2017.02.19 長崎街道脇往還 多良海道 肥前浜宿

肥前浜宿は浜川の河口につくられた在郷町で 少なくとも中世期の室町時代には町として成立していた
江戸時代には 長崎街道脇往還の多良海道(多良往還)の宿場町として また港町として繁栄した
また 多良岳山系の良質な水と佐賀平野の米に恵まれたことから  江戸時代より酒造業が盛んとなり
これに加え 明治以降は水産加工業も隆盛を極め 富が蓄積されることで豊かな街並みが形成され
今なお伝統的景観を色濃く残している これらの建造物群は伝統的建造物が中心となって
江戸時代後期から昭和初期にかけての土蔵造りや茅葺町家が立ち並ぶ中
明治大正時代の洋館なども散見され 変化に富んだ街並みとなっている 肥前浜宿は現在でも
江戸時代から業種ごとに住み分けしていた名残で 九つの地区に分かれている
旧街道沿いに商家町・漁師町・下町・田園風景など 雰囲気の異なる風景が広がる
それらの町並みは多良海道と浜川に沿って広がっており その骨格は 海道筋を主軸とする街路と河川
及び そこから引き込まれた水路を構成要素として成立している
町並みの主軸をなす街路は 鹿島から多良へ向かう多良海道で
浜新町・大村方・八本木宿(ハ宿)・中町を通り 浜川を渡って南舟津・浜庄津町・浜金谷町に至る
「酒蔵通り」と呼ばれ 今なお酒蔵が残る浜新町から中町にかけては
町家の奥行きが深く街道の両側に町を形成している これは生活用水や産業用水を得るために
水路が引き込まれていて 川岸に背を向けながら街道筋に街並みが拡大されたものと考えられる
上流という河川の利用形態が 左岸の中町・八宿 右岸の野畠ともに街道筋に沿って広がったのに対し
下流では左岸の北舟津 右岸の南舟津とともに町並みは河岸に沿って広がり 宅地の奥行きは比較的浅く
河岸に向かって開かれている これは河川を利用した物流という業態を表している
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南舟津の「庄金」とは 庄津町の庄と金谷町の金をとった名前である
浜庄津町は商人や船乗りが住む港町 浜金谷町は鍛冶屋や大工などが住む職人町で
佐賀長崎を結ぶ陸と海の交通拠点でもあった 江戸時代には「浜千軒」と言われるほどの賑わいをみせ
鹿島藩最大の商工業の町として栄え 今も茅葺きと桟瓦葺きの町家が残るまちなみである
平成18年(2006年)「浜中町八本木宿」と「浜庄津町浜金谷町」が
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された
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1.若宮神社 2.乗田家住宅 3.飯盛酒造場 4.八本木宿継場 5.浜郵便局跡(八宿公民館)
6.中島酒造場 7.光武酒造場 8.呉竹酒造場 9.旧魚市場(解体)
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鹿島市浜町新町 西向き佐賀側
鹿島市浜町新町 東向き長崎方向
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若宮神社(若宮社)
慶長12年(1607)に カトリックのドミニコ会が 肥前に初めて建てた教会・ロザリオの聖母堂跡
3名のスぺイン宣教師達は 国外に追放される慶長18年(1613)10月8日まで布教活動を行った
その結果 多くの人々がキリスト教にこころを揺り動かした地である
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飯盛酒造場 国登録有形文化財
鹿島の酒造りに関し、確認できる最も古い記録は貞享2年(1685)の「鹿島志」です。
ここ浜町で酒造りが盛んになったのは元禄年間(17世紀末)からといわれています。
安永2年(1773)の「鹿島藩日記」には領内で酒屋を許可された地区として、
鹿島町(北鹿島 本町)辻宿・石木津宿・ハ本木宿(現在のハ宿)浜宿・行成村・山浦村等がありました。
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建築年:大正時代(1912-1925) 木造2階建 瓦葺 建築面積347平方メートル 1棟
飯盛酒造株式会社 登録有形文化財(建造物)
旧多良海道に北面して建つ間口10間半の木造2階建 入母屋造 桟瓦葺で東側土間部の外壁は塗屋造
西側の居室部は真壁造とする 居室部は 1階が2列6室 2階は10畳3室で
それぞれ表裏に縁を設ける 土間の背面南側には釜場が接続する。
鹿島市古枝字寺角甲115番地 旧乗田(のりた)家住宅 鹿島市重要文化財
鹿島藩に仕えた旧武士である最所家の住まいであったが 後に乗田家の所有となった
建築年代は 19世紀初期と推定され建物の改変も少なく  建築当時を理解しやすい保存状態である
佐賀県に多い 特徴的な「クド造り」の鉤型の屋根形状で ザシキや式台のように質実で地方武士らしい
表空間が見られる 旧多良海道裏手の閑静で広い敷地を持ち 家内で養蚕を行っていたことも推定される
この住宅は 浜中町ハ本木宿伝統的建造物群保存地区内の建築物の中で 鹿島藩士の生活状況を
良く伝えており 鹿島市における在郷町 かつ宿場町に残る数少ない武家屋敷の遺構でもある
なお この住宅の保存修理は 平成16年12月に東京在住の持ち主より寄贈され 平成19年2月に完工した
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継場(つぎば)
江戸時代の浜宿は 佐賀平野の最南端に位置し 海路を通じた人や物資の流通が盛んな港町で
あわせて多良海道の宿場町としても栄えていた 宿場の継場は 様々な荷物を宿場から宿場へつなぐ所で
