2019.01.15 撫養街道 由良と洲本

由良浦は 外海を海岸線に沿って2kmもある細長い成ヶ島(なるがしま)が隔てる潟湖内にあり 古より
天然の良港とされてきた 成ヶ島はその珍しい地形と景勝から 瀬戸内海国立公園にも指定されている
大化2年(646)の「大化の改新」によって畿内より伊予・土佐に至る南海道が整備されると
紀伊国加太浦と淡路国由良浦及び淡路国福良浦と阿波国撫養浦の間で通船が開設され
福良湊とともに畿内と四国を結ぶ海上交通の要衝となった
慶長16年(1610)姫路藩主池田輝政の三男・池田忠雄に洲本藩6万石が与えられた際 洲本城を廃し
成ヶ島の成山に城を築造したが 幼少であったため親元の姫路を出ることはなく重臣が政務を執り行った
この時の成ヶ島はまだ陸続きであった 元和元年(1615)忠雄の兄である岡山藩主池田忠継の死去により
忠雄が跡を継いで岡山藩主となり洲本藩は廃され 以降淡路国は明治まで徳島藩蜂須賀家の支配となった
由良城には蜂須賀家筆頭家老の稲田氏が城代となり居し由良は城下町として栄えたが 交通の不便さから
寛永8年(1631)から寛永12年にかけ 由良から洲本へ城下町ごとの大移転を決行した
この大規模な移転は 俗に「由良引け」と称され 由良城が廃され洲本へ政治機構が移り
城下町はさびれ漁村となった一方 港としての機能は強化され参勤交代の寄港地として発展した
由良から洲本本町
由良
「ゆら」または同類語の「ゆり」という和語は 「ゆる・い」という形容詞で表現されるように
緩やかな傾斜地や平坦地を表す言葉で 各地に地形や地名として存在する 漢字表記は全て由良である
川・瀬戸・岬や半島などに加え 純然たる地名だけでもかなりの数に上るが
大半は海岸線に近い地で 砂丘や砂浜・砂州のある所で そのものを表す言葉と思われるが
四国讃岐平野の内陸部には由良山があり その麓を由良というように たおやかな山にも当てはめられる
同類語の「ゆり」では 秋田県内陸の由利本荘市に「西由利原」と「南由利原」という高原があり
遠く南の与論島には 大潮の日に「百合ヶ浜」という美しい海砂島が沖合に現れる
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国土地理院空中写真 1.新川口 2.旧湾口 3.今川口 4.成山城址
徳島藩時代の寛永から明和年間にかけ 北側の新川口と南側の今川口を開削し 同時に旧湾口が閉じられ
現在の成ヶ島の姿となった 江戸と大坂を結ぶ菱垣廻船の重要な寄港地にもなった
明治29年(1896)由良要塞の砲台や堡塁が 生石山や成ヶ島に築かれて司令部が由良の町に置かれた
大正13年(1924)要塞を廃止 昭和37年(1962)国民宿舎「成山荘」が開業 昭和61年(1986)閉鎖
明治32年(1899)由良と加太を結ぶ客船が就航 第二次大戦後は洲本深日航路が開設され
その内の一便が由良港経由で運行されていたが 明石海峡大橋開通後に廃止となった
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昭和50年(1975)3月14日の国土地理院空中写真
写真では 嘗ての由良城跡の国民宿舎や山麓にキャンプ場が広がる様子が解る
昭和41年(1966)8月14日から15日まで成ヶ島キャンプ場を訪れた 由良に来るのは実に53年ぶりである
漁港から島まで渡し船がある しかし天候が悪く上陸は見合わせた
生石公園と由良要塞・生石山堡塁跡
明治になって軍は 日本の防衛についてフランスの指導を仰いだ フランス参謀中佐マルクリーは
東京湾に次ぎ 紀淡海峡の重要性を強調した 軍はこの意見にもとづき京阪神地方を防備するために
紀淡海峡に近代要塞(由良要塞)を築くことになった 明治22年に生石山第三砲台の工事に着工し始め
生石山砲台・成山砲台・友ヶ島区・深山地区と着々と工事を進めていった
明治29年には 由良要塞重砲兵連隊(4個大隊12中隊)が編成され 由良要塞司令部も開設された
明治37年から38年の日露戦争を経て 明治39年に全ての砲台と施設が完成した
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航空機という概念が存在しなかった明治時代は 上陸前の攻撃の主力が戦艦による艦砲射撃であった為
海峡を閉鎖し大都市近辺への艦船侵入を防御することが第一であったため 各海峡や水道に要塞を設けた
由良要塞も対岸に位置する友ヶ島要塞と一対を成すものであった 大正時代になって飛行船や飛行機が
兵器として実用化されると これらの要塞は存在する意味もなくなり閉鎖されていった
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砲身はここで使われた物ではなさそう
砲身内部の線条
