昭和40年代の京都と滋賀

大阪から京都へは新幹線という選択肢もあったが やはり国鉄・阪急京都線・京阪電鉄などが一般的であった
また 古都奈良と京都を結ぶ近鉄京都線も観光客にとっては便利であった 嵐山や嵯峨野へは阪急で
京都中心部へは阪急か国鉄で 東山近辺へは京阪でという風に使い分けるのが通常であった
ただ職場が寝屋川にあり且つ定期券があるため やはり京阪を使うことが多かった
アフターファイブに京都へ行くこともあり 関西人にとって京都は身近な存在であった 日曜や祭日に
行く先を迷えば「とりあえず京都に行く?」と言うことになる 京阪の五条や四条・三条駅に降り立てば
徒歩で 清水寺・八坂神社・円山公園・南禅寺・蹴上・平安神宮という観光スポットが目白押しなのである
京阪三条駅近くには 全国展開する前の「餃子の王将」三条店があって 餃子を食べて帰ることも多かった

嵐山と嵯峨野
現代では 大堰川右岸の松尾山・嵐山・鳥ヶ岳(嵐山三山)と山麓 及び左岸に接する地域を嵐山と呼び
平安時代には 風光明媚なこの地が貴族の別荘地として拓かれ 今では代表的な京都の観光地となっている
嵐山の中心部を流れる大堰川(おおいがわ)に架かる渡月橋は嵐山の象徴となっており
川は 渡月橋から桂川と名を変え山崎で宇治川・木津川と合流して淀川に再び名を変える
嵐山の北側には 嵯峨野と呼ばれる鄙びた観光地が広がっていた

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嵯峨野(さがの)とは 平安京西部の洛外にあり 1.小倉山 2.愛宕山麓 3.西京極大路 4.桂川に囲まれ
西郊とも呼ばれた桂川の扇状地を含む広い平野部を指す
現在では 嵯峨野と称される観光地としての区域は 概ね太秦(うずまさ)の西部から小倉山麓までを表す
洛内と呼ばれる区域は 平安京の「5.内裏・6.朱雀大路(凡そ千本通り)・7.右京・8.左京」に相当する

「嵯峨」の由来には 「坂」あるいは「険(さがし)」などの地形由来説と
平安京のモデルとなった長安の郊外にある巀嶭山を「嵯峨山」と書いたという説がある
古代では太秦を本拠とする渡来人の秦氏によって拓かれ 平安遷都後には 風光明媚なため天皇や貴族たちの
狩猟や行楽地となった 52代嵯峨天皇が嵯峨院を造営し離宮として居住した 天皇崩御後に離宮は大覚寺となった
平安時代初期の元慶6年(882)に 嵯峨野は禁野とされ天皇・皇族・貴族以外の狩猟が禁止された
以後は皇族や貴族及び縁の文人などによって 山荘や寺院などの建立が相次いだ
しかし奥嵯峨の化野は 洛北の蓮台野や東山の鳥辺野と並ぶ風葬の地でもあった
室町幕府の足利尊氏が 敵対する後醍醐天皇の菩提を弔うため嵯峨野に天竜寺を造営した
江戸時代初頭の慶長11年(1606)豪商の角倉了以が一ノ井堰を築造 川幅を広げたことで 丹波と京をつなぐ
水運の川湊となり 筏で運ばれる木材などを扱う問屋などが並ぶようになった
江戸時代を通し公家領や寺社・門跡領となっていたが 明治36年(1903)に葛野郡嵯峨村となり
大正12年(1923)には嵯峨町となって 昭和6年(1931)に京都市に編入された
昭和45年(1970)東西横断道路の新丸太町通が開通して利便性が増し 鄙びた嵯峨野の地は急速に発展した

