2026.02.18 日田市大字小山 五条殿山(五條殿=ごじゅうどん)

五條殿(高さ833.9m) 山頂の「五條殿不動尊」御堂内掲示板

日田盆地は勿論、筑前、筑後、肥前の海も見渡される、頂上には不動尊を安置してあり。
昔は異国襲来に際しての烽火のあげ場として大切な所であったと言ふ。 山頂の不動尊は防火の神として
日田一円の尊信をあつめられている。 歴史を遡れば遠く。
延元元年(1336)菊池肥後守武政は後醍醐天皇にお願いして、第八皇子懐良親王を以て征西将軍鎮西王と仰ぎ
清原朝臣頼元を副将として金烏の御旗の下にお迎え申しあげた。 頼元はまづ、豊後玖珠郡に住して、
筑後国河﨑庄、矢部大渕などを領し後、肥後八代に転ぜられ、この時から頼元は清原姓を五條氏に改められた。
そして鎮西の忠臣菊池と共によく忠勤を抽んでおられた。 永正9年(1512)兵部少輔鑑量に至り、
筑後上妻郡矢部高尾の本城の外に豊後日田郡高瀬村荒平の西山に支城を築き、又舘宅をも営まれた。
その子左馬頭鑑定の代に、大友氏は菊池武則を肥前高来の城にて包囲、彼以下族将多く戦死して菊池の宗家滅亡する。
之に反して大友宗麟の勇武なるを見、天文元年(1539)独力を以て矢部の本城を守る必要を感じ、
高瀬の支城は臣下に委ね、父子21年間の名残を後に、先祖の地矢部へと引上げたのである。
矢部の五條男爵家こそはその末裔であり「古蹟五條塢(とりで)」と豊後国志に記されたるは高瀬の五條殿である。

星霜五百年吉野朝の永正より天文の乱世へかけて勇戦の跡を偲ぶものとては、勇士の墓石と稱えるものと、
世には珍しい大伊吹樹を残すのみである。土地の人は五條殿と稱え大切にしている。

享和時代の日田の国学者、森春樹翁は「庭幾代書ける花は限りあり」とて舘宅の風情ある鬼灯、桧扇、
水仙など草花を感吟された。 豊西説に残る五條井などはあとかたもなく英雄の墓には年々青い苔が生じている。
(注)現在「ごじゅうどん」と呼ばれているが五條殿が、なまったものと思われる。
昭和15年編高瀬村誌より抜粋(日田市博物館 舘長のご盡力による)
昭和54年10月 日田市本庄町大正会(大正生れの集いの会)

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2010.12.31 西有田から見る雪に覆われた山容
矢印・左側から  五條殿山 県道698号線・一石峠 有限会社本川牧場 喫茶軽食・ら・ふえるむ
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1.林道川原谷線起点 2.五條殿登山口 3.林道終点転回場 4.五條殿山々頂・五條殿不動尊
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標高グラフ
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日田バイパス浄水場前 左折
喫茶軽食 ら・ふえるむ 入口
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赤米田(とぼしだ)三差路 左折
市道合流
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五条殿コミュニティバス停
林道川原谷線起点 五條殿→
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14:00 標高635.6mの林道川原谷線の登山口 歩行高低差約200m
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頂上まで500mと近いが この後 急登の連続となる
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笹刈りされた登山(参詣)道
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踏み跡とリボンを目印に 明るい南斜面の雑木林をひたすら登る
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斜面を上りきったところで 道は東側へ曲がり急斜の尾根筋へ
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日田の山は岩が多い 火砕流の固まった凝灰岩
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山頂まで300mの標識を過ぎて 巻き道らしき踏み跡へ 直進は山頂への急坂
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14:22 結局本道に途中合流する
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ロープを頼りに急登 「頂上までもう少し ガンバレ!」と励ましをいただきました
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山頂直下 息切れして小休止
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14:27 山頂の不動堂
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山頂標識
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防火祈願所として崇敬され 堂内は自治会・消防団・商店・個人などの奉納札であふれる
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奉納・五條殿の縁起由緒書き
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不動明王の祠と不動明王像
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不動明王は 真言宗や天台宗などの根本仏である大日如来の化身として煩悩を断ち切り すべての人を救う
密教の最高位の明王である 憤怒の形相で右手に煩悩や迷いを断ち切る利剣 左手には悪を縛り
人々を正しい道へ救い上げる羂索を持つ 背負う炎は火生三昧を示し あらゆる障害や煩悩を焼き尽くす
背負う炎から 火を操る神・仏として俗人から崇拝され火伏祈願を行うようになった
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不動堂裏の三角点 三等三角点 標高:833.63m 点名:本迫
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山頂の展望は悪い 杉木立の間から日田市街を見下ろす
眼下手前に本川牧場 三隈川 隈町の旅館街 市役所などがある官庁街などを遠望
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14:40 下山開始
ロープを掴んで下る
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国調多角杭 国土地籍調査
森林組合 境界杭
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国調筆界 分筆境界標
林道に戻る
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15:00
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喫茶と軽食 ら・ふえるむ
フランス語で la ferme は 農場という意味
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◁ 「ら・ふえるむ」から見る日田市街パノラマ写真 ▷
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