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生石山堡塁跡
生石山堡塁は 南及び西側の灘方面からの道路を見下ろす位置にあり 生石山南部の海岸から上陸する
敵などから生石山全体の砲台と軍事施設を守るために建設された 15cm臼砲4門の砲座があるが
普段は砲を設置せず有事の際に配備されるようになっていた 砲座は南から西を経て北までほぼ半円形に
配置されている 砲座の内側には 掩蔽部(えんぺいぶ=弾丸の倉庫等として使用)があり
現在は上部のみが見えている 砲座の外側には煉瓦造りの浅い塹壕が半円形に取り巻いており
下から登ってくる敵を小銃や機銃で射撃できるように設計されていた
堡塁は 砲台が主として敵の軍艦と戦うのに対して 砲台などの軍事施設を守るための施設である
このため 主として歩兵や砲兵が相手との接近戦のため 小口径の火砲や機銃・小銃が武器の中心となる
周囲に塹壕を掘りその内側は城壁のように高くし 遠くの敵は砲撃で 近接する敵は
機銃や小銃で上から射撃しやすくしていた 一番内側には弾薬庫や掩蔽部を建造していた
昔の山城のように 山頂や道路の要衝に築き そこで敵の侵入を食い止める任務を持っていた
由良要塞では 生石山堡塁の他に伊張山堡塁や赤松山堡塁があり 町の背後からの攻撃に備えていた
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生石公園紀望台からの眺め
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特定外来生物 鳴門沢菊(ナルトサワギク)の群生地
特定外来生物としての掲示はされているが 特段駆逐されているとは思えない状況である
第一砲台跡
生石山砲台の中でも最も南にあり 外洋から紀淡海峡に侵攻する敵艦を最初に迎撃できるように配置され
火砲は由良要塞最大の28cm榴弾砲で 2門ごとに厚い横檣(おうしょう・注)で区画され
計3区画で6門編成である 砲座には 直径5.3mの円形の榴弾砲の砲床が2門分ある
横檣の下には2連の掩蔽部(えんぺいぶ=作業場・居住区として使用)兼用の砲側庫(ほうそくこ)がある
コンクリートが普及する前の明治初半の工事であるため 塁道の石畳以外はすべてが煉瓦づくりである
砲座の前面には 基礎が煉瓦積みの厚い胸檣があり 敵の攻撃に備えていた
檣は帆船のマストを表す一文字で 横檣とは帆柱を横たえたような天頂の丸い隔壁土塁のことである
胸檣(きょうしょう)は 弾除けの正面土塁のことである
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榴弾砲は弾道が山形になるために 軍艦の上部を破壊するのを目的としていたため
前面に胸檣があってもそれを越えて射撃可能であり また高い場所から砲弾を落下させるほど威力が
増大したことから 可能な限り標高の高い場所に設置された 28cm榴弾砲は当時の国産では最大で
弾丸の重さが217kgもあり 最大の射程距離が7.8kmであった 要塞の堡塁攻略でも頭上からの攻撃が
有効であったため 日露戦争の旅順要塞の攻撃に使われ 勝利の一因となったことで有名になった
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生石鼻灯台(生石鼻南方照射燈) 昭和49年3月初点灯
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生石神社 祭神は天日鉾命(アメノヒボコ)
創建は垂仁天皇の代 亨保20年(1735)再興 災害により平成17年遷座
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生石海峡展望台から友ヶ島水道(紀淡海峡)幅約3.75km 友ヶ島(沖ノ島と地ノ島)
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遊歩道 雨は降ったり止んだり
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今川口の不動明王
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今川口の開削部と成ヶ島南端の高埼 送電線は高埼灯台への電源
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旧由良町役場近くの道路元標 洲本・志筑・福良・市村への里程を表記
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12時45分 雨が降る 早々に洲本へ向かう
洲本散策
元和元年(1615)藩主の池田忠雄が岡山藩へ転封され洲本藩が廃止された 以降淡路国は徳島藩領となり
