2017.03.16 長崎街道脇往還 多良海道 古渡から肥前浜宿まで

塩田川左岸の古渡の対岸は 鹿島市大字森 取水門辺りの上陸地には5基の石碑が見える
塩田川を渡れば佐賀支藩の鹿島藩領地である 鹿島藩は 佐賀初代藩主・鍋島勝茂の弟・忠茂が
慶長16年(1610)佐賀藩より分与された2万石と 自らの知行地下総国内の5千石を加え2万5千石で立藩し
沖積地の常広村(現・鹿島市立北鹿島小学校)に城を構えた
寛永19年(1642)嗣子のいない鹿島二代藩主・正茂の時に 本家の叔父である佐賀本藩の鍋島勝茂が
自身の九男・直朝を養子に据え三代藩主にしようと圧力を加えた  しかし正茂はこれを拒み
鹿島の領地2万石を返還し本家とも離縁した上 自らの知行地5千石を携え 旗本として江戸に戻った 
その後 佐賀藩主の勝茂は 九男の直朝に肥前藩内高として鹿島2万石を与え鹿島藩主とした
幕末の文化4年(1821)九代藩主となった直彜が 水害の多発した常広城を廃し高津原村に陣屋を築いた
明治初年度の鹿島藩領地は 中・森・八本木・古枝・納富分・重ノ木・高津原・両岩・常広・三川内の
10村と山浦村の一部であった 現在肥前浜宿(浜町)と呼ばれる地域は 藤津郡八本木村にあり
かつては 浜八本木宿・浜中町・浜北舟津・浜庄津・浜金谷町に分かれていた
旧街道を探索するにあたって 地理院地図の年代別写真が大いに役立つ
今回の多良海道に於いても 昭和36年(1961)から昭和53年(1978)までの空撮写真を参考にした
特に高度成長期以前に撮られた写真は 古道の様子を今に伝える貴重なものである
またスタンフォード大学の古地図ライブラリィも役に立つ HPのURLは下記のとおりである
https://stanford.maps.arcgis.com/apps/PublicInformation/index.html?appid=a0ac9b694de04ed687648f261613ee31
古渡−肥前浜宿
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鹿島市大字森・長浜の渡し場 上陸地の石祠 対岸は白石町大字古渡
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鹿島市大字森の多良海道
浄土宗 鏡智院
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ダイレックス北鹿島店に突き当たり左へ
殿橋跡(暗渠)
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殿ノ橋交差点 国道207号・498号
旧道は左へ
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鹿島市大字中村字乙丸 乙丸郵便局裏
旧街道はここで右折(南へ)
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反対側の北向き
鹿島市大字中村字乙丸
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くるめや呉服店前の乙丸交差点 嘗て祐徳軌道が走っていた緩いカーブの鉄路あと
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掘割の弁天島
弁天様
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鹿島宿継場跡
江戸時代 この辺りに鹿島宿の継場があった 文化9年(1812)10月25日 有明方面から
鹿島入した伊能隊は北鹿島本町の宿に投宿した 隊長の伊能忠敬はコ人屋(吉田忠右衛門宅)に
副隊長の坂部貞兵衛は諸国屋(梅崎茂平宅) その他の隊員は小間物屋庄五郎(村田覚兵衛宅)に
それぞれ泊まったことが 鹿島藩日記と伊能忠敬測量日記に残されている
伊能忠敬測量隊宿舍 本陣 吉田忠右衛門 梅崎茂平(現諸國屋) 協本陣 村田覚兵衛
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明治9年の地租改正図(退色して不鮮明) 本陣 脇本陣 現在地
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大正5年(1916)創業の「辰巳屋」 創業時から「まるぼうろ」を作る老舗
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浄土宗 願行寺
文化9年(1812)伊能忠敬一行宿泊地 諸国屋
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明治時代建造の吉田家 国の登録有形文化財
横沢橋と恵比寿像
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鹿島市大字常広字古城 常夜灯 現在は頂部に金毘羅大権現が祀られている
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鹿島市大字高津原字新町 新宮
鹿島市大字高津原字新町
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中央交番前
さくら通り
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鹿島市高津原3963−1 デイサービス「ゆうあいさくら通り」
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さくら通り 花ごもりの井戸
松蔭神社鳥居
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鹿島城址 大手門
大手門は 切妻造り本瓦葺きの「高麗門」という形式で 背後の控柱の上にも小屋根をかけている
大手門は昭和になってから赤く塗り替えられた
鹿島城と旭ヶ岡公園 鹿島城 (高津原陣屋・高津原屋敷・鹿島館)
鹿島藩は慶長16年(1610)に 佐賀初代藩主となった鍋島勝茂の弟・忠茂が2万石を分与され
それに下総国香取郡内の5千石を加えた2万5千石で立藩したのが始まりである