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昭和40年(1965)4月4日撮影 嵐山中島公園と渡月橋
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嵐山 桂川一ノ井堰(葛野大堰)
渡月橋西詰
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京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町 渡月橋
平安時代初期の承和3年(836) 現在地から100mから200mほど上流の位置に 僧・道昌によって
架橋されたのが始まりとされる もとは橋の南にある法輪寺に因んで「法輪寺橋」と称されていたが
鎌倉時代に亀山上皇が 橋の上空を東から西へ移り行く月を眺め「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べ
「渡月橋」と命名された しかし この付近は保津川が盆地へ流入する地で 洪水が多く橋は度々流失し
応仁の乱などによる戦禍で焼失もあった 慶長11年(1606)に京の豪商・角倉了以による保津川の開削工事と
ともに現在の位置に架け替えられ 昭和9年まで約300年あまり原型が残され 現渡月橋のモデルとなった

橋長155m、幅12.2m 府道29号・宇多野嵐山山田線 歩道付対向2車線道路 嵐山を象徴する観光名所である
昭和9年(1934)旧木造橋に代え 鉄骨鉄筋コンクリート桁橋を架橋した
景観との調和を図り木製の旧橋を受け継いだ木造疑似橋である あえて中央部の橋面を約1m高くして弓形とし
木造の桁隠しを取り付け 高欄も従来の橋と同じ木造角格子式が採用されている

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嵐山 茅葺木造の公衆電話ボックス
明暗寺 有髪の虚無僧

昭和41年(1966)8月 名神高速道路で京都嵐山・嵯峨野へ行く

日本初の高速道路として 栗東IC-尼崎IC(71.7km)が開通したのは 昭和38年(1963)7月16日であった
昭和32年(1957)に定められた高速自動車国道法に基づく正式な路線名は 中央自動車道西宮線で
東京都から神奈川県、山梨県、長野県、岐阜県、愛知県、滋賀県、京都府、大阪府を経て兵庫県に至る路線として
指定された高速道路である 「名神高速道路」の名は小牧ICから西宮ICに至る区間の「通称」として命名された

吹田パーキングは 開通と同時に供用が開始されたが当初の施設はトイレのみであった 開通年の年末に給油所が
昭和40年(1965)7月に漸く売店が設置された 当初の名は「吹田休憩所」で上り・下り共用施設であった

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名神高速 吹田パーキング
嵯峨野 落柿舎
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1966年8月 大覚寺の大沢池は時代劇のロケ地として有名
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大覚寺の大沢池
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伊勢に向う斎王が潔斎をする野々宮神社
阪急嵐山線 松尾駅
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阪急嵐山線 松尾駅
嵯峨野 お亀石
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1965.4.4 嵐山 蔵王大権現
1965.4.4 嵯峨野 二尊院

昭和47年(1972) 嵯峨野
嵐山・嵯峨野には阪急京都線の桂駅で嵐山線に乗り換え 終点の嵐山駅を出れば渡月橋南詰まで500mほど
渡月橋をわたり嵯峨野を散策して奥嵯峨の化野や鳥居本まで3km弱 大沢池や広沢池及び神社仏閣を周れば
1日でも足りないほどの散歩コースである 他に嵐山へは 四条大宮から路面電車の京福嵐山線が通じている

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広沢池
昭和46年(1971) 正月の天龍寺
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1967.10.09 日蓮宗 小倉山 常寂光寺 多宝塔
1967.10.09 天台宗 小倉山 華台寺 二尊院
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二尊院境内
1967.10.09 芭蕉の弟子・向井去来の落柿舎
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落柿舎
1967.10.09 祇王寺
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祇王寺 カエデの庭
1967.10.09 祇王寺 庭園
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京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町 真言宗大覚寺派 高松山 往生院 祇王寺
元は天台宗の学僧で浄土宗を開祖した法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる往生院の旧跡
往生院は創建以来衰退の道を辿り 明治に廃寺となり残った墓と仏像などは大覚寺に預けられていた
明治28年(1895)大覚寺門跡であった楠玉諦師が 知事の北垣国道から嵯峨にある別荘を寄進されたのを機に
別荘の茶室を本堂とし大覚寺の塔頭寺院として再興した尼寺である 寺号は古典故事に因み
平清盛の寵愛を受け後に捨てられ出家した白拍子の名・祇王を寺号とした
以降約7年間は水薬師寺の六条智鏡尼が住職を兼務し 若い尼僧が交代で留守居していたが 智鏡尼の他界後は
留守居役の尼僧も減少し再び無住寺となって荒廃した 昭和10年(1935)からは 庵主の智照尼と
又従兄弟の寺男と共に復興発展に尽くした 境内の美しい苔と紅葉によって有名となり「嵯峨野の苔寺」として
名を馳せた 以降は篤志家の援助を経て昭和37年から拝観料を徴収し寺の維持管理が安定した

