2014.02.10 撫養街道 加太湊

古代より 加太湊は南海道(紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐の六国)の主要な湊で
大宝2年(702)に駅(うまや)が置かれ「賀太駅」と呼ばれていた 江戸時代には大名の参勤交代道となり
紀伊国屋文左衛門が江戸へみかん船を出すなど 中国・四国・九州および房総などへの廻船業者が多く
商業港としても栄えた 明治32年より 紀州航路や洲本・由良を結ぶ客船が発着し繁栄してきたが
その後 交通の便利な深日港・淡輪港に取って代わられ 現在では大型フェリーの時代となって
南紀四国航路も 和歌山−徳島間を結ぶ南海フェリーのみとなっている
一般的に「撫養街道」は 四国内の吉野川北岸の街道を指すが 南海道を貫く街道の意味から
一部では 紀州孝子越街道との分岐点である土入を起点とする説もある また和歌山城下から加太への道を
通称「淡嶋道」と呼ぶ 全国淡嶋社の本宮である加太淡嶋神社への参詣道でもある
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加太淡嶋温泉・てくてくマップ

南海電気鉄道株式会社 加太線 加太駅
加太軽便鉄道によって明治45年(1912)6月16日開業開設された 当時の路線は
和歌山口(後の北島駅)から加太駅間を開業したもので その後 大正3年(1914)9月には
紀ノ川に 現在歩道となっている橋梁を架け 新たに和歌山口駅を 南海鉄道和歌山市駅北側に開業した
昭和17年(1942)2月1日に南海鉄道に吸収合併され南海鉄道加太線となり
昭和19年(1944)6月1日 関西急行鉄道と南海鉄道が合併し設立された近畿日本鉄道の所有となったが
昭和22年(1947)6月1日 南海電気鉄道(高野山電気鉄道が社名変更)に旧・南海鉄道の路線を分離譲渡した
昭和25年(1950)紀ノ川駅を分岐とする路線に乗客輸送を切り替えた
昭和25年(1950)のジェーン台風によって紀ノ川橋梁が破損し 北島−和歌山市間が不通となった
昭和30年 北島−和歌山市間を廃止 昭和41年(1966)に東松江−北島間を廃止した
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駅舎内部 右写真は危険なため外された屋根の天辺にあった「とんがり」瓦
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加太駅前の銭湯「新町温泉」
新町温泉路地

国登録有形文化財 旧加太町警察署(中村邸)
明治末期または大正初期に建てられたもので 300坪余りの敷地には 本館をはじめ取調べ室・留置場(2室)
道場・会議室・署長官舎等小さいながらも必要なものは一応揃っている 当時の加太町は 加太砲台や友が島など
大阪湾を守る重要な要塞地域であった そのため自由に出入りは出来ないが活気に満ちていた
戦後は 河西地域が住友金属の進出で人口が増え警察署も移転となった その後 昭和39年に所有者の県が
公示入札で売却し 落札者の中村清文氏が住友金属の独身寮を営み 後に「民宿・中村荘」として営業
現在は文化財指定により 警察署当時の本館と署長室があった棟のみ外観保存している
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元は旅館のような建物 かつて加太は活気のある町 昭和40年代までは海水浴客で繁盛していた
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淡嶋道(左の小路)と明治の建築・向井家
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右の道は大川越街道 岬町の深日湊に至る
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大川越分岐の道標<左・中> 右和可山道 左あわしま道 嘉永二年己酉仲春(二月)建之
キシモト商店角の道標<右> 嘉永二年 右和可山道 左阿わし満道
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道標のあるキシモト商店角
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春日神社 桃山様式の社殿は重要文化財
稱念寺

春日神社付近の古い町並み
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堤川を渡って 阿弥陀寺
御所の双体地蔵
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対岸の煉瓦倉庫
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旧丸治醤油・醸造倉庫
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旧加太港前の繁華街
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暗渠の石橋
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加太湊へ下る暗渠の路地
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湊では大切な真水 共同井戸
嘉永年間に造られた井戸で「嘉永井」
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堤川の河口に拓かれた古い加太湊
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現在の加太港
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