島根県鹿足郡津和野町と山口県山口市・萩市

昭和45年(1970)11月2日/3日 島根県鹿足郡津和野町
津和野は 南から東側へ青野山火山群がそびえ立つ石見と長門の国境にあり その山陵は分水嶺となっている
四方を山に囲まれた標高160mほどの盆地となっており 伏流水や河川も多く湧水も多く水源は豊富にあるため
製紙業や酒造業・醸造業が発達し豊かな在郷町を形成してきた
鎌倉時代に石見吉賀郡(鹿足郡)の地頭として赴任した吉見氏が 津和野に館(城)を築いた
後に大内氏の傘下となり 続いて毛利氏の配下となった
江戸時代には津和野藩が立藩され 二代目藩主として元和3年(1617)に亀井氏が入封し
明治まで亀井氏の安定した支配が続いた 明治9年(1876)島根県の管轄となる 明治22年(1889)に
後田村・中座村・田村・森村・鷲原村の5村が合併し鹿足郡津和野町が成立した

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1931年建築 津和野カトリック教会
1951年建築 乙女峠マリア聖堂
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乙女峠マリア聖堂
曹洞宗 覚皇山 永明寺

マリア聖堂のある山は枕流軒(ちんりゅうけん)という名称だが 津和野城主の娘が埋葬されたことから
乙女山と呼ばれた 明治維新後 新政府神祇官が中心となって長崎で発見された隠れキリシタンへの弾圧が行われ
長崎浦上村の信徒3392名が萩や福山などに配流された 明治2年(1869)には 浦上信徒の中心となる28名と
その家族などを含み計153名がこの地に送られた 信徒は長崎から船で運ばれ安芸廿日市の津和野藩御船屋敷から
津和野まで約90kmを歩かされ光琳寺の本堂に幽閉された 藩の役人より改宗を迫られたが棄教する者はなく
津和野藩による拷問が行われ 明治6年(1873)の禁教解除により信徒たちが釈放されるまで37名が死亡した
昭和14年(1939)にカトリック広島司教区によって光琳寺跡地の田畑が購入され
昭和26年(1951)に「聖母マリアと36人の殉教者に捧げる」聖堂として乙女峠記念堂が建立された 後に
この殉教物語を綴った永井隆著『乙女峠』が刊行されたことから「乙女峠マリア聖堂」と呼ばれるようになった


津和野町後田ロ 曹洞宗 覚皇山(かくおうざん) 永明寺(ようめいじ)

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室町時代の応永27年(1420)建立

開基は津和野城主吉見頼弘 開山は月因で

津和野藩代々の菩提寺である

文豪・森鴎外の墓がある

下の全体写真は Wikimedia Commons から

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島根県鹿足郡津和野町後田 津和野城址
鎌倉時代に石見吉賀郡(鹿足郡)の地頭として赴任した吉見氏が 津和野盆地の南西部・標高367mの霊亀山に
永仁3年(1295)館(城)を築いたのが始まりである 戦国時代まで三本松城と呼ばれていた
吉見氏は大内氏の傘下となり 後に毛利氏の配下となったが 江戸時代には津和野藩が3万石で立藩された
坂崎直盛が初代城主となったが 元和3年(1617)坂崎家断絶によって亀井氏が
4万3千石で入封し明治まで亀井氏の支配が続いた 古来より製紙業が盛んで江戸中期には紙を藩の専売とした

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津和野城址 石垣
城跡から津和野城下と907.5mの青野山
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津和野城址
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南方向 640.1mの野坂山
青野山と石州瓦の城下町
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国民宿舎 青野山荘 1960年竣工 2003年閉鎖
SL貨物列車
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早朝のSL貨物列車 D51720号機 右上に津和野カトリック教会の尖塔が見える
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D51720号機
津和野町町田 森鴎外生家
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殿町通りには藩校養老館跡・郡庁跡・津和野藩家老多胡家表門やカトリック教会が並び藩政の中心地であった
四方を山に囲まれた津和野には湧水源が豊富にあり 古くから良質の水を利用した造り酒屋が軒を並べ
至るところに水路が張りめぐらされた またその水を庭に引き込み利用し 多くの家で鯉が飼われている


昭和45年(1970)11月1日 山口県美祢市秋芳町秋吉 秋吉台

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 日本最大のカルスト台地で全てが美祢市に入る
 北東方向に約16km・北西方向に約6kmの広大な地域で 台地上の総面積は54平方kmある
 石灰岩の分布は 沖積面下の潜在部を含むと およそ倍近くの 93平方kmに及ぶとされる
 また 地上の標高自体は180mから420m程度であるが 石灰岩大地塊の厚さは最大1000mに達すると言われる

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昭和47年(1972)6月25日 山口県萩市
鎌倉時代に石見吉賀郡(鹿足郡)の地頭として赴任した吉見氏が 津和野に館(城)を築き萩をも領地とし
指月山には津和野城の出丸が築かれた 戦国時代には大内氏に属し その後は毛利氏傘下となった
関ヶ原の戦い後 慶長13年(1608)周防国・長門国の2ヶ国に減封となった毛利輝元が
日本海に張り出した指月山の麓に萩城を新たに築き 文久3年(1863)に山口へ藩庁が移されるまで
約260年の間長州藩36万石の城下町として発展した 朝鮮半島に近く馬海流の影響もあって
日本海側としては比較的温暖な気候である 明治22年(1889)阿武郡萩町が発足
大正12年(1923)椿東村・椿村・山田村と合併 昭和7年(1932)に萩市となった
昭和30年(1955)には 三見・大井・六島・見島の4村を吸収合併した

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堀川の平安橋 石造欄干
大字堀内の民家
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萩市大字堀内 口羽家宅門
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萩城 内堀
指月山と天守閣跡の石垣
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天守閣跡の石垣
武家屋敷通り
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昭和56年(1981)5月 萩から山口市内

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1981年 ザビエル記念聖堂 1991年焼失
1981年 瑠璃光寺五重塔
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1981年 ザビエル記念聖堂
1981年 萩堀内 武家屋敷石塀
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