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昭和40年(1965)4月4日 浄土宗 華西山 化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
平安時代以来の墓地で かつては風葬の地であった 伝承では 弘仁2年(811)空海が野ざらしの遺骸を埋葬し
供養のために千体の石仏を埋め 五智如来の石仏を彫り五智山如来寺を建立したのに始まるとされる
その後 法然が浄土宗の念仏道場を開き 名称も念仏寺となったとされる
明治30年代に 埋没していた約八千体の無縁石仏を掘り出し配列安祀した 石仏と共に発掘された壺や古銭から
平安から鎌倉・室町・江戸の各時代に及ぶことが解明された
この無縁石仏に灯明を供える千灯供養は 地蔵盆の夕刻より行われる
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昭和47年(1972)10月
昭和42年(1967)10月9日

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昭和46年 鳥居本 つたや 暖簾
昭和46年 高雄 神護寺

昭和47年(1972)11月 京都市北区中川 北山杉
室町時代に勃興した茶道や華道を背景に 茶室やその延長線上ある数寄屋造りの家屋に杉の磨き丸太が多用され
嵯峨野から若狭湾の小浜へ通じる周山街道(鯖街道)の途中にある中川地区は
古来より御所に産物を献上する「供御人」としての地位を授かり 磨き丸太の生産地として栄えた

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磨き丸太を利用した代表的建築物は 江戸時代に建築された桂離宮や修学院離宮が有名である
江戸時代から明治にかけ 北山杉の磨丸太は京都市内を始め関西一円に販売されていたとされる

第二次世界大戦後は 著名な建築家たちによる近代数奇屋建築が建築されブームとなった
磨丸太の需要は頂点に達し磨丸太用の杉育成林が南丹まで拡大した

以降は 中川を中心とした地域の杉丸太を「地山丸太」 南丹地域の杉丸太を「丹波物」と呼んだ


昭和46年(1971)4月 京都府南丹市園部町大河内 るり渓
嘗ては「なめら」(滑・滑石・滑渓)と呼ばれていたが 明治38年に「るり渓」と命名され一躍有名になった
瑠璃渓谷は 火山噴火による火砕堆積物が 園部川の侵食作用によって生成された長さ4kmの渓谷である

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京都市右京区 龍安寺(りょうあんじ)の石庭
臨済宗妙心寺派大本山妙心寺の境外塔頭
山号は大雲山
室町末期の作者不詳の石庭は世界遺産に登録
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世界遺産 京都市北区 金閣寺舎利殿 正式名は北山鹿苑禪寺 1971.01.03 撮影
臨済宗 相国寺派本山 相国寺 境外塔頭 昭和25年放火により焼失 昭和30年に再建
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昭和46年(1971)10月 修学院 曼殊院道
昭和46年(1971)10月 鷺森神社
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鷺森神社
鷺森神社

昭和46年(1971)10月 京都市左京区一乗寺竹ノ内町 天台宗 曼殊院門跡
最澄の時代に比叡山上に創立された坊が起源とされ 12世紀頃に北山に遷り 洛中への移転を経て
明暦2年(1656)現在地の一乗寺に移転した 曼殊院のある一乗寺や修学院は 比叡山への登り口となる八瀬の
南に位置し 天台宗叡山の重要な地域となる 更に高野川にそって奥に6km進めば大原の里である