当初は 戦国時代に有馬氏の居城であった常広城に入ったが 標高わずか1.5m程度の沖積地であったため
度重なる水害に悩まされ 9代目藩主の直彜(なおのり)が
多良岳山系北端 標高500mの琴路岳から 北東に伸びる尾根筋端部に位置する標高30m程の高津原に
文化4年(1807) に鹿島城を完成させたが 幕府の一国一城令により天守はなく陣屋であった
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佐賀県立図書館データベース 古地図・絵図 鹿島で検索 高津原屋敷図(写)
城の外郭は 南北650m・東西370mあり 北側の大手門から藩主居館の正門である赤門まで
鍵型の折れ曲った道が続き 周囲には武士の屋敷が立ち並んでいた 藩主居館は 堀や土塁・塀で囲まれ
居館内部は 屋敷や蔵などが廊下で複雑に繋がれ外側には庭園が配置されていた
明治7年(1874)に勃発した不平士族による佐賀の乱によって 赤門と番所を残して焼失してしまった
現在 鹿島陣屋の跡地は佐賀県立鹿島高校や旭ヶ岡公園になっている
本丸の正門であった赤門は 県立鹿島高校の校門として残された また文久2年(1862)に
13代目藩主の直彬(なおよし)が 松蔭神社境内に多くの桜を植え「衆楽園」と名づけ一般に開放した
現在 一帯は旭ヶ岡公園となり 大正3年(1914)に九州初の電飾が設けられ 夜桜が一躍有名となった
特に大手門から赤門に至る道は桜並木となっており「花のトンネル」と呼ばれている
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赤門
切妻造り桟瓦葺きの「薬医門」という形式で 正面右側に番所が付随する 残された棟札からは
鹿島城が落成した1年後の文化5年(1808)に建てられたことがわかっている
大手門と赤門ともに飾り金具は少なく 極めて質素であるが木組みは雄大で 小藩の城門としては
非常に立派なもので 県内に残る数少ない城郭遺構として佐賀県の重要文化財に指定されている
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松陰神社(まつかげじんじゃ)
創建は 寛永10年(1633)9月21日 旧鹿島藩初代藩主鍋島忠茂を祀る
寛永19年(1642)藩主の座と領地を捨て 鍋島本家と離縁し江戸に去った二代目藩主正茂の創建による
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松陰神社苑池と社務所
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逆川(さくさん)通り 再耕庵薬局
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逆川通り佐賀共栄銀行前の「鹿島町道路元標」
石造物のーつに「道路元標」と呼ばれるものがあります。道路元標は慶長9年(1604)に、
東京の日本橋に全国に通じる街道の出発点として設置されたのが始まりといわれています。
その後大正9年(1920)に制定された、旧「道路法施行令」に基いて、大正11年(1922)に
当時の各市町村に1ケ所ずつ、国道や県道の起点や終点、道路の距離を測る基準点として建てられました。
当時の鹿島市は、鹿島町(鹿島)・鹿島村(北鹿島)・能古見村(能古見)・古枝村(古枝)・
浜町(浜町)・七浦村(七浦)に分かれていたので、6ケ所に道路元標が建っていたことになります。
全国の道路元標を調べると、建っている場所は街道の交差点であったり、役場の前であったり、
村の広場であったりと様々です。鹿島町の場合は当時の役場の前です。
現在、道路元標はその役割を終え、道路法上は「道路の付属物」に定められているにすぎません。
全国的にも残っている数が少なく、非常に貴重なものです。
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「さくさん」とは読みづらい
東町交差点から旧道に入る
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石橋の架かる路地
大神宮への参詣道
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宮園電工・あいの駐車場は祐徳バス発祥の地
大神宮
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大神宮神殿
大神宮石塔

大神宮(中牟田)
大神宮は、伊勢神宮の分宮として、伊勢の両大神宮(天照皇太神宮、豊受大神宮)を崇敬する目的で
建立され、天照大神(伊勢皇太神宮)を祭神としている。
当時、伊勢神宮へ参詣すると特列のご利益があるという信仰から、伊勢は遠隔地のため
全国各地に分宮が建立され、その一宮である。また当時、区民は伊勢講を作り、伊勢参宮の代参者を選び
参詣するのが常で、代参の記念として、大神宮塔が各地に建立された。
大神宮石祠に「宝暦五年」(1755年)と刻記があるので、恐らく250年前項、地区民の信仰で
多大な寄進によリ建立されたと思われる。現在の拝殿は大正4年の改築である。
以前は、拝殿の周りに縁が設けられ、外構えは石造の柵、石造の明神島居、石燈篭、手洗石、
台座に円形の寄進者芳名塔など、真に荘厳で美観の神宮であったが、
現在は殆ど崩壊し散逸して拝殿を残すのみである。また夏祭り(8月1日)は御神燈を飾リ、
屋外映画や子ども柑撲区内の人々が大勢集り大変賑わったものである。
私達は、何時の時代になっても、祖先を崇拝し、今の幸を感謝しなければと思います。
今後も地区民の厚い信仰心によリ、大神宮が区民の守護神として繁栄することを祈念します。
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鹿島川の渡し跡
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市役所職員駐車場の街道跡
石木津川と石木津橋
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左・国道207号線 右・多良海道浜宿への道
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