2008.08.24  浪速の散歩道 難波宮跡から清水坂

本町から谷町四丁目まで地下鉄で移動 上町台地北部の難波宮跡へ 上町台地から谷町へ
法円坂を下りて 松屋町筋を南へ 瓦屋町から高津宮 松屋町筋から生國魂神社のある
上町台地へ再び上がりまた下る 源聖寺坂を上って寺町を南下 夕陽丘の愛染堂に
上町台地を上下しながら天王寺駅までの散歩道
JR今宮駅−地下鉄本町駅 5.7km 地下鉄谷町四丁目駅−JR天王寺駅 7.5km 合わせて約13kmの散歩道
難波宮跡
難波宮(なにわのみや)は『日本書紀』には記載され 歴史的には存在が確認されていたが 推定地域一帯を
帝国陸軍が用地接収していたため調査が不可能で 第二次世界大戦が終わるまで所在地は不明なままであった
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国土地理院空中写真
難波宮の造営は 前期と後期に分かれ 前期は 蘇我氏を滅亡させた乙巳の変の後
孝徳天皇645年に難波へ遷都が行われ 652年に宮殿が完成した
遷都の翌年には「大化の改新」の詔を出している この宮の建物はすべてが掘立柱の建物で屋根も草葺であった
672年の壬申の乱以後 飛鳥板蓋宮と難波宮を都としていたが 686年正月に難波の宮殿が全焼してしまった
後期・難波宮は奈良時代に造営され 神亀3年(726)に聖武天皇によって 平城京の副都として
難波京の造営が始まり 礎石建・瓦葺屋根の宮殿が建てられた
その後 聖武天皇によって 平城京・恭仁京・難波京へと目まぐるしく遷都が行われ
天平17年(745)1月に 難波京から紫香楽宮へ遷都された 延暦3年(784)桓武天皇による長岡京遷都の際に
大極殿などの建物が長岡京に移築され 難波宮は消滅した
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大極殿跡のホームレステント 太閤さんに抱かれて見る夢はどんなもの
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予算不足か草が茫々 水道無料トイレ完備のホームレス団地もあって 夜は誰も来ないだろう
空堀商店街
愛称は「はいからほり」 大坂冬の陣後に埋め立てられた大坂城南惣構堀遺構の空堀通り西半分
上町筋から松屋町筋に至る長さ約800mのアーケード街 上町台地の西側斜面に位置するため松屋町筋まで
標高差17mほどの下り坂となっている 江戸時代には 瓦用の土取場が広がっていた為今も起伏に富む
谷町筋近辺に 生駒町・宮崎町・田島町・万年町・立半町・柏原町・上本町・札之辻町といった町が形成され
五十軒屋敷と呼ばれた鉄砲同心の屋敷地もあった 明治に武家屋敷は破壊され畑地が拡がったが
明治中期以降 人工の増加と共に 畑地や土取場は地形もそのままに家屋が密集するようになった
大阪大空襲では奇跡的に焼失を免れ 狭い路地が複雑にめぐり昔ながらの長屋などが残ることになった
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法円坂の下「谷あい」の町が谷町 谷六の空堀商店街も坂道で 下りたら松屋町筋
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松屋町筋は人形・玩具・駄菓子の問屋街 空堀から北側が松屋町 南側は瓦屋町
大阪の人は「マッチャまち」と呼ぶが 菓子・玩具の問屋街で「抹茶」は売っていない
また 南北に通る道を「筋」東西の道を「通り」と呼ぶが 筋は有名でも 通りの名は分かり辛い
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東横堀川と九之助橋(くのすけばし)
東横堀川は 天正13年(1585)大坂城の西惣構堀として開削された最古の堀川である
慶長20年(1615)の大坂冬の陣で徳川方と豊臣方和睦の際 大坂城の惣掘の一部であるため埋め立てられたが
大坂夏の陣で大坂城が落城するとすぐに掘り返され 同時に南の堀止から西へ道頓堀川が開削された
元和8年(1622)には末吉橋の下流側から西へ長堀川(現在は埋立)が開削された
九之助橋
架橋時期は不明であるが 江戸時代初期の絵図には描かれている 名称の久之助は人名と考えられるが
由来は不明である 昭和2年(1926)に3径間の鋼製アーチ橋に架けかえられた
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瓦屋町二丁目交差点と瓦屋橋
橋の東詰一帯は元々西高津村であったが 江戸時代初期の元和元年(1615)に 御用瓦師の寺島宗左衛門が
4万6千坪を拝領し 元禄7年(1694)に全域が南瓦屋町(現・瓦屋町)として大坂三郷に組み込まれた
上町台地西崖のこの辺りは 古代より良質の粘土が取れ 江戸時代には大阪市街での瓦生産の中心地となった
瓦屋橋は 元禄時代中期に初めて架けられたと言われ 橋長十九間二尺(38.0m)