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門跡寺院とは 皇族が住職を務める寺のことである

曼殊院の名は 法華経などの仏典に「天上の花」として表される曼珠沙華が由来となっている

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曼殊院 庭園に面する大書院縁側
銀閣寺への道
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昭和50年(1975)11月 京都市左京区銀閣寺町 銀閣寺
臨済宗相国寺派大本山相国寺の境外塔頭 正式名称は「東山 慈照禅寺」足利義政により創建された
室町幕府八代将軍の足利義政は文明5年(1473)に将軍職を譲り辞し 文明14年から東山山荘の造営を始めた
応仁の乱が終息した直後にも関わらず義政は庶民に税や労役を課して山荘の造営を進め
尚且つ庶民とはかけ離れた書画や茶の湯に親しむ風雅な隠栖生活を送っていた 造営工事は8年にわたり
続けられたが 文明15年に当地へ移り住んだ義政は山荘の完成を待たず 延徳2年(1490)1月に死去した
同年2月 義政の菩提を弔うため未完であった東山殿を禅寺に改め 相国寺の末寺とし開山したのが慈照寺である
銀閣とは 木造2階建楼閣建築の慈照寺観音殿のことで 長享3年(1489)の上棟であるが
全体の造営が完了したのは義政死去後であった


昭和43年(1968)3月 京都市南区九条町 真言宗総本山 八幡山 教王護国寺(東寺)
平安京造立の際 正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」の二つの寺院を建立する計画が成された
それぞれ左京・右京を守る京城鎮護および東国・西国を守る国家鎮護という目的を持った官寺であった
寺院建立の年代は定かではなく 後に東寺は嵯峨天皇より空海に下賜され真言密教の寺院となったが 西寺は
他寺出身の僧が別当を努めたと記録に残る その後 西寺は廃寺となっているが その年代も不明である
一方の東寺は 高野山と並ぶ真言密教の根本道場として栄え 中世以降は「お大師信仰」の高まりとともに
「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになった

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昭和47年(1972)10月 京都市左京区南禅寺福地町 南禅寺
正式名は臨済宗南禅寺派大本山 瑞龍山 太平興国南禅禅寺である
日本最初の勅願禅寺として 正応4年(1291)亀山法皇の開基により無関普門(大明国師)が開山した古刹である
京都五山および鎌倉五山の上位にあり 日本国中全ての禅寺の中で最も高い格式を持つが
明治新政府の上地にあい寺領の多くを失った

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<右上>南禅寺境内を横切る 琵琶湖疏水の水路閣

 寺院ではあるが拝観料も不要で 開放的な境内は京都でも有数のデートスポットでもある

 境内にある「南禅寺 順正」では 京都ならではの美味い湯豆腐が食べられる

 現在店舗となっている建物は 江戸時代の天保10年に 蘭学医である新宮凉庭によって学問所として建てられた書院で「順正書院」と呼ばれ国の登録有形文化財である

 南禅寺は湯豆腐発祥の寺とも言われ 湯豆腐は禅宗の作務から生まれた精進料理である

<下>南禅寺三門と勅使門

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昭和43年(1968)3月 京都府東山区大橋町 三条大橋

江戸日本橋へ至る街道・東海道五十三次の始点である 最初に橋が架けられた時期は室町時代といわれる
天正17年(1589)に豊臣秀吉の命によって 五条大橋とともに石造の橋脚に改められた
明治まで続いた秀吉の橋の規模は 長さ・64間4尺(126.0m) 幅・3間5尺5寸(7.5m)あった
擬宝珠の銘によれば 礎石は5尋(9.0m)の深さまで川底に入れ 63本の橋柱を全て石柱とし
「石柱の橋は濫觴(らんしょう)なり」(濫觴の意味は物事の始まりや起源)と明記してある

