2013.05.13−14 奈良から大津・堅田・三方五湖

奈良から鳥取砂丘まで4泊5日 初めて車中泊での長旅を敢行した
5月13日の午前中に奈良を出発 石橋を巡って奈良県斑鳩町・三宅町杵・田原本町から
大阪府交野市・枚方市を回り 夕刻の午後5時頃に大津日吉神社を訪れた
imgimg
斑鳩町阿波 阿波神社 9:50
三宅町屏風 杵築神社(祇園大明神)
imgimg
杵築神社明神橋 10:15
架橋は江戸〜明治初期
imgimg
田原本町西代 八坂神社 10:30
本殿 江戸時代は牛頭天王社
imgimg
田原本町 弁天神社 11:00
田原本町佐味 天神社
img
佐味(さみ)の集落 11:30
佐味の歴史は古く約2千年前の弥生時代から人々が住んでいたとされ 古代には佐味氏が居住し
飛鳥〜奈良時代にかけて「佐味君」「佐味朝臣」の名が「続日本紀」に記されている
2013.05.13 滋賀県大津市坂本 日吉大社
かつては「日吉」を「ひえ」と読み 現在の「比叡山」を「日枝の山」と呼ぶことから名付けられたとされるが
第二次大戦後は「ひよし」を正式な読みとしている 全国約3800社の日吉・日枝・山王神社の総本宮である
明治以前の神仏習合では 山王権現と称され信仰を集め 八王子山頂の磐座が元々の御神体であったと思われる
現在は磐座を挟んで牛尾神社・三宮神社の奥宮があり 東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として
創建されたものと伝えられ 三宮神社の里宮は 東本宮境内にある樹下神社とされている
現在の社殿は二社の本宮と 五社の摂社から成り 日吉七社・山王七社と呼ばれる
西本宮:大己貴神(大宮)近江京遷都の翌668年 天智天皇により大津京鎮護のため大和国の大神神社の神を勧請
東本宮:大山咋神 比叡山を御神体とする古代神であろう 他に宇佐宮・白山宮がある
平安京遷都(794)後 この地が京の表鬼門に当たることから 鬼門除け・災難除けの社として崇敬された
最澄が比叡山上に延暦寺を建立し 天台宗・延暦寺の守護神として崇敬し 中国の天台宗本山・天台山国清寺で
祀られていた山王元弼真君にならい「山王権現」と称した 延暦寺においては 山王権現に対する信仰と
天台宗の教えを習合し「山王神道」を説き 室町時代に比叡の僧兵が強訴のために担ぎ出したみこしは
日吉大社のものであった 天台宗が全国に広がると日吉社も全国に勧請・創建された一方 織田信長の
比叡山焼き討ちの際には 関係の強かった日吉大社も灰燼に帰することとなった
信長の死後 豊臣秀吉が復興に尽力を注いだ  これは秀吉の幼名を日吉丸 またあだ名が猿といわれたことから
日吉社という名と 神の使いが猿である事などから 日吉社を自身にとって特別な神社と考えたためと言われる
よって現在見られる建造物の多くは 秀吉が権力を握った安土桃山時代以降に再建されたものである
img
東正面の鳥居 16:55
駐車場に入ったのが午後5時少し前で 入苑協賛料の300円は不要と言われ そのまま散策を始めた私達に
親切にも 駐車場係の人が走ってきてわざわざパンフレットを届けてくれた
おかげで思わず静かな時を過ごすことが出来た 人影の消えた境内はまだまだ明るい
日吉三橋 大宮橋
境内に架かる大宮橋・走井橋・二宮橋を総称して日吉三橋と呼び ともに大正6年(1917)8月に重要文化財に
指定された 日吉大社境内を流れる大宮川に架かる石造反橋の三橋は 豊臣秀吉が寄進したといわれ
創建は桃山時代(1573年〜1592年)と伝わる 創建当時は木造橋であったが 江戸時代の寛文9年(1669)に
石造橋に改築され現代に至る 大宮橋は西本宮に向かう 参道に架かり 川中に12本の円柱の橋脚をたて貫で繋ぎ
その上に三列の桁を置き 桁上に継ぎ材をならべて 石の橋板を渡している
橋板両端には格狭間(こうざま)を彫り抜いた高欄が取り付く
木造橋の形式をそのまま用いて造られた雄大な石橋で 三橋のうち最も手が込んでおり 代表的な石造桁橋である
石材:花崗岩 橋長:13.9m 橋幅:5.0m
img
img
img
img
img
img
樹下宮
ニ宮橋
東本宮(二宮)へ向かう参道の花崗岩製石造反橋 木造橋の形式によって造られたもので
川の中に十二本の円柱の橋脚をたて その上に三列の桁をおき 桁上に継ぎ材をならべ橋板を渡し
両側に高欄をつけている 上流にかかる大宮橋とほぼ同規模で 橋長:13.9m 橋幅:5.0mとなっているが
構造は大宮橋より簡単で 橋脚の貫もなく 高欄も板石と擬宝珠付親柱で構成されている
img
img
走井橋(はしりいばし)
大宮橋のすぐ下流にかかる お祓いをするための石造反橋である  日吉三橋の中では最も簡素な構造で
