昭和46年(1971)2月11日−12日 岐阜県高山市 飛騨高山の街並み

高山は 城山・東山・北山・中山などの山に四方を囲まれた山間の盆地である 市役所のある中心部の標高は
約570mあり 川は日本海に向かって北へと流れ富山湾に注ぐ  高山盆地は地盤沈降によって形成された一般的な
盆地ではなく 周辺山岳地帯の隆起に遅れを取った形で残された窪地であり 標高も高く河川堆積物も薄いことから
古代より農耕の発達した地域ではなかった そのため下流域にある古川国府盆地が飛騨地方随一の穀倉地帯となった

飛鳥時代までは山城・敦賀を経て越前から飛騨国へと入ったため その中心地は下流域の国府や古川盆地であった
大宝律令の制定により東山道が整備され 南側の美濃国から飛騨へ至る道が拓かれ
奈良時代に至って国分寺と国分尼寺が高山盆地に建立され 飛騨国の中心地は高山盆地に移されたが
平安時代に古川国府盆地に荘園が拓かれ 鎌倉時代には荘園領主が地頭となり 再び古川国府が中心地となった

戦国時代末期に三木自綱が 高山に松倉城を築き飛騨統一を果たした 天正13年(1585)松倉城は秀吉の配下
金森長近によって攻め落され 慶長5年(1600)金森長近は高山城を築城するが 同年関ケ原の戦いが勃発した
江戸幕府は飛騨高山藩を立藩し 東軍について戦功を上げた長近が初代藩主となり高山城は安堵された

金森家の支配は六代目の金森頼旹まで続いたが 元禄5年(1692)に出羽国上山藩に突如移封され その領地は
飛騨高山の金・銀・銅・木材などの豊富な資源に目をつけた幕府によって上地され幕府の直轄領となった
高山城は 元禄8年(1695年)幕府によって廃され金森家の下屋敷を高山陣屋とした
明治維新後の飛騨は 飛騨県から高山県となり 一時期信濃の筑摩県への編入を経て岐阜県の管轄に戻された
明治22年(1889)の町村制施行により大野郡高山町が成立 昭和9年(1934)10月 高山本線が開通・高山駅開業
昭和11年(1936)11月 高山・大名田の2町が合併して高山市が発足した

昭和46年(1971)2月11日 岐阜県高山市大新町 日下部民藝館
日下部家は 幕府飛騨郡代高山代官所の御用商人として財を築いた 柳宗悦の提唱する民藝運動に共感し
昭和41年(1966)に開館した 日下部家住宅は明治12年(1879)建築の主屋と2棟の倉からなり
昭和41年(1966)に国の重要文化財に指定された 民藝館は日下部家住宅の主屋の一部を第一展示場とし
倉2棟のうち1棟を第二展示場としている 第一展示場は江戸時代後期から明治時代の庶民の生活用具などを展示
第二展示場には民藝品などを展示している

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高山市三町伝統的建造物群保存地区 上三之町
高山城下で最初に造られた町人町である 一番町・二番町・三番町あり 現在の一之町から三之町に当たる
上三之町を中心とする南北420m 東西150m 面積4.4haの地域が伝統的建造物群保存地区に指定されている
高山城下の町割りを行った金森長近は織田信長の直参であった為 信長の楽市楽座による商業流通の繁栄策を
間近に見ておりその重要性を良く理解していた 長近は通常武家地7割・町人地3割という城下の町割りを
大きく逸脱し町人地を武家地の2割増しとした町割りを行った またこれを可能にしたのは 高山盆地には
極めて農耕地が少ないという地質的な面も作用した 細長く耕作地の多い古川国府盆地では不可能であった

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 飛騨高山が注目を浴びたのは 昭和45年から国鉄が初めた「ディスカバー・ジャパン」のポスターに上三之町の写真が採用されたことから始まった

 飛騨路と高山は空前のブームとなり観光客が押し寄せた 昭和48年の秋に再度訪れたが 大阪からの夜行列車は超満員で寝台車の通路まで人が溢れ 客車が傾くなどの支障が発生した 町中には宿泊難民が溢れオーバーツーリズムの様相を呈していた

 すでに最初に訪れた時の風情もうすれ 早朝の上三之町を散策し早々に高山を引き上げた

 その後は 高山を訪れたことは無い

 高山は 1980年にフランキー堺主演の「赤かぶ検事」でサスペンスドラマの舞台となっている

 後には古川の街並みも注目され 2002年には高野志穂主演のNHK朝ドラ「さくら」の舞台となった


昭和48年(1973)11月4日 高山市上三之町

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1973.11.4 高山市総和町 飛騨国分寺五重塔
1971.2.11 高山市堀端町 飛騨護国神社
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子供たちは 凍結した石段でソリ遊び
城山から穂高連峰
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城山の高山城阯から夕日
高山朝市
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高山の朝市は陣屋前と宮川通りの二ヶ所あり 陣屋前は江戸時代より堀端町の照蓮寺境内で桑市として始まり
弥生橋・中橋と場所を変えながら陣屋前に落ち着いたとされる 宮川朝市は 終戦後の昭和22年(1947)に
安川朝市組合が結成され安川通りで行われていたが 昭和28年(1953)安川通りが国道158号線になることから
立ち退きを命じられ 現在の宮川沿いに移転したものである 宮川沿いの路上テント及び店舗で毎朝拓かれている


昭和46年(1971)2月12日 岐阜県高山市西之一色町 飛騨民俗館(現:飛騨民俗村)
高度成長期に飛騨から合掌造りの家が消えつつあった 保存が叫ばれる多くの家屋は大都会に近い県外へと出され
財政難にあえぐ地元に残されるものは皆無であった 昭和36年に着工された御母衣ダムには多くの合掌造りの
家屋が沈もうとしていたが 元荘川村長若山作右衛門からダムに沈む自宅を高山市へ無償で譲渡したいと打診があった
若山家は立派な合掌造りで しかも入母屋から切妻合掌へ移行する痕跡を残す貴重な建築物であった
旧若山家住宅は 観光ホテル建設予定地の西之一色町に運ばれ 昭和34年(1959)7月に飛騨民俗館として開館した

昭和44年(1969)には民俗村構想趣意書が議会に提出され可決 御母衣ダムに沈む多くの家屋が移築保存される
事となった 昭和45年(1970)から民俗館周辺の整備が始まり 翌年の7月1日に集落博物館「飛騨の里」が開館した

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復興された小糸焼(飛騨最古の窯元)
小糸焼の壺
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1971.2.12 撮影
1973.11.4 撮影
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