江戸時代には 度々洪水被害を受け 幕末まで35回の修復工事が施されている

明治13年の架替工事では 古い石柱が京都御苑の九条池に架けられた高倉橋の橋脚に流用された
大正元年(1912)国道橋となったことで 幅員を14.5mに拡幅し 主桁にH型鋼を用いて橋脚の数を少なくした
昭和10年(1935)6月集中豪雨が発生 橋の一部が流失し改修 昭和25(1950)年4月に現在の橋が竣工した
昭和40年代には 橋脚の石柱が橋の東詰に置かれていたことを記憶している
昭和49年(1974)には ヒノキ製の木製高欄が完成 擬宝珠は創建当時のものが使われている

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<上左>三条大橋東詰の高山彦九郎皇居望拝之像
以前は写真のように川原の築山にあったが 京阪三条駅地下化に伴う周辺の整備工事で
東詰交差点の南東角に移転した 西詰には弥次喜多像がある

京都市東山区 祇園(ぎおん)
八坂神社は江戸時代まで 祭神の牛頭天王が祇園精舎の守護神であるため 祇園社・祇園感神院などとよばれ
一般には「祇園」と言うだけで通じていた その社領は広く鴨川一帯までの広大な境内地を保有していた
現在「祇園」と呼ばれる界隈は主に旧境内地であり 現在の弁財天・元吉・末吉・清本・橋本・常盤・富永・廿一軒
中之・川端・祇園町北側・祇園町南側・林下・円山・清井の各町が当てはまる

江戸時代までの祭神は 中座・牛頭天王 東座・八王子 西座・頗梨采女の三柱であったが
明治の神仏分離令によって それぞれ素戔嗚尊・櫛稲田姫命・八柱御子神に代えられた

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昭和46年(1971)2月7日 正面に見えるのは 京都市立弥栄中学校講堂・体操場
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元吉町 白川
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置屋の玄関 通路の上に芸姑舞妓の源氏名表札
高台寺前の高台寺道

高台寺道
現在は電線が地中化され 拡幅して石畳となって「ねねの道」と名付けられた
高台寺の正式名は「鷲峰山 高台寿聖禅寺」 寺号は 秀吉の正室・北政所の出家後の院号である高台院にちなむ
秀吉の正室であった北政所が 家康の手厚い支援のもと 秀吉の冥福を祈るため建立した寺院である
慶長10年(1605)高台院は実母の菩提寺・康徳寺をこの地に移転させ 慶長11年(1606)曹洞宗の寺として
高台寺を建立創建した 同時に高台寺西側に伏見城にあった北政所化粧御殿とその前庭を移築して高台院屋敷とし
また 傍らに甥の木下利房の屋敷を建設した 高台寺の方丈や茶室などは伏見城から移築した
寛永元年(1624)7月に臨済宗へ改めた後の 寛永元年(1624)9月6日に高台院(俗名・ねね)は亡くなった


昭和40年(1965)7月17日 京都 祇園祭
江戸時代まで 祇園御霊会または単に御霊会(ごりょうえ)と呼ばれた八坂神社(祇園社)の夏季祭礼である
起源は古く 平安遷都の半世紀後の貞観5年(863)朝廷によって疫病退散の御霊会が神泉苑で執り行われた
しかし翌年には富士山が噴火し 貞観11年(869)には陸奥で大地震が起き津波によって多数の犠牲者が出るなど
度重なる天変地異によって社会不安が深刻化した 祇園社司の卜部 平麻呂は牛頭天王の祟りであるとして
国の数を表す長さ二丈の鉾66本を立て 神輿3基を神泉苑に送り牛頭天王を祀り御霊会を執り行った
その後も都では 度々疫病が流行りその都度御霊会が行われたが 天禄元年(970)から夏の祭礼として定着した

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四条通
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昭和46年(1971)元旦 八坂神社おけら参り
境内三か所に設けられた「をけら灯籠」の火を 竹でできた吉兆縄に移し火が消えないように回しながら持帰り
無病息災を願って神棚のロウソクの火や雑煮を炊く火種とする風習 大晦日は電車の終夜運転が行われ
持ち帰りに挑戦したが 電車内では回すことも叶わず途中で消えた
後から聞いた話では 遠方の参拝客は「桐灰カイロ」に火種を移して持ち帰るらしい
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昭和46年(1971)2月7日 円山公園 学園祭のデモストレーション(?)

