昭和47年(1972)7月29日-8月2日/昭和49年(1974)6月 愛媛・高知

昭和47年(1972)7月29日-30日 愛媛県大洲市 大洲藩旧城下町
大洲は 伊予の小京都と呼ばれ 肱川(ひじかわ)と矢落川とが合流する盆地に発展した旧城下町である
肱川は 下流に向かって渓谷が形成され 長浜から伊予灘に注ぎ込む 閉鎖的な盆地ゆえ霧が発生しやすく
肱川河口では 「肱川あらし」という霧が海へ流れ出る現象が発生する

鎌倉時代の元徳3年(1331)伊予国守護に宇都宮豊房が着任し 以後宇都宮氏が伊予大津を240年近く治めた
戦国時代には 大野直之・小早川隆景・戸田勝隆が相次いで領主となったが
文禄4年(1595)には 秀吉の重臣・藤堂高虎が宇和島から移封された 慶長13年(1608)に高虎は伊勢国津藩に
転封となったが 9月に淡路洲本藩より脇坂安治が5万3千石で入封 大津から大洲へと改名され大洲藩が立藩した
2代目藩主の安元は元和3年(1617)に信濃飯田藩に転封となり 代わって伯耆米子藩より加藤貞泰が6万石で入封
明治維新まで加藤氏が大洲藩主を務めた 元和9年(1623)藩主貞泰が嫡男届けをしないまま急死 嫡男の泰興が
将軍秀忠に直々に謁見し 次男直泰に1万石分知の新谷藩を分立する内諾を得た上で家督相続が認められた
  この支藩分立が原因となり お家騒動が続いたが 寛永16年(1639)に幕府の調停により藩内分知で決着した
明治維新前の藩領は 喜多郡・伊予郡・浮穴郡・風早郡に及び伊予大洲藩が2町151村 新谷藩が1町14村であった

明治22年(1889)12月の町村制の施行により 旧城下の大洲町・柚木村の大部分の区域をもって大洲町が発足
昭和9年(1934)元旦 大洲・久米の2村と合併 昭和29年(1954)9月 平野・南久米・菅田・大川・柳沢・新谷
三善・粟津・上須戒の9村と合併して大洲市が発足 平成17年(2005)長浜町・肱川町・河辺村を吸収合併

昭和45年から国鉄が初めた「ディスカバー・ジャパン」によって全国的に「 小京都ブーム」が巻き起こり
伊予の小京都と言われた 大洲や内子が国内観光地として脚光を浴びた
昭和41年(1966)NHKの連続テレビ小説「おはなはん」の舞台となり 昭和52年(1977)8月には 松竹映画
「男はつらいよ」第19作「寅次郎と殿様」で大洲が舞台となり 嵐寛寿郎が藤堂高虎の子孫として登場した

大洲市亀山公園に隣接する国民宿舎 大洲臥龍苑に宿泊 大洲臥龍苑は 昭和41年(1966)年8月1日開業
施設の老朽化に伴い平成10年(1998)3月31日に閉業 跡地は 少彦名温泉 大洲 臥龍の湯となっている

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大洲城阯
鎌倉時代に宇都宮氏が館(城)を肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれた
大洲は 松山から宇和島へ伊予を南北につなぐ宇和島街道と八幡浜街道の交差地として
また険しいながらも梼原の山越えで土佐へと至る間道があり山間の鄙びた地でありながら交通の要ともなっていた
慶長13年(1608)9月に淡路洲本藩より脇坂安治が5万3千石で入封 大津から大洲へと改名され大洲藩が立藩され
大津の地名は大洲と改められ 明治まで伊予大洲藩の城下町として繁栄した
明治維新によって城は破却されたが 地元の要望によって天守と櫓は一部が保存されたが 明治21年(1888)に
天守が解体されてしまった 現在の天守と櫓は 伝統工法によって平成16年(2004)に復元されたものである
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万延元年(1860)再建の高欄櫓
城跡からの眺め
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養蚕が盛んだった大洲の製糸工場煙突
冨士山(とみすやま)大洲のシンボル「大洲富士」
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伊予大洲駅
大洲神社
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昭和47年(1972)7月30日 愛媛県大洲市 肱川

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早朝の肱川
早朝の肱川と冨士山
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肱川遊覧屋形船 夜は鵜飼見学も出来る
臥龍苑下の水天宮から見る沈下橋
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大洲
宇和島

昭和47年(1972)7月30日-8月1日 愛媛県南宇和郡西海町 石垣の里 外泊
伊予大洲から国鉄予讃線で終点宇和島へ 宇和島から外泊まではバスで移動する 御荘町乗換で距離は約53km

