2019.06.13 山口県美祢市秋芳町青景 秋吉台・地獄台(じごくだい) 標高 409m
特別天然記念物 国定公園 秋吉台
日本最大のカルスト台地で全てが美祢市に入る 北東方向に約16km・北西方向に約6kmの広大な地域で
台地上の総面積は54平方km 沖積面下の潜在部を含む石灰岩の分布はおよそ93平方kmに及ぶ
標高は180mから420m程度であるが石灰岩の大地塊から成り その厚さは最大1000mに達する
中央を流れる厚東川により東西の台地に分けられ 東台の主要な部分は現在でも山焼きが行われ草原として
維持されているが 西台の大半は樹林に覆われ集落や石灰岩の採掘所などがある
そのため一般的に秋芳洞のある東台を特別天然記念物及び国定公園の秋吉台と呼ぶ
地表には石灰岩柱(カレンフェルト=墓石地形)とドリーネと呼ばれる摺り鉢状の穴が無数に有り
地下には秋芳洞・大正洞・景清穴など400超の鍾乳洞が存在し 現在でも新しい鍾乳洞の発見が続いている
現在ではこれらの海山や珊瑚礁群を秋吉海山列と呼び 秋吉台・四国カルスト・帝釈台・阿哲台・平尾台など
西日本に広がるカルスト台地のもととなった 500から1000mの厚さに珊瑚の死骸が堆積した石灰層が
地球のプレート運動によって約4000kmの距離を移動し 約2億6千万年前日本海溝に埋もれ岩層を生成した
沈み込む過程でプレートから剥ぎ取られた石灰岩層はユーラシアプレートに付き湾曲と隆起運動の
地殻変動が加えられ 2億3千万年前から徐々に押し上げられたと考えられている
その後 約2000万年前ごろまで形成された準平原が 約500万年前には標高600m程度まで隆起した
370万年前頃標高300mまで川の侵食が進み台地が形成され 110万年前ドリーネや秋芳洞の形成が始まった
飛鳥時代に銅鉱床が発見され 後の長登銅山が拓かれた 特に奈良時代には東大寺大仏の鋳造に用いられ
長門国直営の鉱山であったが その後休山と再開を繰り返し 昭和35年(1960)に完全に水没し閉山した
江戸時代 既に見物されていた滝穴と呼ばれていた秋芳洞が 明治42年(1909)に観光用に開発された一方
秋吉台は明治18年から一部が陸軍演習場として使われ 第二次大戦後は米軍・後に自衛隊の演習地となった
秋芳洞・景清洞・大正洞・中尾洞に続いて 昭和3年(1928)に地獄台も天然記念物に指定され
昭和30年(1955)には 東台の大半が秋吉台と名付けられ国定公園に指定された
しかし同年に米軍から爆撃演習地への申し入れがあったがため 必然的に強力な反対運動が起こり
翌年に申し入れは撤回され 昭和32年(1957)に演習地は美東町に返還された
昭和36年(1961)東台の主部が天然記念物に 昭和39年(1964)には特別天然記念物に指定された
昭和45年(1970)秋吉台道路が開通 平成17年(2005)秋芳洞・景清穴・大正洞が秋吉台地下水系として
ラムサール条約の登録湿地となった 平成27年(2015)「Mine秋吉台」として日本ジオパークに選定された
スタート 9:00 ゴール 11:20
「カルスト」の語源は スロベニア共和国とイタリアの国境地帯にある地方名「クラス」にある
クラスの語源は 石と不毛の土壌を意味する Carusadus や Carsus に由来している
この地方には 堆積した石灰岩が水によって溶食された地形が広く見られ
スロベニア語で Kras イタリア語では Carso ドイツ語で Karst と呼ばれてきたが
1893年(明治26年)セルビアの地理学者 Jovan Cvijić(ヨヴァン・ツヴィイッチ)によるドイツ語論文
Das Karstphänomen によって ドイツ語の「カルスト」がヨーロッパで広く使われるようになり
世界的に定着したとされている
姫女菀(ヒメジョオン) 学名:Erigeron annuus キク科ムカシヨモギ属の越年草
北アメリカ原産 江戸時代末期 観賞用として日本に移入され 後に全国へ伝播した
漢方・生薬では 褐色になりかけた花穂を用いることから 夏枯草(カゴソウ)と呼ばれ
口内炎や扁桃炎の改善薬 腎炎や膀胱炎に対する利尿薬として内服使用する
アザミの名は「欺(あざむ)く・驚き呆れる・興醒めする」などの意味を持つ 古語の「あざむ」に由来し
美しい花だと思って手を出したら棘に刺され「欺かれた」ということから付けられたとする説がある
野薊は日本の固有種であるが アジア大陸に変種が分布している
姫赤立羽蝶は移動性が強く 南極大陸を除くすべての地域に生息する現在で最も分布が広い蝶の一種である
平家伝説
平家の一武将大田芳盛は壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ、大山(秋吉台)に移り住み、
次第に大山周辺を手中におさめ、広大な居館を構え名家として近郷を圧するに至りました。
しかし、三代目芳高のころ一族間に内紛が生じ一族は四散しました。ずっと後世(江戸時代)に、
大田氏の子孫が先祖をしのんで、かっての居館跡と思われるあたりに木を植えたものが、この長者ヶ森であると
言い伝えられています。林中には古井戸の跡があり、付近に女郎ヶ池と名づけられた泉水があります。
秋吉台唯一の原生林として存在するこの森は、
タブノキ・ヤブツバキ・カゴノキ・ ヤブニッケイ・シロダモなど60余種からなっています。
長者伝説
その昔、この地に長者が住んでいましたが、いつしか没落し、後の時代に長者の子孫が屋敷跡に植樹して
森になったと言い伝えられています。長者は平家の落人ともいわれていますが、附近の青景銀山・赤小野銀山、
長登銅山の繁栄で栄えた商人と考える説もあります。
どちらの説も「木を植えた」というくだりと「原生林である」との部分に矛盾を生じてしまう
良悟松
江戸時代における仙崎港、山口間の旧往還はこの秋吉台を通っていましたが、道に迷う人が多く出たようです。
享保9年(1724)藩主毛利吉元が山口糸米に法泉院を建て、長門大寧寺29世となった無得良悟禅師を請じた際、
良悟禅師は台上を通過して、その難路なることを知りました。
そこで門弟に222本の松を「道しるべ」として植えさせたという由緒が伝えられています。
台上に残っていた松は秋吉台八景の一つとされていましたが、近年、松くい虫等による被害により枯れたため、
新しい松が植えられています。
と 掲示板に書かれているが 植えた松も枯れてしまったのか見渡しても道端に松はない
史蹟名勝天然記念物保存法ニ依リショウワ昭和三年二月内務大臣指定
冠山と地獄台
左は秋吉台科学博物館 右に円形の秋吉台カルスト展望台とMine秋吉台ジオパークセンター Karstar
無数のカレン(石灰岩柱)におおわれた前方の台地は真名ヶ岳で、その地下に大正洞があります。
さらに北方約4000mの所に起伏しているカルスト台地は秋吉台の一部の緒出台で、
景清穴はその地下にあります。また左下方にみえるドリーネ(凹地)は帰り水といわれ、
地下水が地表に出て、また吸い込み穴(ポノール)に帰るのでこの名があります。
ここでは古い地層と新しい地層が逆転しており、秋吉台の成因を知るうえで重要な所です。
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