2013.08.17 山口県山口市阿知須 居蔵の町並み散歩 / 防府市散歩 / 塩田記念公園と三田尻

8月13日-17日 山口県東部 車中泊旅 山口-岩国-周防大島-柳井-上関-光-防府
5日目 山口市阿知須 道の駅 きららあじす - 九州へ戻る

山口市阿知須 居蔵の町並み散歩

嘗ての吉敷郡阿知須町 明治初年当時は 吉敷郡の山口町と33ヶ村全域が周防山口藩領であった
明治22年(1889)佐山・井関の2村で井関村が発足 明治32年(1899)大字佐山が分立して佐山村発足
昭和15年(1940)井関村が阿知須町となる 昭和19年(1944)戦時統一で山口市と合併
昭和22年(1947)大字阿知須が分立して新たな吉敷郡阿知須町が発足 平成17年(2005)山口市と再合併

阿知須浦地区は 江戸時代中期から明治初期まで 廻船業の港町として栄えた
明治以降に 防火のため居蔵造りの家屋が建てられ始め 現在でもその面影を残した白壁の街並みが残される

早朝 コンサート客が来る前に道の駅を出る 居蔵つくり通りパーキングに車を止めて阿知須浦を散策する

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5:30 山口きらら博記念公園・多目的ドームと井関川排水機場
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井関川河口域の右岸に広がる阿知須集落
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海運の要 運河
恵比須神社
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居蔵の町並み
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住宅街
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本龍寺の石段
本龍寺
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坂の上から見る家並み
お茶の坂
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居蔵造りの家
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西中呉服店
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「居蔵つくりの館」旧中川家の蔵
旧中川家の運河
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路地
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6:04 居蔵つくり通り
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「居蔵つくりの館」旧中川家の庭
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6:05 中村毛糸店
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多目的ドームと井関川
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鴨の親子
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沖見灯籠
地蔵堂
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エンコ石・馬石・お地蔵様
昔、今の船渡橋の近くに、百姓の五郎兵衛が住んでいた。五郎兵衛は馬をたいへん良く可愛がり、朝夕に
井関川でよく体を洗ってやったりしていた。井関川に架かる橋の下の堰近くに住んでいるカッパは、五郎兵衛が
馬をあまりにも良く可愛がるので、腹立たしくなって、いたずらをしてやろうと思った。五郎兵衛がいないのを
見計らって馬小屋に入り、馬の足をつかまえ川へ引きづり込もうとした。しかし、馬の方が力が強くあべこべに、
カッパが馬小屋へ引きづり込まれてしまった。そこへ五郎兵衛が帰ってきて、カッパの首ねっこを押さえつけ
懲らしめようとしたところ、カッパは泣き泣き「これから先3里以内では決して人や馬にいたずらはしません。
どうか勘弁をしてください」と謝ったので、五郎兵衛はカッパを放してやった。そのあとカッパは、
誓いの石を立てて川へ帰っていった。これが馬石とエンコ石で、馬を飼っている人の守り神となっている
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6:23 阿知須大橋 防府市まで戻る

防府市内散歩

県内最大の平野部の防府は 奈良時代に国府・国衙・国分寺が置かれた周防国の中心地である
鎌倉時代に大内一族によって周防国衙庁が支配下に置かれ 大内氏が周防の実質的な支配者となった
鎌倉時代末期 大内氏の庶家である右田氏が 右田ヶ岳山頂に右田ヶ岳城を築城し代々防府を支配した
戦国時代 大内氏が毛利氏に滅ぼされ 以降は明治まで毛利氏の所領となった

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防府市浜方 枡築らんかん橋 入浜塩田に架けられた石橋

防府市大字牟礼上坂本 華厳宗 華宮山 阿弥陀寺
文治3年(1187)東大寺重源により東大寺の周防別所として創建され 歴代の住職は周防国司の任にあたった
文明16年(1484)に焼失したが 大内氏の援助を受けて再興され かつては多くの塔頭を有していた
東大寺再建のための木材伐り出しに従事する人夫たちのため 重源が設けたと言われる石風呂が今も
文化財として残っている 後代に造られたもうひとつの石風呂は 毎月第1日曜日には石風呂が焚かれる
薪代として300円を支払い一般入山者でも入浴することができる
本尊は阿弥陀如来
昭和50年(1975)頃よりアジサイの植樹が始まり 現在では80種・約4000株のアジサイが植えられてる

