2017.03.16 長崎街道脇往還 多良海道 肥前山口から古渡まで

現在 国道34号線(長崎街道)と国道207号線(多良海道)の分岐点である肥前山口は
かつて佐賀鍋島藩領の肥前国杵島郡山口村大字新宿にあり 長崎街道の牛津宿と小田宿の間に位置する
長崎街道と分岐した多良海道は 六角川を渡り間宿の六角・高町宿を経て南下し
同郡深浦村(白石町大字深浦)で 標高35mある竜王峠を越え 山裾を迂回し百貫に出る
百貫には鹿島への近道となる塩田川の渡しがあった 多良海道の塩田川・長浜渡しは 1kmほど上流の
古渡集落に有り 江戸時代中期頃には 名前が示すように百貫の渡しが使われていたと考えられる
肥前山口新宿追分から古渡まで
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追分の恵比須
追分三差路
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斜め向こうにも恵比須(?)
新宿橋を渡る
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旧国道の新宿交差点
34号バイパスの東分交差点
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江北町大字山口字東分 庚申塚と地蔵堂
江北町大字山口
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古川の渡し場
古川の対岸・江北町大字下小田より見返り
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国道を横切る
江北町大字下小田字東区
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肥前の名峰・標高1046.1mの天山を振り返り見る
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地蔵堂
江北町大字下小田字南郷
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猿田彦大神(庚申)と国道・下小田交差点
六角川堤と旧街道
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不動明王と水神(・・・と思う?)
六角川の渡し場(六角橋下流)
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六角橋から見た六角川 河口まで11.2kmある
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対岸の白石町大字東郷にある金比羅宮
六角橋南詰の地蔵と恵比須
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白石町大字東郷
角の不動明王
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曹洞宗 明稿山 新光寺
白石町大字東郷 延命地蔵尊と多良海道
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六角神社
元は文治3年(1187)創建の天満宮
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白石町大字今泉 六角郵便局の地蔵
白石町大字廿治 変電所角を右へそしてすぐに左折
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白石町大字廿治字江越 地蔵堂
白石町大字廿治字江越 地蔵堂
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白石町大字廿治字吉村
吉村天満宮 鳥居
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吉村天満宮拝殿
吉村は 今から1000年程前には有明海の海退によって陸地化し 耕作がなされていたものと思われる
住民は 大宰府宮に安穏と五穀豊穣を祈るため数十年間にわたり参諸を続け
その信仰の高まりに 太宰府天満宮を勧請しこの地に小祠を建立し菅公を祀るに至った
戦国時代の天正2年(1574)竜造寺隆信配下の大串太郎右衛門が 須古の平井経治との戦いに敗れ
追跡を逃れて社の厨子に潜んだところ 追手の兵が神殿の扉を蹴破り中に入ろうとしたが
入口には蜘蛛の巣がはり中から鳩が飛び出した これを見て社殿内を深く探索せずに敵兵が去ったため
一命を取り留めたと伝わる 後に太郎右衛門は神の助けと感謝し 天満宮の神殿を建立した
以降 近郷近在の崇敬を集め 天明4年(1784)吉村中の建立による鳥居も現存している
佐賀藩主鍋島勝茂からも社領等の寄進があったとされる
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白石町大字辺田字六ケ里 地蔵堂
白石町大字戸ケ里 高町宿
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高町辨財天
稲佐神社一の鳥居と多良海道

佐賀県白石町大字辺田(へた) 稲佐神社
社伝によれば 創祠年代は天地開闢(天地創造期)の神話時代 五十猛命を祀ったらしい
五十猛神(イソタケル)は素戔嗚尊(スサノオ)の子で日本神話に登場する
林業の神として信仰されており 大屋津姫命(オオヤツヒメ)は妹である
飛鳥時代に至り 百済より阿佐王子が来日 この地に居を定め
稲佐大神(五十猛命・大屋津姫命・天神の三柱)とともに両親を合祀した
王子が逝去後 阿佐王子も合祀された
平安時代に空海が稲佐泰平寺を開基し 鎮守神として稲佐大明神が位置づけられ
真言寺十六坊と呼ばれる一大道場となる 現本殿は 享保6年(1721)に再建されたものである
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稲佐十六坊の跡
稲佐神社参道の石段両側には かつて片側に8坊ずつ合計16坊の真言宗寺院があったが
現存しているのは玉泉坊・観音院・座主坊の三ヶ寺のみである
稲佐16坊の創建は 平城天皇の大同2年(807)に空海が この肥前の地に来たと伝えられており
大師は天皇の勅許を賜り 元横平山にあった一小社をこの地に移し鎮守大明神として崇め
一山を総称して稲佐泰平寺と名付けた  併せて百済の聖明王の子阿佐太子がこの地に来たという伝承から
一緒に祀られている  稲佐泰平寺は享保5年(1720)の火災でほとんど焼失したが
十六坊の近郊にあった宝珠院の住職恵眼比丘が 享保9年(1724)に復興したと伝えられている
また恵眼比丘が再建したといわれる講堂(大師堂)が 参道を登り詰めた左側の大徳坊跡に建っており
ここでは稲佐十六坊寺院の僧侶が一同に集い講演説教や修行の場とし 弘法大師の祭典を行っていた
当時の隆盛を偲ぶことはできないが 神仏習合時代から真言密教の道場として人々の家内安全と
無病息災を祈願し 今なお密教の法灯を守り続けている
白石町教育委員会
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自然石の石段参道がすごい そして長い
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稲佐神社一の鳥居
有明西小学校南 「錦江のイボ地蔵」
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今橋
大字深浦字室島(むるしま)放生池畔の石塔群
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天文7年(1538)建立 六地蔵塔
大権現放生池の石碑

