物部守屋に命中し 戦いは蘇我氏の勝利に終わった 6年後の推古天皇元年(593)
聖徳太子は請願通りに 摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかったと記されている

その他の異説では 当初の建立地は上町台地の北部に位置する玉造の岸上にあり 丁未の乱で敗死した
物部守屋とその一族の霊を鎮めるため 玉造の守屋邸跡に御堂を営み 六年後 荒陵の地に本格的な伽藍建築が
造営されたとされる説もある また建立の由来も 寺内に守屋祠があることから御陵社である説もある
また 山号の「荒陵山」から かつてあった大規模な古墳を壊し造営したのではないかといわれ
庭園の石橋に古墳の石棺が利用されていることや 大帝塚山古墳が 別名として荒陵とも呼ばれていたことを
傍証としてあげている その他 高津宮が仁徳天皇の皇居であったとする調査研究結果などから
歴代天皇のいずれかの皇居であったのではないかという説も存在する
第二次世界大戦前は天台宗に属していたが 終戦後 元来は特定宗派に属さない
八宗兼学の寺であったことから 昭和21年(1946)に「和宗」の総本山として独立した
創建以来たび重なる災害や戦火のため 古い建物はことごとく失われており 現在の伽藍建築は
昭和32年から昭和38年(1963)にかけて 飛鳥様式を再現し鉄筋コンクリート造で再建されたものである
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昔より上町台地南方の谷に湧く清水井戸と地蔵尊 現在もこんこんと清水が湧き出る
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飛び地境内の庚申堂 青面金剛童子・四天王を祀る 日本三庚申のひとつで日本初の庚申尊
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門前の米屋も「庚申米穀店」
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庚申街道を北へ四天王寺の塔を見る
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国道25号に面して南大門あり
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推古天皇元年(593年)に聖徳太子の建立による 中門 塔 講堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置
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六時礼讃堂と亀池
漫才のギャグに「てんのじさんの亀に豆やったら 亀 豆 かめまめんね」というのがあった
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四天王寺 唐門(南通用門)
四天王寺には唐門が二ヶ所ある 五智光院入口門と南大門の東にある通用門 この二ヶ所の唐門には
門扉と屋根瓦などに 五智光院が徳川秀忠により再建されたことを印す葵の紋がある
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亀遊嶋 辯天堂
東大門を入った南面に月無池あり、この池には月の影を宿さず、月無池と名づくとの言い伝えあり、
別名下の池と名づく。この池の中央に嶋あり亀遊嶋と名づく、嶋の中央に辯天堂あり、
本殿は約一坪の六角堂にして丹塗なり、中央に亀遊嶋辯才天を祀る。
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四天王寺・西の極楽門を出ると重要文化財の石鳥居がある
永仁2年(1294)に それまでの木造鳥居を石鳥居にあらためたもので 神仏習合の名残である
扁額は銅製鋳物で「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とあり
「ここは釈迦如来が仏法を説く場所で極楽の入口である」との意である
茅渟の海に沈む夕陽を敬拝して 極楽往生を念じる聖地であった
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天王寺区逢阪1丁目 祭り用品の「だんじり屋」
逢阪は 紀州街道・堺筋の恵美須町から龍田越奈良街道に入り 上町台地の荒陵(あらはか)に上る坂のことで
一心寺前から四天王寺南大門前あたりを指す この逢阪(おうさか)は 現在の「大阪」の元となったとされる
江戸時代までは 道も狭く急坂道の難所であったが 明治9年(1876)に茶臼山観音寺住職の静明が寄付を募り
坂を切り崩して緩やかにする工事が施された 明治42年(1909)には 市電の敷設に伴い道路が拡幅された
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四天王寺七宮のひとつ 堀越神社
明治中期まで 境内の南に堀があり 堀を越えて参詣したので 堀越といわれた
聖徳太子が 叔父に当たる崇峻天皇を偲んで 四天王寺建立と同時にその守り神として創建
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谷町筋にある これぞ浪速の即物的看板  道頓堀の動くカニと同一部類に属す
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天王寺公園と通天閣
天王寺公園は 明治36年(1903)に開催された第5回内国勧業博覧会の跡地を利用して 明治42年に開園
残りの通天閣を含む西側の跡地が新世界となった 大正4年(1915)東京上野・京都岡崎に次いで
国内3番目の天王寺動物園が開園している その他園内には現在も植物温室・市立美術館・慶沢園を擁し