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阿弥陀寺 仁王門 貞享2年(1865)再建
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阿弥陀寺境内
石風呂(蒸し風呂)毎月第一日曜に炊かれる
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阿弥陀寺 観音橋
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中門 明治4年(1871)に奈良東大寺の惣門を移設
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阿弥陀寺 本堂
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防府市多々良2丁目 多々良大仏堂

防府市松崎町 防府天満宮
菅原道真が死没した翌年の延喜2年(904)に創建され「日本初の天神様」と言われる
かつては「松崎天満宮」・「宮市天満宮」あるいは単に「天満宮」と称していたが 明治6年(1873)
近代社格制度のもとで県社に列格し松崎神社と改称 戦後の昭和28年(1953)に防府天満宮と再び改称した
道真が宮中での権力争いで失墜し 九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされており
京都の北野天満宮 福岡の太宰府天満宮と並んで 日本三大天神と言われている
防府市は この天満宮を中心に栄えてきた門前市(いち)が発祥の都市である 南に西国街道が通じている

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放生池と石橋
手水舎
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結婚式前撮り 神社でこの頃よく見かけます
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楼門
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拝殿
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神様の抱える願い事は 重い
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回廊西門

春風楼
10代藩主・毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち 文政5年(1822)より工事を開始
天保2年(1831)工事中止 その後 塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更し 明治6年(1873)に完工
楼の床下木組は 五重塔一層目軒下に使用予定の組物が使われ 文政年間着工時の面影を偲ぶに充分である

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春風楼の飾り絵馬 松の曲がり木に11頭の牛が浮き彫りされている
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情報発信基地「うめてらす」と「世界お笑い協会」笑いで世界平和を 崇高な目的は 吉本興業と関係なし

天満宮の門前町で 西海道(山陽道)と萩往還が交差する宿場町として栄えた宮市を散策

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掲示板から:歴史の道萩往還 総延長:約53km
萩往還は、江戸時代のはじめ萩城と毛利氏の水軍根拠地である御舟倉(防府市三田尻)を結ぶ、参勤交代の道として
整備された街道です。防府天満宮の大鳥居前は、山口県を南北に走る萩往還と東西に走る山陽道との分岐点です。
天満宮の鳥居前周辺には街道を使って運送される荷物の送り場や人・馬の継ぎ場などがありました、 萩往還は
鳥居前で南に折れ山陽道と別れますが、この地から西に今市町まで815mにわたって、二本の街道が重なっています。
この一帯は異なる方向からの人や物が大量に行き交う交通の要衝として重要な区間であり、江戸時代以降
近年に至るまで多くの店舗などが立ち並ぶ、防府の商業の中心地域でもありました。また、防府天満宮を
崇敬する人々も萩往還や鳥居前町の宮市を利用し遠方から参詣していました。萩往還は参勤交代の道である一方で、
様々な人々にも生活に必要不可欠な道として利用され、現在にその姿を残しています。

掲げられた古地図には宮市の中に東から 前小路・立市・中市・新町・今市の各町名が読み取れる
立市(竪市)は 萩往還沿いに発展した町である
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宮市と街道
宮市本陣足部家跡 2011年7月22日 焼失
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在りし日の宮市本陣足部家
宮市と街道
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テーラー伊藤
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11:00 天満宮を出発 剣神社の石橋を見て 三田尻塩田記念産業公園に向かう
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防府市高井 剣神社
延喜式神名帳(905年)に記載されている式内社 周防国十座の中で最も古い一座である
背後に見えるのは 標高 426mの右田ヶ岳 古くはこの山が御神体であったとも考えられる
祭神に素盞嗚尊・武甕槌命・日本武尊社を祭祀しており 武勇の守護神として戦勝祈願に 源義経・太閤秀吉が
願かけをした 大内氏・毛利氏も尊崇厚く庇護を重ねたが 明治維新後は郷社となり今日に至る