外泊での宿泊は 民宿 石垣荘に2泊した 食卓には捕れたての海の幸が豪華に並ぶ
到着早々 沖に浮かぶ鹿島に渡り海水浴 コバルトブルーの小魚が足を突付く 透明度が高く海は綺麗だった
周囲6km 面積130haの鹿島は かつて宇和島藩の狩猟場であった立ち入り禁止の無人島 現在は全て県有地と
なっており多くの動物が生息する そのうち鹿と猿は餌付けされている

南宇和郡西海町(当時)の外泊(そとどまり)は 西海半島の西部の北側に開いた入り江にある 冬は海上を
吹き抜けてくる季節風や台風の風が強く当たるため 軒の高さに達するほどの石垣を巡らした家屋が密集する
特異な集落を形成している 江戸幕末期に中泊の人口が増加し 分家として移住したことで集落が生まれ外泊と
名付けられた 入江の谷を埋め 水路と屋敷地を造成して明治12年頃に全戸の移住が完了したと伝わる
男は海に出て漁労を行い 女は家事をして家を守ったため 常に海が見えるよう台所は海側に作られたとされる
石垣が台所窓の部分のみ低く造られ遠見の窓や海賊窓と呼ばれた

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外泊・中泊集落 国土地理院 昭和50年(1975)10月の空中撮影写真
背後の斜面には無数の段々畑が天を突くように広がっていたが 現在は耕作放棄され森となっている
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中泊からグラスボートでサンゴ礁の海中公園を見ながら鹿島へ 見える岩礁は鹿島のビシャゴ鼻
鹿島キャンプ場で海水浴・スイカ割りなどして 夕方中泊港に戻る
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鹿島の穴
白浜海岸と耳毛崎
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二日目 外泊の数少ない砂浜の「白浜海岸」へ 民宿から歩いて2.5km・30分の距離
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耳毛崎
白浜海岸の岩場

三日目 早朝から外泊集落内を散策 朝食後足摺岬に向かって出発する

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外泊集落
外泊港
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昭和47年(1972)8月2日 高知県土佐清水市竜串 名勝 竜串
竜串海岸一帯は砂岩と泥岩の層が横方向に互いに重なり合い 侵食度合いの違いによって棒状に形成された
一直線に丸みを帯びた節理が見られる大竹小竹は竜串を象徴する代表的な景観奇勝である

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昭和47年(1972)8月1日 高知県土佐清水市足摺岬 足摺岬
国民宿舎あしずり荘に宿泊 翌日土佐中村から高松まで国鉄土讃線で移動 大阪へ帰る

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足摺 アロウド浜

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昭和49年(1974)6月 博多-佐伯~宿毛 足摺・道後温泉
博多から久大本線経由の夜行列車で大分県佐伯市まで移動 佐伯港を午前4時に出航するフェリーで高知県宿毛へ
宿毛には3時間後の午前7時に入港する便利な船便であったが 現在は会社倒産により休止されている
宿毛でレンタカーを借りて足摺岬に向かう 二度目の足摺岬であった 足摺から宿毛に戻りバスで宇和島へ
国鉄予讃線で松山へ移動し 道後温泉で一泊して翌日のフェリーで北九州小倉へ渡り博多に戻った

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大分県佐伯市 佐伯港岸壁
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湾内の座礁難破船

高知県土佐清水市足摺岬 足摺岬
最南端の碑が岬にあることから 一般には四国本島最南端の地とされているが 地図上での最南端は
足摺岬西方約1kmにある断崖の長碆(ながはえ)南端部付近の岩場である

足摺岬は 宿毛市と四万十市を基部とする渭南半島の 東南にある太平洋に突き出た足摺半島の先端部を指す
足摺半島基部の幅は僅か1.5kmほどである 黒潮の打ち寄せる断崖は最高部で約80メートルの高さがあり
断崖上には足摺岬灯台と四国八十八箇所第38番札所の蹉跎山 補陀洛院 金剛福寺がある また嘗ては
国民宿舎あしずり荘もあったが老朽化のため閉業し跡地には観光案内所が設けられている 足摺岬灯台は
RC造白色塗装で 塔高 18.1m 光達距離 20.5海里(約38km) 灯火標高 60.6m
初点灯は 大正3年(1914)4月1日である

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愛媛県松山市道後湯之町 道後温泉本館
明治27年(1894)から大正13年(1924)に建設された近代和風建築を代表する歴史的建造物である
1994年に国の重要文化財として指定され 2009年には経済産業省の「近代化産業遺産」に認定された

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道後温泉本館
松山小倉フェリー 瀬戸内航路
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