幅員一間半二尺七寸五分(3.8m)の木橋であった その為 江戸時代を通し約15年ごとに橋が架け替えられた
昭和7年(1932)10月に 木橋から四径間の鋼桁橋に架け替えられた
橋長37.7m・幅員6.5mで 橋脚は長さ6.5mの鋳鉄製の柱を3本建とした
昭和41年(1966)に現在の橋に架け替えられ 後に歩道が増設され 幅員が9.0mとなって現在に至っている
高津宮「こうづさん」から生國魂神社「いくたまさん」へ 丘に登っては下り下っては登る
このあたり平安時代から熊野街道があったところ 下寺町に下りてまた生玉寺町へ上る 坂から坂の連続
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高津宮(こうづぐう)
主祭神は 難波に都を定めた第16代仁徳天皇で 人家の竈から煙が立ち上っていないことに気づき
3年間租税を免除した その間自らも倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う
『記紀』の逸話「民のかまど」に見られるような仁政を行った 諡の「仁徳」の号もこれに由来している
その他 祖父の仲哀天皇・祖母の神功皇后・父の応神天皇の三柱を左座に祀り
后の葦姫皇后と長子の履中天皇の二柱を右座に祀っている 難波宮消滅から約80年後の貞観8年(866)に
清和天皇の勅命により難波高津宮(たかつのみや)の跡地が探索され その地に社殿を築いて仁徳天皇を祀った
しかし 天正11年(1583)秀吉が大坂城を築城する際に 現在地にあった比売古曽神社を地主神として
その境内に御神体を遷座し摂社とした その後 高津宮が地主神となって比売古曽神社が摂社となった
高津宮の旧社地については 現・難波宮跡周辺であったことには違いはないが現在も不明である
1945年3月の大阪大空襲によって神輿庫を残して社殿が全て焼失したが 1961年10月に再建された
上方落語の「高津の富」「高倉狐」「崇徳院」の舞台として知られ 古くから町人文化の中心として賑わった
境内の参集殿は「高津の富亭」と呼ばれ 落語の寄席や文楽などが今でも演じられている
これには五代目桂文枝一門が深くかかわり 文枝が亡くなった翌2006年3月に 桂文枝の石碑が建立された
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摂社の比売古曽神社と五代目桂文枝師匠の石碑
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参道の坂
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2010.03.27 梅まつりの高津宮
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高津宮から 松屋町筋まで下り 下寺町の交差点から生玉北門坂を上町台地に再度上る
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坂の途中にある高津宮正面鳥居
下寺町交差点の生國魂神社鳥居
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交差点からまた坂を登る 生玉北門坂
北側の真言坂上に天保15年建立の道標「右京道」

生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)
かつては大坂城の地に鎮座していたが 秀吉による大坂城築城のため 現在地に遷座された
主祭神は生島大神(いくしまのおおかみ)・足島大神(たるしまのおおかみ)で 相殿に大物主大神を祀る
同様に大坂城地から遷座された坐摩神社とともに 難波宮との関わりも推測されている
現本殿は 昭和31年(1956)に鉄筋コンクリート造で再建されたものであるが 慶長11年(1606)に
豊臣秀頼が造営させた「生國魂造」と称する桃山時代独特の建築様式が継承されている
「いくくにたま」舌を噛んでしまう そんでもって「いくたま」となって「生玉」が地名になった
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公園とあわせ緑の多いところである
源聖寺坂
天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで 坂の名は坂の上北側に源聖寺があることに由来している
ほかの天王寺七坂は 生國魂宮北の真言坂 夕陽丘5丁目の口縄坂 愛染堂へ行く愛染坂 清水寺北側の清水坂
安井神社の参道天神坂 一心寺前の逢坂の六ヶ所である 源聖寺坂の上り口は松屋町筋下寺町で
途中までは石畳の緩い坂 後は階段になっている 昭和末期まで坂上に「源九郎稲荷」があった
稲荷ではあるが祀られていたのは「コンニャク好きの狸」であったと伝わり
天王寺区史に「こんにやくの八兵衛」という祠があったことが記されている
今は遷座先も不明で 生國魂神社へ移されたという一方で 同名の末社とは無関係との記述もある