かつては図書館や公会堂のほか野外音楽堂もあった 通天閣も同じく博覧会の跡地に開園した遊園地
新世界ルナパークの目玉として初代通天閣が 明治45年(1912)7月3日のルナパーク開園に合わせ建設された
昭和18年(1943)1月 初代通天閣が延焼火災で焼け落ちたが 1950年代に入って再建話が持ち上がり
紆余曲折を経て 昭和31年(1956)に完成した 設計に携わった内藤多仲早稲田大学教授は
昭和33年(1958)竣工した東京タワーの設計も担うこととなった
慶沢園
住友家茶臼山本邸庭園として 明治41年(1908)に造園が開始された
大小3つの島が浮かぶ池を配した 林泉回遊式の近代日本庭園である 全国から名石・名木を集めた広大な庭園は
完成までに10年を費やし 完成後大正10年(1921)に住友家から隣接する茶臼山とともに大阪市に寄贈された
現在は昭和11年(1936)に園の隣地に建設された大阪市立美術館とともに一般に公開されている
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市立美術館
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市立美術館は 財閥の住友家本邸が大正3年(1914)に建てられた敷地を 後に住友家から
美術館建設を条件として「慶沢園」とともに寄贈され 昭和11年(1936)に開館した
昭和17年から昭和22年までの期間 帝国陸軍および終戦後は占領軍に接収されていた
天王寺公園から通天閣へ
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天王寺公園美術館西側の歩道
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市立美術館前から動物園を跨ぐ歩道橋
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新世界中央通り 日立のネオン広告は再建の翌年から
以前 永く大阪で暮らしていたのに通天閣に登るのは初めて
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展望台から東部・一心寺(手前)と生駒山遠望
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展望台から北部 大阪城遠望(左上・黒いビルの手前)
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BILLIKEN(ビリケン)は 尖った頭と吊り上がった目が特徴の子供の姿をしている幸運の神
「ビリケンさん」の愛称で親しまれ 特に足を掻いてあげるとご利益があるとされている
足の裏がすり減っている分だけ「幸せ」を人々に与えてきたわけである
その出自は1908年(明治41年)アメリカ合衆国の芸術家フローレンス・プリッツ(Florence Pretz)が制作した像
彼女が夢の中で見た神とされ 形態としては中国人の祭る偶像JOSSをモデルにして「シカゴ美術展」に出品し
大好評となる 後に人形の老舗ホースマン・カンパニー(E.I.Horsman Co.)によって製造されアメリカ・カナダの
市場で販売される 名前は当時アメリカ大統領であった ウィリアム・タフトの愛称<Billi>が由来とされ
「幸福の神様」として世界中で流行する 現在でもセントルイス大学では今もマスコットとして親しまれている
日本には1909年頃渡来し 明治44年(1911)大阪の繊維会社・神田屋田村商店(現:田村駒株式会社)が
商標登録を行い 販売促進用品や商品キャラクターとして使用した 大正元年(1912)大阪・新世界に
遊園地・ルナパークがオープンし当時流行していたビリケン像が置かれ 新世界の名物となるが
ルナパークの閉鎖とともに ビリケン像は行方不明となった
昭和54年(1979)通天閣ふれあい広場の開場に かつて新世界の名物であったビリケン像を復活させることになり
安藤新平氏の彫刻により戦前のビリケン像が木彫で復元され 通天閣の名物となっている
Link:通天閣ビリケン公式ホームページ
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阪堺電気軌道阪堺線 恵美須町駅 明治44年(1911)12月1日開業
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解体中の遊園地フェスティバルゲート
元は 大阪市交通局の市電霞町車庫があり バブル期の1989年の車庫跡地開発計画に則り
 大型遊具や娯楽施設と商業施設を合体させたフェスティバルゲートが建設され 1997年7月開業した
しかし翌年にはアジア通貨危機による不況の煽りを受け さらにはUSJの開業等の打撃を受けて
2004年2月に車庫跡地開発計画の土地信託プロジェクトに参加していた 東洋・中央・三井の信託三行が
事業からの撤退を表明し 運営会社のフェスティバルゲート株式会社はあえなく倒産
大阪市は 最終的に200億円の赤字を補填する形となって 僅か7年足らずで閉鎖された
現在は マルハンとドン・キホーテが入る商業施設となっている
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この辺りでは 「マンション」ではなく「アパート」らしい(ひょっとして簡易宿泊所?)
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通天閣本通商店街
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阪堺電車 恵美須町駅
日本橋 北向地蔵
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