「問屋」とも呼ばれていた この建物は江戸時代のもので 入口には馬の手綱を繋いだ鉄の輪も残る
また 内部には帳場の跡や人足が控えていた部屋などもある
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「継場」二階の人足部屋
浜郵便局跡(八宿公民館)
明治時代になると 政府によって郵便制度が敷かれ 明治18年(1885)に浜郵便局が開局された
藤津郡内では 嬉野局に次いで2番目の早さで 現在の建物は昭和12年(1937)に建てられ
昭和50年まで郵便局として使われた後 今は公民館に転用保存されている
なお 現在の地名「ハ宿」はハ本木宿(八本木村)という呼名を短略したものである
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浜郵便局跡と山口宗昭家住宅(山口醤油屋)
山口家は鹿島藩士の名簿(着到帳)にも記されている武家であった この住宅は19世紀中頃の建築物で
この通りでも古い建物の一つに数えられる二階屋で 入り母屋形式の土蔵造りで妻入りとなっていて
内部は武家の屋敷らしく格式が高い造りになっている
この辺りは古い街並みが連続して良好に残り 昔の面影を色濃く残している
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食の蔵「八本木」
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呉竹酒造
肥前浜宿の酒造業は 昭和初期に最盛期を迎え 昭和8年(1934)に建てられた呉竹酒造の母屋と土蔵は
当時の経済力を反映して ケヤキ等の「各地名材」を使用し 共にこの通りでも最も大きいものである
廃業後の現在は 酒蔵を利用したコンサートや講演会・展示会などの多彩なイベントで活用されている
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旧魚市場
戦前は魚問屋の建物で 戦後は魚市組合となって浜地区はもとより鹿島市内や遠くは武雄の仲買人が来て
毎朝 非常に賑わっていた 当時は浜に「かまぼこ屋」や「魚屋」が多く 年々売上も増加し
昭和37年には株式会社となった その後手狭になったことから 昭和39年に新浜町に移転し
この通りから 威勢の良い「セリ声」が聞けなくなってしまった
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酒蔵通りの東詰にある峰松酒造場
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「浜町の道路元標」
道路元標は 慶長9年(1604)江戸日本橋の袂に全国に通じる街道の原点として 江戸幕府によって
設置されたのが始まりとされる その後 大正9年(1920)に制定された「旧・道路法施行令」に基づき
大正11年(1922)当時の各市町村に1ケ所 国道や県道の起点や終点・里程基準点として設置された
当時の鹿島市は 鹿島町・鹿島村・能古見村・古枝村・浜町・七浦村に分かれていたため
合わせて6ケ所に道路元標が建っていたことになる
全国の道路元標を調べると 建立場所は街道の交差点や役場の前 または村の広場と様々である
浜町の場合は 江戸時代から多良街道と湊への道が交わる場所で 高札場があった位置と考えられる
現在 道路元標はその役割を終え 道路法上は「道路の付属物」に定められているにすぎないが
全国的に残存する数も少なくなり 貴重な歴史遺産である
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浜川 対岸は浜庄津町浜金屋町の重要伝統的建造物群保存地区
肥前浜宿内の浜川右岸に広がる町並みで 現在の地区名は江戸時代の町名「庄津町」と「金谷町」の
頭文字を合わせて「庄金」と呼ばれています。金谷には鍛冶屋が 庄津には船頭が住んで居たことが
由来となっている 江戸時代から商人や船乗り、鍛冶屋や大工が暮らし賑わっていた
細い路地と 茅葺きや桟瓦葺きの町屋が密集した町並みが特徴で 港町・下町情緒が漂う
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南舟津・浜庄津町
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浜庄津町の裏路地
浜庄津町の多良海道
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浜金谷町の多良海道
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多良海道と復元された茅葺の町家
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茅葺の町家と多良海道
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多良海道標識
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町家の間を流れる水路
くど造りの茅葺民家
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貞亨4年建立 夷三郎の祠(夷三郎の文字のみ)
一里塚跡の辻 街道は右へ
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辻の恵比須像
道は国道を横断し多良岳へと登って行く
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