昭和40年代の 山陽・瀬戸内・小豆島

小豆島(しょうどしま)
古事記による国産み神話では 伊邪那岐と伊邪那美のまぐわいによって生まれた小豆島(あずきしま)とされ
神名を大野手比売(おおぬでひめ=大鐸姫)として 今も阿豆枳島神社の祭神として祀られている
古代では吉備国の児島郡に属し 吉備国分割後も備前国に属すなど 中世期まで山陽道に組み込まれていた
平安時代に入り皇家直轄の御料地となったが 南北朝時代の貞和3年(1347)に淡路国守護の細川氏に奪取され
その領地となった 細川氏が讃岐国守護も務めることから経営上は讃岐の属地となったが 名目上は備前国の
呼び名が用いられた 島は摂津以西における海上交通の要衝地となることから 天正13年(1585)に豊臣秀吉の
蔵入地となった以降は 江戸時代後期まで天領の時代が続いた 天保9年(1838)以降は津山藩6村と幕府領3村に
二分され明治を迎えた 明治4年(1871)8月 廃藩置県により津山藩領が津山県に
10月には幕府直轄領が 倉敷県を経て丸亀県に移管された 以降 管轄県が慌ただしく変遷するものの
明治9年(1876)香川県の管轄を経て全島が愛媛県の管轄となった 明治11年(1878)12月 小豆郡が発足し
郡役所が土庄村に設置された しかし明治21年(1888)12月 再び香川県の管轄に戻され
明治23年(1890)に町村制が施行され16村が発足した その後 土庄町・草壁町・池田町・内海町が発足
昭和32年(1957)7月には 土庄町・池田町・内海町の3町に集約され全ての行政村域が消滅し
平成18年(2006)3月からは 西北部・土庄町と南東部・小豆島町の2町体制となっている

慶長3年(1598)伊勢参りに行った島民が 奈良の三輪素麺の技法を移入して手延べそうめん作りを始める
元和6年(1620)大坂の陣後 大坂城修復のため石垣用の石が小豆島で砕石され大阪へ運ばれた
以降 幕府公認の諸大名石丁場が島内各地に設営される 寛永14年(1637)島原の乱後において減少した農民を
補充するため島からも島原半島南部に移住が行われた 移住に際し「手延べそうめん」の技術も島原に移入された
文化元年(1804)高橋文右衛門が島外へ向けて 醤油の製造販売を開始したのが小豆島醤油産業の始まり
明治41年(1908)小豆島南部の西村地区にてオリーブの栽培が開始され 栽培面積は西村一帯に広がる
昭和20年(1945)武部吉次が島外へ向けて葉柄佃煮の製造販売を開始 その後 小豆島佃煮産業が発展
昭和29年(1954)小豆島を舞台とした映画『二十四の瞳』が公開され大ヒット 観光ブームが訪れた

小豆島へは 昭和40年(1965)に開業した大阪安治川内港の旅客船ターミナル弁天埠頭から
関西汽船が小豆島坂手港・加藤汽船が土庄港へ向かう便があり ともに神戸港経由高松行の船で夜行便であった
関西汽船の小豆島まで1971年の2等運賃は540円である 船による波が夜光虫で光るのを良く覚えている
その後カーフェリーが主体となり大阪港の旅客ターミナルは南港へと移った
1995年には関西汽船の航路が廃止され 現在のターミナルビルは 一部を除き廃墟となっている


昭和48年(1973)5月 香川県小豆郡 小豆島
大阪弁天埠頭 20:40発-神戸港 22:20発-坂手港着 3:00着 会社を退職し故郷に帰った友人を写真仲間と訪ねる

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池田港
寒霞渓 山頂駅駐車場
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香川県小豆郡小豆島町神懸通 寒霞渓  霧で何も見えず


香川県小豆郡小豆島町田浦甲 岬の分教場(旧苗羽小学校田浦分校)
松竹映画『二十四の瞳』は 監督・脚本 木下惠介 主演 高峰秀子で昭和29年(1954)年に公開された
原作は 昭和27年に壺井栄が発表した同名の小説であるが 物語の舞台は冒頭に「瀬戸内海べりの一寒村」とし
地名については明かされてはいなかった しかし栄の郷里が小豆島であることから撮影では当島が舞台となり
ロケも小豆島で敢行された この映画がヒット作となり「二十四の瞳」=「小豆島」という刷込みが現在まで続く
この映画のモデルとなった旧苗羽小学校田浦分校(旧田浦尋常小学校)は 昭和47年(1972)に閉校となり
この地を訪れた昭和48年では 映画のモデルとなった岬の分教場として公開されていたに過ぎない

