2013.02.09  浪速の散歩道 難波(なんば)から真田山

大坂の繁華街は 淀屋橋から本町に至るオフィス街を挟み 「キタ」と「ミナミ」に大きく分かれる
難波はミナミに含まれ 道頓堀の南側及び千日前から西の地域で 心斎橋と比べ庶民的で多種多様な店が多い
ミナミを代表する地名なので 一般的に「難波に行こか」と言えば ミナミ全般を指すこともある
域内には JR・地下鉄御堂筋線・地下鉄四ツ橋線・南海電鉄・近畿日本鉄道の合わせて五つの難波駅がある

関西弁のイントネーションは「な↘ん↘ば」で「ん」を小さく低く発音する「な→ん→ば」と発音すると
大阪では「とうもろこし」のことになる 当唐土(とうもろこし)は南蛮渡来なので南蛮=ナンバなのである


地名の由来となった摂津国西成郡難波村は もとは少し北の南船場・島之内・下船場・堀江の一帯にあって
上難波村と下難波村に分かれていた 現在ではほとんど難波とされていない南船場に 東本願寺難波別院や
難波神社があるのはこの名残である 江戸時代早々に行われた大坂城下の町割り改修と拡張に伴い
上難波村はわずかに飛び地として残り 元和5年(1619)頃には住民も居なくなり消滅した
下難波村は新町遊廓の開発に伴い道頓堀川以南へ移転となった 元禄13年(1700)に上難波村飛地が
下難波村に編入され 新たに難波村と改称された 享保9年(1724)の大火後 天満橋南詰の一帯が
火除地と定められ 住民の移転先として道頓堀の南西に元堺町・元京橋町・元相生町の3町が置かれた
その後 明和2年(1765)に元伏見坂町の南側が開発され 難波新地1丁目〜3丁目が形成された
明治5年(1872)元堺町・元京橋町・元相生町の3町が難波新地に編入され 難波新地1番町〜4番町に再編
翌年には 難波村の市街化区域も難波新地に編入され 難波新地1番町〜6番町に再編された
この明治初期に拡大された難波新地の範囲が概ね 現在の中央区難波の範囲となっている
古代に見られる難波(なにわ)の由来は 『日本書紀』や『古事記』に記された神武東征にまつわる話として
「まさに難波埼にいたるとき、奔(はや)き潮ありてはなはだ急きに会いぬ、よって名づけて浪速国となす。
また浪華という。いま難波というは訛れるなり」とあり 浪速・浪華が難波となったと伝えている
下図は古代から中世期までの大阪平野の成り立ちを表す
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●<上左>縄文時代前期前半
●<上中>弥生時代後期から古墳時代前期
●<上右>川の堆積作用で平野が生まれる
古代の大阪は 上町台地の東に河内湖があり 上町台地北側の水路で大阪湾と繋がっており 潮汐作用によって狭窄な水道の流れは早く 波の花が出来るほど渦巻いていたと考えられる
●左図は 発掘により作られた新たな古代図である
上町台地の北に自然に形成された水道があり 河内湖と外海が繋がっている 上町台地の先端部は崖に囲まれ 生駒山地も大阪側は急峻であった
河内湖に入ると航路を南へ取ったと思われ 羽曳野辺りに古墳が多い理由が この地図からも読み取ることができ 最古の官道・竹ノ内街道のルートも納得できる
<Link:大阪デジタル標高地形図>