防府市大字浜方 三田尻塩田記念産業公園 パンフレットより
塩でささえた防長二国 260年にわたりわが国の塩業を支えた三田尻塩田
防府の沿片は、昔から塩焼きが盛んに行われ、中世には、著名な「鞠府塩 」の産地として知られていました。
近世初期までの塩づくりは、近郷の需要をみたす程度の小規模のものでしたが、元禄12年(1699)三田尻大開作が
築きたてられた。 その一部を割いて造成された「古浜」塩田に、入浜式塩田が導入されました。
その後、歴代藩主の保護育成により、「中浜」、「鶴浜」、「人浜]、「江泊浜」、「西浦前ヶ浜」が築かれ、
ここにおいて三田尻六ヶ所浜(三田尻塩田)ができあがりました。
三田尻浜の総面積は、約350町歩(350ha)、塩業者(浜人)201軒、塩の年産30~36万石に達し、
藩による「防長の三白」の一つとして奨励されたこともあいまって、防長二国の半ばを占めるにいたり、
播州赤穂とならぶわが国塩業の一大中心地となりました。
三田尻の塩は、主として山陰、北陸、東北地方に向けて、小田、中関から北前船で積み出されました。
寛政2年(1790)からは、蝦夷地(北海道)御用塩 として幕府に一万石を納めていました。
明治38年(1905)専売制度が施行されると、塩の主産地であった三田尻には、専売局製塩試験場が設置され、
わが国の製塩技術の発達に大きく寄与しました。戦後、画期的な流下式製塩法が普及するに及んで、
塩は生産過剰となり、昭和34年(1955)塩業整備臨時措置法が制定され、ここにおいて三田尻塩田は、
260年におよぶ輝かしい歴史の幕を閉じました。

瀬戸の海に浜子うたが響いた 入浜式の塩づくり
入浜式の塩浜は、潮の干満差を利用して海水を自動的に塩浜へ導入する方法で、揚浜式に比べて、労力も少なく、
大規模な生産を可能にしました。入浜式塩田として形が整えられるのは、江戸時代の初めで、瀬戸内海沿岸
10ヶ国を中心に築かれ、昭和30年(1955)ごろまで、日本独特の製塩法として盛んに行われました。
満潮のとき、溝に引き入れられた海水は、毛細管現象によって砂の表面にしみだし、太陽熱と風で水分が蒸発され、
塩分が砂に付着します。この砂を集めて沼井に入れ、上から海水や藻だれを掛けて鹹水をとっていました。
 塩業の経営単位は一軒前(一戸前)といい、約一町五反(1.5ha)の塩田を所有し、年間約2000石生産しました。
これにたずさわる労働者を浜子といい、庄屋、上脇、三番、炊き、釜焚の常雇と、寄せ女、沼井踏などの
臨時雇があり、10人前後の人々で生産していました。塩づくりには、浜子たちの長い間の経験から生まれた
鋭い勘とすぐれた技能が必要でした。塩田は、浜溝によって五区画に分かれ、一区は長さ約216m、
幅約13.5mの広さで、中央に18台の沼井が置かれていました。

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三田尻塩田記念産業公園管理棟
ポーランド岩塩
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塩田と沼井
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枡築らんかん橋 枡築とは区画のこと

大壺(だいつぼ)
大壺は、採鹹(濃い塩水をとる)作業により、一定の濃度に高まった鹹水を貯蔵する装置です。
一般に、地下の水槽は長さ約12m、幅約3.6m、深さ約90cmで赤土と年度で築かれていました。
その上には床をはり道具などを収納し、屋根は茅葺や瓦葺きで、周囲は土壁、あるいは板壁となっていました。
大壺は釜屋の近くに建てられ、竹管によって釜屋の「ひょうたん(桶)」に連結されています。
採鹹の量により助壺も築かれ製塩業にとって大切な施設でありました。

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大壺 鹹水(かんすい)の貯蔵庫
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大壺内部
三田尻式濃縮台 鹹水を流し濃度を高める

濃縮台
大壺や助壺などの屋根を改造し、入浜式塩田で採鹹した鹹水をさらに濃縮するために使用する装置です。
この台は地下の貯水槽と上部の流下盤からなり、流下盤にはゆるやかな傾斜をつけ、アスファルト盤に
小石を敷いています。鹹水を自然に流下させて、太陽熱や風により水分を蒸発させて濃度を高めていくのです。
電力の普及によりポンプを利用して鹹水を汲み上げることになり使用が広まりました。
一定の濃度に高まると竹管によって大壺に送られます。

釜屋
入浜塩田でとれた鹹水(濃い塩水)を煮つめて塩の結晶を得るところです。
三田尻の釜屋は普通、間口・奥行ともに5間(約9m)の方形の建物で、周囲は壁で切り窓が一、二ヵ所
設けられていました。屋根には中央と左右に「ほろ」と呼ぶ水蒸気の排出口がありました。
釜屋の中央には竈を築いて結晶釜を置き、煙道に温目釜を置いていました。釜ははじめ石釜を用いていましたが
しだいに鉄釜になりました。そのほかに、ひょうたん(桶)、ろ過槽、居出場(いだしば)がありました。
これは、昭和初期の釜屋を復元したものです。