昭和46年(1971)2月7日 京都市東山区清水 産寧坂と清水寺
産寧坂は 清水寺の参詣道である清水坂の七味屋から北に高台寺に向かって下る坂である
一般的に東山の散策では 三条・南禅寺・知恩院・八坂神社・円山公園を通り高台寺へ至る
なおも一年坂・二年坂・産寧坂を上って清水寺を詣で 建仁寺・祇園と周回すれば健脚向きのコースとなる
産寧坂の由来には諸説あり「お産が寧か(やすらか)」ということから 清水寺の子安観音へ安産祈願するため
上ることから「産寧坂」と呼ばれるようになったという説が 一番もっともだと思われる
ただ「さんねいざか」が関西人にとっては発音しにくい言葉であることから 近年は「三年坂」という人が多い

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昭和46年(1971)産寧坂
昭和55年(1980)雨の清水舞台
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土砂降りの清水舞台
清水寺 子安塔
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舞台から見下ろす音羽の滝
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昭和45年(1970)1月 音羽の滝
昭和45年(1970)1月 清水寺全景
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昭和54年(1979)1月 京都市東山区清水 北法相宗大本山 音羽山 清水寺
宝亀9年(778)平城京興福寺の修行僧・賢心によって刻まれた千手観音像を 庵に安置したのが始まりとされる
  宝亀11年 狩猟のため音羽山に入った坂上田村麻呂が賢心に出会い 殺生の罪を説かれ観音に帰依し
自邸を本堂として寄進した 延暦24年(805)坂上田村麻呂が朝廷より寺地を賜り
弘仁元年(810)には 嵯峨天皇の勅許を得て「北観音寺」の寺号を賜り朝廷公認の寺院となった
秀吉は清水寺に130石の寺領を安堵し 江戸幕府もこれを継承 寛永6年(1629)の火災で多くの堂宇を失ったが
寛永10年(1633年)に徳川家光の寄進により現在の本堂と舞台が再建され 前後して多くの諸堂も再建された

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清水寺境内
清水坂
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昭和46年(1971)2月7日 清水坂 清水寺の表参道 土産物屋が並び京都以外の商品・食品も並ぶ

昭和43年(1968)3月 京都市東山区本町 臨済宗 慧日山 東福禅寺
建長7年(1255)に建立 開基は摂政九条道家 開山は宋に渡り興聖万寿禅寺で修行した円爾禅師
度々大火により焼失を繰り返したが昭和9年に本堂が再建された 他に方丈や庫裏は明治以降の再建
国宝の三門・東司・浴室・禅堂などは中世の建築物である

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国宝の三門
勅使門 土塀五本線の勅願寺
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経蔵
通天橋に続く石畳の廊下

昭和42年(1967)6月11日 宇治市五ケ庄三番割 黄檗宗大本山 黄檗山 萬福寺
開山は明から来日した僧・隠元隆琦 寺の建立は寛文元年(1661)に開始され 近衛家の所領で後水尾天皇の
生母中和門院・大和田御殿の地に 徳川将軍家及び諸大名の援助によって 延宝7年(1679)にほぼ完成した
山号と寺号は 隠元の故郷である福建省福州府の寺と同じ黄檗山萬福寺と名付けられた
隠元禅師が明国から伝えたものは 煎茶道・普茶料理・インゲンマメ・孟宗竹・スイカ・レンコンなどがある
当初隠元は 高齢のため3年間の滞在で帰国する手はずであったが 請われて日本に骨を埋める覚悟を決めた