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松屋町筋下寺町の登り口
途中から石段で南東に曲がる
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源聖寺坂の石畳と階段 地理院地図では 高低差18.6m 長さ290m
国土地理院・デジタル標高地形図で見る上町台地
地理院ホーム > 地図・空中写真・地理調査 > 主題図(地理調査)> デジタル標高地形図 >
航空レーザ測量について > デジタル標高地形図で選択 > 閲覧またはダウンロード可能
地図のアドレスは http://www.gsi.go.jp/common/000184155.jpg
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1.大阪城 2.難波宮跡 3.谷町 4.高津宮 5.生国魂神社 6.愛染堂 7.四天王寺 8.天王寺駅
源聖寺坂 坂の上は 生玉寺町
「大坂の陣」後に 大坂城主の松平忠明によって城南部防御のため作られたのが下寺町と台上の寺町
南は逢坂の一心寺まで続く 「大阪の陣」の戦いで 徳川方は城南部の上町台地上に陣取り 攻め入った
後に 大阪城の防御では「特に南部が要」という経験則による町割りを行ったことになる
他方 生國魂神社東側の寺院は生玉十坊と呼ばれ その歴史は秀吉の時代まで遡る
生國魂神社の遷座とともに 神宮寺として法案寺をはじめとした真言宗の仏教寺院が十坊建てられた
真言坂の由来もこの十坊の寺院によるもので 神社とともに栄え 参詣参拝客が近郷近在から押し寄せた
江戸時代の物見遊山は 参詣や参拝といった形で行われ 公儀もこれを認めていたため
門前には茶屋がなどが多く建てられ 娼妓も置くようになり一大歓楽街が出来た
これには 地主である神社や寺院も関わっており 第二次世界大戦前まで公認・非公認が繰り返された
遊郭非公認の時代には 逢引茶屋などが出来て それが今のラブホテル街に続いているといわれている
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源聖寺坂の上 生玉町 齢延寺山門とラブホテル 仏と煩悩入り乱れ
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生玉寺町から生玉町方向
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生玉寺町
寺にしては樹木が少い 樹を植えるより墓作る その方が・・・お寺さんも商売!商売!
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長崎平戸の「寺院と教会の見える坂」みたいな? 韓国メソジスト教団 在日基督教大阪燈台教会と法善寺別院
夕陽丘町 荒陵山 勝曼院(しょうまんいん)
四天王寺の別院で真言密教勝鬘流根本道場 本尊は愛染明王 ゆえに本堂は愛染堂と呼ばれている
寺伝では 聖徳太子が開いた施薬院に始まると伝えられ 鎌倉時代に北条時頼から寺領を寄進されたと伝わる
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国宝の多宝塔
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本堂の愛染堂
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愛染坂 右は大江神社
大江神社 夕陽岡の石碑
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大江神社から南西方向 通天閣を見る 夕陽のきれいなところである
大江神社は 聖徳太子によって建立された四天王寺七宮のひとつで 四天王寺の乾方向に位置したことから
江戸時代は「乾社」と呼ばれていた また毘沙門天を祀っていたので「毘沙門堂」ともいった
慶応3年(1867)に大江神社に改称 神仏分離で毘沙門天は大津坂本に移された
明治40年(1907)には 上之宮・小儀・土塔の四社が大江神社へ合祀されている
かつて夕日岡(ゆうひのおか)とも呼ばれた夕陽丘は 南北に生玉町から逢阪の北側まで及び下寺町一帯を指す
嘉禎2年(1236)に 歌人の藤原家隆がこの地を終の地とし夕陽庵(せきようあん)を設けたことが由来とされ
「ちぎりあれば 難波の里にやどり来て 波の入り日をおがみつるかも」の歌を残している
かつては 大阪湾に落ちる夕日を眺める絶好の地で 大江神社・新清水寺・四天王寺西門辺りが有名であった
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愛染坂の下から
清水坂 ここでデジカメの電池切れ
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