橋長:13.8m 橋幅:4.6mで 川中に方形柱の橋脚をたてるが
その数も6本と少なく また桁も省かれ橋脚の頭に継ぎ材をおいて 橋板をかけている
橋板に反りをつけることで 簡素ではあるが風雅な感じをよく出していると言えよう
走井橋の名は 橋の傍らに走井という清めの泉があることに由来する
img
img
img
西本宮楼門 時間外で門は閉じられている
img
白山宮
img
午後5時35分 夕暮れの通学路
imgimg
延暦寺の子院が並ぶ坂本の町
大将軍神社

2018.05.14 大津市堅田から鯖街道で若狭へ
琵琶湖・堅田浮御堂
前日は「道の駅・びわ湖米プラザ」で車中泊した  夜釣りの人達も多く訪れるところで
びわ湖大橋の袂にあるが割合静かであった しかしトイレなどの設備は古く その点は快適とは言えなかった
早朝・堅田の集落を散策し 名所の「浮御堂」は時間が早く入ることが出来なかった
img
「びわ湖米プラザ」の夜明け
img
浮御堂はフェンスの間から
img
img
堅田を散策
堅田は古から水運の拠点として繁栄した 中世には比叡山延暦寺の荘園が拓かれた
その後は 漁業権や水運を巡って延暦寺と下鴨社の勢力が拮抗する中で 「堅田衆」による自治組織が生まれた
戦国期から江戸時代を通じ自治権は踏襲されたが 元禄11年(1698)に堅田藩が成立し陣屋が設けられ
以降は堀田氏の支配下に置かれた 江戸時代後期には彦根藩に庇護された漁民や水運業の台頭によって
徐々に影響力をそがれることになった 明治以降堅田村から堅田町へと移行したが
昭和42年(1967)大津市に編入され 自治体としての堅田は消滅した
imgimg
伊豆神社
神楽殿
imgimg
神殿 主祭神は大山祇神
江戸時代の堅田
imgimg
臨済宗 太平山 祥瑞寺
応永13年(1406)華叟宗曇和尚により開かれた 応永22年(1415)に宗純(後の一休禅師)が入門を許され
応永27年(1420)まで修行を積み 華叟の印可状を辞退して宗純は再び旅立った
imgimg
滋賀県大津市真野 神田神社 創建は弘仁2年(811) 主祭神:真野氏の始祖・彦国葺命
現在も神仏習合を守り 境内に明治の廃仏毀釈を免れた不動明王をともに祀る
琵琶湖をあとに鯖街道(朽木街道)を北上 朽木宿から熊川宿へ 詳しくは街道を往く参照
朽木街道 朽木宿
朽木街道は古から若狭国小浜と京都を短絡する路で 別名・鯖街道とも呼ばれた
鎌倉時代から江戸時代に掛けてこの地を支配していたのは朽木氏で 江戸時代も大名として本陣を構えた
img
宿場の中心地の「市場」県道295号市場野田鴨線との三叉路があり ここが「追分」となる
img
朽木宿 枡形
熊川宿
熊川宿は若桜と近江の国境に近く 小浜と今津のほぼ中間に位置するため 江戸時代を通して若狭街道随一の
宿場町として繁栄した 近代は交通体系の変化に取り残されて街道は衰退し 現在の戸数は最盛期である
江戸中期の約半数となった そのため再開発されることなく古い町並みが残り
平成8年(1996)に重要伝統的建造物群保存地区として選定された
峠に近く山に挟まれた地に 北西方向に開かれた熊川宿は 冬の季節風によって度々大火に見舞われている
それが為に家屋敷に身代を掛けてはならないという法則があり 大きな家屋はあまり存在しないと言われる
img
img
img
img
若狭湾国定公園・三方五湖
滋賀県から福井県に入り三方五湖へ 淡水・汽水・海水を貯める五つの湖がつながり存在する
淡水の三方湖 汽水の水月湖(最大)・菅湖・久々子(くぐし)湖 海水の日向(ひるが)湖の五湖である
福井県若狭町海山 北庄・三方湖の船小屋
img
imgimg
imgimg
img
三方町営ホテル「水月花」で入浴 入湯料400円である 入浴後「レインボーライン」山頂公園展望台へ
福井県三方上中郡若狭町気山 海抜395mのレインボーライン梅丈岳山頂公園 
img
駐車場から山頂までは 有料のケーブルかリフトまたは無料の自力登山が選べる
img
若狭湾
img
左から 手前・日向湖 奥・久々子湖 奥・菅湖 手前・水月湖 右奥・三方湖
img
img
福井県小浜市田烏 田烏(たがらす)の棚田
img img
国道162号線バイパス高架橋から見る田烏の集落
img
img
img
img
午後4時35分
夕景の田烏をあとにして 小浜を通り過ぎ「道の駅・シーサイド高浜」に向かう この道の駅は温泉施設
「湯っぷる」が併設されている 大飯原発関連資金で建てられたもので 深夜には店舗とトイレが閉鎖され
駐車場の灯も消されてしまう 道の駅側には大型トラックが多く騒音が激しい 車中泊には「トイレ」が
少し遠くなるが「湯っぷる」側がよい 同じ道の駅内の施設なのだからトイレは24時間開けてくれればと思う
TOP