徳島藩蜂須賀家の筆頭家老の稲田氏が由良城の城代となった 古代から天然の良港として栄えた由良は
なおも城下町として栄えたが 近世城下町の経営には平地が少なく陸上交通も不便であったことから
寛永8年(1631)から12年にかけ 由良から洲本へ 俗に由良引けと称する
城下町ごとの大移転が決行された 以後は洲本が淡路の中心として栄えることとなった
明治4年(1871)の廃藩置県を経て 明治9年(1876)淡路島全域が兵庫県に編入された
明治22年(1889)町村制の施行により 洲本川及び千種川右岸の城下18町で行政区の洲本町が発足した
その後 津名郡の物部村・潮村・千草村 及び三原郡の大野村・加茂村を順次編入し
昭和15年(1940)に洲本市となった その後も津名郡上灘村・由良町・安乎村・中川原村などを編入
平成18年(2006)の「平成の大合併」で津名郡五色町と合併し現在の洲本市となった
午後1時 イオン洲本店に車を駐めて 城下町本町あたりを散策開始
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洲本御山下画図(部分) 亨保以後
徳島大学附属図書館 https://www.lib.tokushima-u.ac.jp/~archive/t/t048.html 画面キャプチャー

かつての洲本湊は 洲本川河口に広がる砂州で外海と隔てられた内海にあるため砂の堆積が進み
水深が浅く船舶の大型化に対応できなくなった また市街地も度々洲本川の洪水に襲われようになり
明治35年(1902)から明治37年にかけて 洲本川の付替工事と河口の埋め立て工事が行われ
近代的な港湾となった 明治42年(1909)埋立地に淡路紡績を買収した鐘淵紡績の洲本工場を誘致した
洲本アルチザンスクエアSUMOTO ARTISAN SQUARE
カネボウ跡地の複合文化商業施設で洲本市の産業振興および文化・芸術を創造し展示紹介する施設である
アトリエ・ギャラリー・レストラン・カフェなどがテナントとして入る
隣接する建物には洲本市立洲本図書館が入り 中心的建物は近代化産業遺産に認定された明治42年建設の
赤煉瓦の旧鐘淵紡績洲本第二工場汽缶室である 第二工場は横河工務所の設計・竹中工務店の施工により
明治42年に竣工した 外壁はイギリス積煉瓦壁 屋根は越屋根 また巨大な煙突を特徴としていた
明治の近代化を象徴する旧鐘紡洲本工場の赤レンガ建築群の保存再生のため リノベーションされた
ARTISAN>とは 職人・職工・技工のことで まとめると創造を表す意を持つ
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淡路ごちそう館 御食国(みけつくに)
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洲本市本町 厳島神社(淡路島弁財天)
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洲本八狸
三熊山に住む芝居好きの柴右衛門 柴右衛門の女房・お増 柴右衛門の長男・柴助 柴右衛門の娘・お松
お酒が大好きな桝右衛門 洲本狸の長老・宅左衛門 夜回りの武左衛門 関所守の川太郎
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江戸時代の地名は通り町4丁目 広い道路は堀跡で橋が架けられ 橋の東詰に枡形と札辻御番所があった
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本町5丁目 コモーデ56商店街
江戸時代の洲本城下・町人町を東西に貫く「通町筋」 東側の一丁目から七丁目まである
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本町4丁目の路地 江戸時代の五丁目小路
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本町6丁目 コモーデ56商店街の休憩できる庭園スペース
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本町7丁目センター街 ここも江戸時代の洲本城下・町人町を東西に貫く「通町筋」
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栄町2丁目(上築屋敷町)百姓町横丁
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栄町2丁目 上築屋敷町通り
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江戸時代の商家