彦島大権現社・放生池畔の石塔群
清水が絶えることなく湧き出て 嘗ては長崎街道を往来した人々の「憩の場」であった放生池も
今は「大権現放生池 宮司法印周厳律」と刻まれた 高さ1.4mの石碑が立つのみである
池は福泉禅寺の末寺であった「城実坊」境内の一部であったといわれ
当時この周辺は 一つの聖域をなしていたと考えられ 約12基の石仏・石塔が残存している
●石像六地蔵像 天文7年(1538)建立
室町時代の天文年間に造立された保存の良い均整のとれた優美な半肉彫の造形で
町内に現存する50余基の中でも代表的な六地蔵で 白石町重要文化財に指定されている。
●石像聖観音立像 延宝6年(1678)建立 ●供養塔(烏八臼の塔) 寛文7年(1667)建立
●供養塔(三界萬霊等) 貞亨5年(1688)建立 ●像青面金剛石祠 寛文3年(1663)建立
●地蔵菩薩半跏像 延享1年(1744)建立 ●その他 自然石庚申塔・石祠・板碑等多数
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彦嶋神社楼門
明治以前は彦嶋大権現と言われた
平成20年に発見された男神像・女神像(唐装)・僧形像は いずれも正統な彫技やこめかみをしぼった
面長な顔立ちから 鎌倉末期から南北朝時代にかけての制作と考えられる
木彫技術も優れ 14世紀に遡る希少な神像として 平成20年佐賀県重要文化財に指定された
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彦嶋神社本殿
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佐賀県重要文化財(彫刻) 木造神像 三躯
男神像一躯・女神像(唐装)一躯・僧形像一躯  附 女神像(和装)一躯
所有者:彦嶋神社  所在地:佐賀県立博物館(寄託) 指定年月日:平成20年(2008)3月14日
男神像・女神像(唐装)・僧形像の三駆は像高41〜51cm。針葉樹の、一材から彫り出し
内刳りを施さない構造やこめかみを絞った面長な顔立ちから、
14世紀半ば頃の鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての製作と考えられる。
若干の傷みはあるものの、一部には色彩の痕跡も見られるなど、制作当初の容貌を充分に残している。
いずれも底部を丸ノミで削り墨で銘文を記す。一部しか判読できないが、
銘文に見える「大勧進 藤原通村」は、当地の領主白石氏の一族である。
一回り小さい女神像(和装)は傷みが激しいものの、面長な顔立ちや襟等に見られる鋭い彫技から、
他の三神像とほぼ同時期の制作と考えられる。ただし、別材を矧ぎ寄せる構造は他の像と異なるため、
一組として制作ざれたかどうかは不明である。14世紀に遡る神像は県内では数が少なく、
出来栄えも優れており、更に当地を領有していた白石氏に関わる遺品であることも重要である。
白石町教育委員会
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国土地理院の標高図
1.いぼ地蔵 2.彦嶋神社と放生池跡 3.竜王峠 4.長浜の渡し
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彦嶋神社(彦嶋大権現社)鳥居
竜王峠(有明南小学校)
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峠の御堂
御堂前の多良海道
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深浦天満宮 石祠に弘化三丙牛年(1846)の文字
深浦東分 階段の下り道
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峠下 観音祠堂
深浦西分 聖観音堂(平安後期の像)
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聖観音堂の西 深浦天満宮
白石町大字深浦字百貫 地蔵堂と多良海道
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清水(しょうず)跡 昭和36年まで飲料水として利用
金刀比羅宮(海童神社合祀)
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金刀比羅宮前の「百貫の渡し場跡」 鹿島へのショートカットとして利用された
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白石町大字深浦字古渡 御堂と多良海道
古渡の集落
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長浜の渡し場跡 地蔵堂
渡し場跡の「水神・山王」碑
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対岸は鹿島市大字森 取水門の所が上陸地 5基の石碑が見える
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