大阪市浪速区元町2 難波八阪神社
難波一帯の産土神(うぶすなのかみ)で 古来より難波下の宮と呼ばれる祇園牛頭天王社である
仁徳天皇の時代に悪病が流行した時 牛頭天王の霊験が現れ これを祀ったのが始まりと伝わり
平安時代の延久(1069−1073)頃から祇園古社として崇敬を集めた
かつては七堂伽藍・子院十二坊を有する神仏混交の大寺院であったが 明治の神仏分離により寺は廃絶された
明治5年(1872)に郷社となり 主祭神を素盞嗚尊(スサノオノミコト)に代えて 難波八阪神社となり
昭和49年(1974)に本殿と 高さ12m 幅11m 奥行10mの獅子頭を象った獅子殿が竣工された
毎年1月の第3日曜日に行われている綱引神事は 素盞嗚尊が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した
故事にならい始められたと伝わり『摂津名所図絵』や『摂津名所図会大成』に描かれている
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本殿 <wikipedia
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獅子殿舞台  内部神殿には 素盞嗚尊の荒魂を祀る
獅子の二十四の歯と目の周りは真鍮製で目はライト 鼻はスピーカーである
動くカニ看板・くいだおれ太郎などと相通じる一種の「ツカミというやつ」でしょうか
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「なんか 文句でもあんのか!! いてまうど!」「こら! もっと銭出さんかい どたまかち割るど!」
と言ってるみたい
中央区難波1 浄土宗 天龍山 法善寺
山城国宇治郡北山村にて琴雲が開山する 寛永14年(1637)専念によって現在地に移り建立した
文政2年(1828)類焼により焼失し再建されたが 嘉永5年(1852)に再び焼失した
安政2年(1855)に見誉が再度の再建を果たしたが 昭和20年(1945)の大一次大阪大空襲で三度焼失したが
本尊の阿弥陀仏は運び出されて難を逃れ 不動明王も無事残された 戦後間もなく法善寺横丁と共に復興された
しかし 境内には金毘羅堂・不動尊・お初天神のみで本堂は見当たらないため  本尊の阿弥陀如来よりも
水掛不動の方が有名である 寛永21年(1644)から千日念仏回向が始まったとされ
通称千日寺と呼ばれた 千日前は当寺院の門前に由来する名前である
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法善寺の金毘羅堂 金比羅天王を祀る
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法善寺 水掛不動尊
「カビの生えたミイラ」みたいですが 決して苔を落としてはならないそうです
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水掛不動と法善寺横町
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創業明治16年(1883)夫婦善哉の「お福」
『夫婦善哉』は織田作之助・短編小説のタイトルとなり
昭和30年(1955)に 森繁久彌・淡島千景をキャストに迎え 東宝で映画化され一挙に有名となった
作家の織田自身 法善寺を「大阪の顔」だと言い 最も大阪的なところを案内してくれといわれたら
迷わず法善寺へ連れて行ったという
法善寺横丁は 江戸時代に法善寺境内の露店から発展して 明治から昭和初期にかけて寄席の紅梅亭と金沢亭が
全盛期を迎え 落語や講談・浪花節などの寄席芸を楽しむ人々で賑い 大阪発祥のカウンター割烹などの店が
並び栄えた 戦後 藤島桓夫のヒット曲「月の法善寺横町」で一躍有名となった
なんばパークス
平成10年(1998)に かつて南海ホークスの拠点であった大阪球場が解体され その跡地に出来た商業施設
南海が「未来都市なにわ新都」をコンセプトとして再開発を実施し 2003年10月に第1期部分が
2007年4月に第2期部分が開業した 建物は キャナルシティ博多や六本木ヒルズを手がけたアメリカ人建築家の
ジョン・ジャーディの設計 大峡谷に似せた建物の外観は雄大であり 壁面は壮大な時間と地層を表す
元々この場所は 享保17年(1732)の「享保の大飢饉」の際 幕府が西成郡難波村に災害救援用の米蔵を設置
天領から運ばれた米を貯蔵する幕府直轄の難波御蔵と呼ばれた 翌年には窮民対策も兼ねて
道頓堀川から御蔵前に至る難波入堀川(難波新川)開削の御用普請が行われている
寛政3年(1791)には 新御蔵が増築されて規模が倍増した広大な難波御蔵は 浪華名所のひとつになった
明治30年(1897)難波御蔵が解体され 翌年には大蔵省専売局による赤煉瓦造りの煙草工場が建設された
工場には2千人近い従業員が勤め難波駅周辺も急速に市街化したが 昭和20年(1945)の大阪大空襲で壊滅した
昭和25年(1950)南海電鉄が煙草工場跡に南海ホークスの本拠地となる大阪球場を建設し
平成2年(1990)まで球場として使用されたが 住宅展示場への転用等を経て平成10年(1998)に解体された
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左のビルはパークスタワー 右のビルはスイスホテル南海大阪
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なんばパークスは遊歩道と植栽に囲まれたショッピングタウン 大阪だから食事処も多い
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9階にあるシンボル・モニュメント ジミー・大西作「天海の輝き」
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戎橋
この橋を渡って南へ行くと 南海難波駅前を通り今宮戎神社へ行くことができる だから「戎橋」
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旧松葉屋・うさみ亭マツバヤ
キツネうどんの発祥地  客が うどんの中に「いなり寿司のアゲ」を入れて食べるのを見て考えた
大阪では「ケツネうどん」と言う人も多い 特に河内方面の人
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天王寺区 真田山
真田山は慶長19年・大阪冬の陣において真田幸村が築いた出丸跡である
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真田の抜け穴
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浪速の英雄 真田幸村 本名は真田 信繁(さなだのぶしげ)
大坂夏の陣で豊臣方の武将として家康の本陣まで攻め込んだ武勇談が後世に伝わる
「幸村」の名が見られるのは後の世で 寛文12年(1672)の『難波戦記』がその初出とされる
その後も 講談や戦記物に幸村の名が多用され 真田信繁より「真田幸村」であることのほうが多い
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真田の抜け穴内部
元陸軍省の所轄地を表す碑
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旧陸軍墓地 「西南の役」からの陸軍墓地
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慶傳寺の西南角 元陸軍省の所轄地の碑
騎兵営跡の忠魂碑 陸軍騎兵第四連隊
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味原町で発見「ホンダS600」
生産:昭和39年(1964)3月〜昭和40年(1965)12月 FR・2シーターのオープンスポーツカー
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40年ぶりに訪れた阿倍野筋2丁目の「蛸つぼ」で 明石焼きを食う(明石では卵焼きという)
無論 こいつはビールの「あて」に 「あて」は大阪弁で「酒の肴」のこと
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