古い商家の面影をとどめる左海屋は 万治元年(1658)に創業 代々酒・醤油の醸造を家業としてきた
藩政時代は蜂須賀藩の御用商人として繁栄した 当家の初代堺屋吉右衛門(1617−1660)の父は
泉州堺の豪商であったが 当時の堺は戦乱のため居を洲本に求め 以後ここに移り住むこととなった
重厚な家の造りのなかに 城下町と共に栄えた商家の昔をしのぶことができる
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洲本市本町3丁目 江戸時代の通り町三丁目 左海屋醤油醸造本店
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左海屋醤油醸造本店
大浜公園
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浜の南側には登城口と御番所があり また南端には宮崎御台場があった
洲本城
室町末期に標高125mの三熊山に初めて城を築いたのは 阿波守護細川氏の守護代であった三好氏の家来
熊野水軍頭目の安宅治興であった 治興は由良古城を本城として島内8ヶ所に築城したとされる
そのひとつが洲本城であるが 当初は石垣を組むほどの城ではなかった
戦国時代に三好氏が主家細川氏に対し下剋上をはたらき織田信長の軍勢と対立したが
天正9年(1581)羽柴秀吉の淡路追討により安宅氏が滅亡し 洲本城も明渡しとなった
天正10年(1582)仙石秀久が洲本に移封され 天正13年に高松へ転封された後 代わって脇坂安治が
洲本城主となって本格的な城の改修に着手し 現在まで残る石垣組の城を築いた
慶長15年(1610) 池田忠雄が淡路国の領主となって由良の成山に新しく城を築き洲本城は廃された
慶長20年(1615) 池田忠雄が岡山に転封され 淡路国は徳島藩領となり蜂須賀家の筆頭家老・稲田氏が
城代として由良城主となったが 寛永12年(1635)の由良引けで洲本が淡路の中心となり明治に至る
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淡路国本城下之絵図 江戸中期−末期
国立国会図書館 JPG画像ファイル http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286547
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城部分の拡大
江戸期を通じ 山上の城には天守・櫓・御殿・塀などの建築物は無く 絵図面にも描かれていない
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洲本城八幡堀
江戸時代に奉行所や勘定場などの藩庁があった場所には 今でも検察庁・税務署・裁判所などがある
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三熊山公園からの展望
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慶長20年(1615)に江戸幕府が制定した一国一城令により 天守をはじめ建物の全てが取り壊された
一国一城令の「一国」とは 令制による「国」と「藩領」の両方の意味を持ち 徳島藩の場合は
その領地が阿波と淡路の二国に跨るが 一藩領一城の解釈により 洲本には城ではなく陣屋が設けられた
ただ 城の建物が全て取り除かれた時期が 由良築城の時か徳島藩領となった後なのか 定かではない
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本丸大石段
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昭和3年(1928)建築 RC造の模擬天守 模擬天守としては日本最古のもの
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天守台からの眺め
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天守台から 西の丸方向 手前は籾蔵跡
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本丸搦手虎口
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日月の池と日月の井戸(手前右側)
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腰曲輪の石垣 左上は馬屋(現在は駐車場)
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