『二十四の瞳』は 昭和62年(1987)に田中裕子主演によってリメイクされ 分教場の南800mの位置に
岬の分教場や大正から昭和初期の民家群・男先生の家・漁師の家・茶屋・土産物屋など14棟のオープンセットが
建てられ 後に「映画と文学のテーマパーク・二十四の瞳映画村」としてオープンし その後もドラマやCM撮影で
利用されている その他パーク内には 松竹座映画館・壺井栄文学館・キネマの庵などがある

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岬の分教場
岬の分教場

昭和49年(1974)5月14日 香川県小豆郡 小豆島
小豆島八十八箇所は 空海(弘法大師)が故郷の讃岐と京を往復する際にあしげく立寄り 島内の各所で
修業や祈念を行なったという伝承をもとに 江戸時代の貞享3年(1686)島の僧侶たちによって整備された
88ヶ所全てが真言宗寺院であり その多くが行場を抱く山岳寺院であるのが小豆島の特徴とされる
島四国と呼ばれる地場霊場巡りは 小豆島の他 淡路島・粟島・因島・弓削島・大島などに存在する

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双子浦展望台から小豆島(あずき島)・弁天島
坂手 小豆島霊場第3番 観音寺奥之院 隼山
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観音寺奥之院 隼山からの眺望
観音寺奥之院 隼山
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小豆島霊場第1番 洞雲山
洞雲山 毘沙門天堂
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洞雲山 夏至観音の洞窟
第1番 洞雲山 本堂

香川県小豆郡小豆島町神懸通 寒霞渓(かんかけい)
西の「美しの原」と東の「星ヶ城跡」にかけて広がり 東西7km・南北4kmに及ぶ断崖や奇岩群の大渓谷である
約1300万年前の火山活動により疑灰角礫岩などが堆積し 度重なる地殻変動と雨水による侵食により形成された
古くは『日本書紀』にも記述がある奇勝であり ガンカケやガッカケなどと同様 崩れた崖や絶壁などを指す
カンカケの名で呼ばれ鍵掛・鉤掛・神懸・神駆などの漢字で表記されてきた 明治初期に藤沢南岳によって
寒霞渓と命名された 大正12年(1923)3月には「神懸山」の名で国の名勝に指定された
この名勝指定は 後の昭和9年(1934)に瀬戸内海国立公園が設置される契機となった
昭和38年(1963)4月 寒霞渓ロープウェイ開業 昭和45年(1970)有料道路・寒霞渓ブルーライン開通
昭和56年(1981)に無料化され 香川県道29号寒霞渓公園線となった

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スカイライン沿い 小豆島町安田乙 太陽の丘・レストランピースパーク 1973年開業 2004年閉鎖
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寒霞渓とロープウェイ
寒霞渓ブルーライン
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香川県小豆郡小豆島町大字蒲野字谷尻 三都半島の除虫菊畑
除虫菊の正式名は シロバナムシヨケギク(白花虫除菊)で 学名は Tanacetum cinerariifolium である
日本での初栽培は1880年代であるが 特に和歌山県で蜜柑農園を営む上山英一郎が 福澤諭吉の紹介によって
米国の植物会社との種子交換により入手した種を蒔き 明治20年(1887)に収穫して蚤取り粉の製品化に成功
以降も順調に収穫数を伸ばし渦巻き型蚊取り線香が大ヒットして 明治38年(1905)大日本除虫菊(金鳥)の
前身となる日本除虫菊貿易合資会社を創立した 英一郎は他県にも種子を分けて栽培地の拡大を目指す中
原産地の地中海気候帯に近い瀬戸内では 水利の悪い沿岸や島の斜面に換金植物として植えられ爆発的に
作付面積が増加した 島嶼部においては因島と小豆島が主要な名産地となり 昭和10年頃に最盛期を迎えた
明治31年(1898)には 米国への輸出を開始 第1次世界大戦後の日本は除虫菊の世界的な名生産地となった
しかし 第二次世界大戦による食料不足を補うため食用植物への転作を迫られ 除虫菊の生産高は急減した
なおも  戦後は化学合成された殺虫剤が開発され 作物としての除虫菊栽培にトドメを刺した
平成3年(1991)を最後に除虫菊畑は完全消滅し 現在は観光用に栽培されているが作付面積はごく僅かである

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昭和50年(1975)の三都半島先端 谷尻地区の除虫菊畑 現在は耕作放棄され原野となっている
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昭和52年(1977)春  広島県尾道市・三原市

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広島県尾道市吉和町 鳴滝山天狗岩から見る尾道水道と岩子島
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尾道バイパスと岩子島と水中翼船 背後は芸予諸島の因島・生口島 (写真は2枚合成)
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西国街道筋 三原市本町
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<上>三原市本町界隈
<左>昭和51年(1976)広島市瀬野川町
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