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斎堂(食堂)前の回廊に吊される魚を模した開梛(かいぱん)は魚梆(ぎょほう)とも言われ
これを叩いて食事時を知らせた 経をあげる時に叩く木魚の原形となったもので 今でも使われている
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中華風の屋根
三室戸寺の三重塔まで歩く 約3km
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昭和50年(1975)2月 京都市伏見区 伏見
山城盆地には 東からは琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川が 南からは鈴鹿山地を源流とする木津川が
北からは丹波山地を源流とする桂川が流れ込み 盆地の中央部に広大な遊水池を形成していた
通常は水流が網の目のように発達し 渡来人の秦氏の本拠地となり 水田が開墾され伏見稲荷神社が創立された
後には常時滞水して 巨椋池(おぐらいけ)と名付けられた 池は昭和に入って干拓され水田に変わった

地下水や伏流水に恵まれ 平安京の造酒司の影響を受け 室町時代には伏見にも造り酒屋があった
秀吉が伏見城及び城下町を築き 巨椋池や河川の改修を図り水運も発達して 伏見が酒どころとして栄えた
江戸時代に伏見城が廃されたが 高瀬川の水運 京・大坂・大津・大和とを結ぶ街道が整備され
水陸交通の要衝となり 港町・宿場町として大いに繁栄した

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京都府京都市伏見区南浜町 月桂冠酒蔵 伏見運河の堤も時代劇のロケ地
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昭和49年(1974)5月 若狭・天橋立・丹後半島サイクリング

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亀岡市保津町 保津川下り乗船場
南丹市日吉町中神子ヶ谷 日吉ダム
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丹後天橋立大江山国定公園 奈具海岸
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天橋立 ここも時代劇のロケ地
天橋立
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天橋立
蒲入展望所から経ヶ岬遠望
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伊根町蒲入 蒲入展望所

昭和46年(1971) 滋賀県愛知郡愛荘町松尾寺 天台宗 松峯山 金剛輪寺
寺伝によれば聖武天皇の勅願で行基の開創とされ 創建は天平9年(737)ないし天平13年(741)と伝わる
西明寺・百済寺(ひゃくさいじ)とともに湖東三山と言われる古刹である

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昭和48年(1971)4月 滋賀県東近江市石塔町 天台宗 阿育王山 石塔寺
芦原温泉で一泊 金沢兼六園へ あいにく天気は雨 大阪への帰りに石塔寺へ立ち寄る

石塔寺
聖徳太子が近江48ヶ寺建立の大願を発起し 石塔寺は 最後の48番満願の寺で 本願成就寺と称したとされるが
確証はなく伝承の域を出ない 数万基ある境内の石塔中 高くそびえる三重石塔は奈良時代前期に朝鮮半島からの
渡来人によって建立されたといわれ 『日本書紀』に天智天皇8年(669)百済から渡来した難民700名余を
近江国蒲生野へ移住させたとの記述があることからも裏付けられる
鎌倉時代に 三重石塔の周りに五輪塔や石仏が数多く奉納され 現在のようになった

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桜咲く兼六園 しかし天気は雨模様
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花崗岩製 石造三重塔 日本最古の石造層塔 高さ7.6mは日本最大 国の重要文化財指定
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昭和42年(1967)7月29日-30日 滋賀県米原市上野 伊吹山夜行登山
滋賀県最高峰の山で標高は1377mある 古代から霊峰と崇められ修験道においては「大乗峰」と呼ばれていた
室町時代後期には織田信長によって山上に薬草園が造られたとされ 明治以降は近代登山の対象となった
琵琶湖に接する山でアクセスも良く 第二次大戦後は知名度も高まり登山客で賑わうようになった
昭和40年(1965)9合目までドライブウェイが開通 山頂部は一気に観光地化した

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山頂はご来光を見るため大賑わい サンダルやハイヒール履きの人達もいる
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山頂の野草園・お花畑
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