2019.01.15 撫養街道 福良浦

撫養街道・淡路往還
飛鳥時代の大宝元年(701)に制定された大宝律令によって五幾七道の国分けが定められ
紀伊・淡路・讃岐・阿波・土佐・伊予の六国を南海道とした 大和国からは 金剛山地の東側を南下し
宇智郡(五條市)で国境を越えて紀伊国に入り ようやく南海道へと足を踏み入れたことになる
紀伊国内では 和泉と紀伊の国境となる和泉山地の南麓を西へ辿り西端の加太浦へと出る
その後 友ヶ島の浮かぶ紀淡海峡を淡路国の由良浦へ渡航し 淡路国を横断して福良浦から再び海を渡り
四国の阿波国(徳島)撫養浦に上陸したのである 奈良時代 淡路国内に官道として由良浦から
福良浦へ約30kmの南海道が整備された その官道は 後に洲本城が築造される三熊山南麓の
小路谷(おろだに)を通る道筋で 当初は 由良浦・洲本川右岸の大野・国分寺のある神本
そして福良浦の四ヶ所に駅が置かれた その後延暦3年(784)に 都が山城国の長岡京に遷されたあと
都により近い山陽道の明石泊と淡路国北端の岩屋泊の間に官営の船渡しが置かれ 淡路国への道筋は
山陽道経由に変わった それに伴い神護景雲2年(786)に神本駅が廃止され 大野駅も洲本川北の
現・洲本市上加茂辺りに移され 大野駅が由良道と岩屋道の合流地点となった 以降は平安時代を通し
岩屋泊からの往還道が都との主要路となって 役人や税の庸調物を運ぶ運脚たちが往来をした
武家政治の鎌倉時代になって 幕府が朝廷のある都から遠く離れた相模国の鎌倉郡に置かれたため
東国から四国に至る道は 東海道を通り伊勢国の津から京を迂回し 大和から紀州国を通る道筋となって
加太・由良の双方に再び繁栄がもたらされた 江戸時代初期の元和元年(1615)に洲本藩が廃止され
淡路国は四国の阿波・徳島藩の支配となった 淡路往還は阿波五街道の撫養街道に繋がる道として
徳島藩の手により整備が進められたが 藩主の参勤交代では 本州まで船が使われたため
岩屋・洲本・由良・福良などを結ぶ淡路往還道の整備は 必ずしも十分に尽くされたとは言い難く
公認の宿駅は設置されなかった 藩主や役人が島内を巡視や巡検する場合は島内各地に置かれた藩邸や
陣屋などに宿泊していた 一般庶民が利用できる宿は 洲本・福良・志筑・岩屋などの湊に
渡海の折に船待ち出来る旅籠がそれぞれ数軒ある程度であった その後 瀬戸内航路が発展するにつれ
いつしか 淡路島が持ち続けていた 四国の玄関口としての立ち位置は消滅していった
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兵庫県南あわじ市賀集八幡 旧八幡橋
この石造アーチ橋は 橋の側面両側に鶴と亀が陽刻されていることから「鶴亀橋」とも呼ばれ
八幡村の印部喜与門の寄贈によって 当時の淡路往還の山路川に架かる橋が 川の増水によって破損し
度々通行が遮断されることを憂い架橋されたものである 石材は播磨の家島や小豆島で調達され
淡路に運び込まれ 淡路・津名郡の井高政吉が石匠として建設にかかり 明治11年(1878)に竣工した
昭和45年(1970)の道路改修工事に伴い撤去され 現在地に移転し明治の文化遺産として保存された
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明治十年十一月
八幡橋
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鶴の陽刻
亀の陽刻
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賀集八幡神社参道 右側の塀は護国寺
賀集山 護國寺は 高野山真言宗の寺院で江戸時代まで賀集八幡宮の神宮寺であった
創立は平安時代で 高野山宝幢院領であった賀集荘の神護寺であった 中世の賀集八幡宮と護国寺は
淡路守護の細川氏の庇護を受けていたが 南北朝時代の至徳3年(1386)に焼失した
約250年後の寛永8年(1631)に 阿波藩主蜂須賀家によって再興され菩提寺となった
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賀集八幡神社 拝殿
賀集荘の鎮守として平安時代に創建された 参道の一部が街道になっている
福良湊
福良浦は 潮の流れが早い鳴門海峡から入り込んだ福良湾内にある天然の良港である
大化2年(646)の「大化の改新」によって畿内より伊予・土佐に至る南海道が整備されると
紀伊国加太浦と淡路国由良浦及び淡路国福良浦と阿波国撫養浦の間で通船が開設され
由良湊とともに畿内と四国を結ぶ海上交通の要衝となった
近世には 吉野川北岸を阿波池田まで通じる撫養街道の一部として機能したが 近代化に伴い阪神間から
撫養への直結航路が開かれ 明治15年(1882)から撫養−阪神間の汽船が福良港へ寄航するようになった
明治33年(1900)高知−大阪間に大阪商船(関西汽船前身)が就航し福良港への寄港が開始された
明治40年(1907)福良−撫養間に福良汽船(後・阿淡汽船)が就航して
昭和29年(1954)には 自動車の普及により徳島県営フェリー(後・鳴門フェリー)が就航したが
昭和60年(1985)の大鳴門橋開通によりすべての定期旅客航路が廃止された
遡る昭和31年(1956)に 南海観光汽船により和歌山−小松島航路が開設されており
その後 南海汽船から南海フェリーとなって 現在まで和歌山−徳島間の直結航路として存続されている
江戸時代を通じ淡路島の大半は徳島藩の支配下にあったが 明治9年(1876)に兵庫県の管轄となった
明治22年(1889)福良浦単独で徳島県三原郡福良町となり 昭和30年(1955)南淡町に統合
平成17年(2005)平成の大合併で 南淡・緑・西淡・三原の4町が合併し南あわじ市が発足した
現在・福良港は鳴門観潮の観光船発着港として利用される他 貨物港・漁港としても利用されている
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明治32年(1899)測図 三原郡福良
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道の駅に車を駐めて福良を散策
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築地川
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福良商店街
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住吉神社
福良八幡宮
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福良八幡宮 神門
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福良八幡宮 拝殿
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福良八幡宮 神殿
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福良八幡宮 拝殿
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福良町かどサロン「明王楼」 遊郭跡か
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淡路しまうた なんでしょうか?????
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回漕店とは 江戸時代から明治にかけて活躍した船問屋 福良には今も数軒の回漕店がある
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