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釜屋 鹹水を煮詰め塩の結晶を得る

釜屋煙突と煙道
これは、鹹水(濃い塩水)を煮詰めて製塩する釜屋の煙突で竈と煙道で連結していました。
煙突は、外部を石釜の石で270段ほど積み重ね、内部は自然石を加工したものを漆喰で固めて、
頂上部まで積み上げた二重構造です。煙道の通り奥壁には、灰を出す口が設けてあります。
煙突は高さ12.45m、頂部の周囲4.15m,内径は40~43cmの楕円形です。この煙突と煙道は、
昭和の初め頃まで越中屋の浜屋で使用していました。対岸の向島(むこうしま)で合同製塩が始まるまでは、
各塩戸に煙突が立っていました。この二本の煙突は往時の面影をしのばせる貴重な遺跡です。

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釜屋の石造煙突 登録夕景文化財
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煙道と煙突基部
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枡築らんかん橋
この橋は入浜塩田が築かれたとき、枡築間の通路として入川にかけられた石橋です。
日本の奇橋の一つに数えられる猿橋(山梨県)をモデルにしたとも言われています。
橋げたの中央部は橋の台より高くなって、満潮時でも橋下を石炭や塩などを運搬する「上荷船」が
航行できるように造られています。昔は、この石橋に欄干が取り付けられていたので「らんかん橋」と呼ばれ、
大浜塩田の入川だけでも九橋もかけられていたといいます。
この橋は、大浜ノ三の枡と四ノ枡の入川にかけられていたものを移築したものです。

防府市三田尻 萩往還三田尻起点あたりを散策
国指定史跡「萩往還」関連遺跡 三田尻御舟倉跡
関ケ原の戦(1600年)後、周防・長門の二か国に封じ込められた毛利輝元は、参勤交代や海戦、
平時の海運に備えた藩の水軍の本拠地である御舟倉を、現在の下松市に設けました。しかし、萩城との
交通の便や地形などを考慮し、慶長16年(1611)三田尻に移しました。城下町萩と瀬戸内海の港三田尻を結ぶ
「萩往還」の終点である三田尻御茶屋(英雲荘)からおよそ500メートルの位置にあります。
江戸時代中ごろまでの参勤交代はここから船出していたのです。
御舟倉には、藩主の御座船や軍船が常置されただけでなく、船の建造や修理が出来る設備も整えていました。
また、周辺には水軍の将校や船頭・船大工など関係者の住宅地の町割りが計画的になされ、
三田尻は藩主出入の表玄関にふさわしい軍港・商業港として発展していました。
しかし、元禄元年(1688)以降、御舟倉周辺の開作(干拓)が次々に完成すると、次第に陸地に囲まれ、
一本の水路が海に通じる唯一のものとなりました。明治維新後、御舟倉は廃止となり、現在では大部分が
埋め立てられ、通堀(かよいぼり)とこれに通じる水路の一部にその名残をとどめています。

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御舟倉跡
運河跡
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一馬本店
元は造り酒屋を生業としていたが 明治32年(1899)に毛利藩の備荒貯蓄米倉庫を購入し
味噌・醤油製造業をはじめた 現在も毛利藩の備荒貯蓄米倉庫は 一馬の工場として現役稼働中である
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国指定史跡 萩往還関連遺跡 三田尻御茶屋旧構内
三田尻御茶屋は、承応3年(1654)二代萩藩主毛利綱広によって建設された藩の公館で、藩主の参勤交代や
領内巡視の際、あるいは公式賓客の旅館にあてられたものです。現在まで数度の改修が行われ、規模や間取りは
様々な変遷をたどっていますが、県内に残る御茶屋として唯一、区画の明瞭なものです。

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山口県防府市華浦(かほ) 鞠生の松原
鞠生の松原は 高洲の松原と呼ばれていたが 秀吉の重臣・細川幽斎が 天正15年(1587)九州征伐の折
立ち寄ったこの松原で 「まりふの松原」と題して「白銀を敷きたらんようなる白砂に 丈高からぬ浦松の
老い屈まりたるが むらむら生きて・・」と景勝を和歌に詠んだ事からこの地名になったと伝えられる
ここは近世まで三田尻湊の地で 近くには長州藩御船蔵があり 萩往還の始点または終点でもあった
湊に隣接する松原の中に 海運の守護神である宗像女神の市杵嶋姫(いちきしまひめ)を祀った

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鞠生の松原 厳島神社鳥居
鞠生の松原

防府市大字田島字田島本町 塩竈厳島神社

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14:30 昔は砂浜に面して建立された浜の鳥居 今回の旅はここまで
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