2013.08.16 山口県柳井市柳井津 白壁の町並み散歩 / 上関町・平生町・光市室積

8月13日-17日 山口県東部 車中泊旅 山口-岩国-周防大島-柳井-上関-光-防府
4日目 柳井市 白壁の町並み観光駐車場 - 山口市阿知須 道の駅 きららあじす

柳井市柳井津 古市金屋 伝統的建造物群保存地区

柳井津は瀬戸内海の舟運を利した市場町として 柳井川と姫田川の間に挟まれた三角州に自然と形成され
中世から近世を通じて 瀬戸内海運を背景に商業都市として繁栄してきた 伝建保存地区は柳井津の中でも
最も古くに開かれた部分で 中世室町時代の地割を今に伝え 明和5年(1768)の大火後の江戸時代中期から
明治初期にかけて建設された本瓦葺で白い大壁造の伝統的建造物の町家が建ち並び保存状況も良好である

岩国藩の御納戸と称される商いの中心は 柳井木綿・油・和ろうそく・金物・醤油・塩など多岐にわたり
商圏は 領内から長門安芸や瀬戸内一円の各藩領から 東は上方 西は肥前の五島列島まで及んだ

夏の夜明けは早い 時計が午前6時を指す前に行動を開始 姫田川の川辺から国木田独歩旧宅まで散歩
嘗ては 運河の役割も担っていた姫田川も 三面コンクリート貼りの下水道と化している

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5:54 姫田川
普慶寺
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三宝荒神と地蔵
火伏せ地蔵から光台寺・独歩旧宅へ
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安政2年の四国への道標
国木田独歩の胸像
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独歩の旧宅
明治4年(1871)生まれの小説家 敬虔なクリスチャンでジャーナリスト・編集者でもあった
明治25年(1892)2月から 明治27年(1894)までの2年間を柳井で居住した
明治26年(1893)10月に 佐伯町の鶴谷学館に英語・数学の教師として21歳で柳井から赴任した
しかしクリスチャンであったことが災いして 田舎の人達と相容れず 翌年7月末には退職し柳井に戻る
小説家や雑誌編集者として活躍するのはその後である
明治41年6月23日 36歳の若さで神奈川県高座郡茅ケ崎村で結核によって病没
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6:08 光台寺から柳井市街を俯瞰
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光台寺楼門
姫田川と旅籠町
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再び火伏せ地蔵に戻る
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前日 入浴した柳井温泉 湯は天然温泉
柳井天満宮
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瑞相寺
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柳井津の町並み東端
誓光寺
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6:36 金魚飾りの東端

柳井市古市金屋伝統的建造物群保存地区(掲示板より)
昭和59年12月10日選定 面積:1.78ha
柳井津は瀬戸内海の舟運を利した市場町として形成されました。この町が中世に栄えていたことは、
慶長6年(1601)吉川広家が岩国の城下町建設に際して、柳井の有力商人を移住させて、柳井町を設けた
ことによってもわかります。柳井津町の敷地割は、他の町と同様、間□が狭く奥行きが深く、敷地境には
石積の水路が北から南へ設置され、道路を横断して直接柳井川へ排水されています。保存地区は、
柳井津でもっとも早くから開かれた旧町の西半分にあたる古市金屋地区で、東西方向に通じる本町通の
両側約200mの町並みと、ほぼ中央部から南側の柳井川に通じる掛屋(かけや)小路の家並みです。
本町通に面して立つ町家は、妻入・本瓦葺二階建て・漆喰塗の大壁造りを基本とし、平入の建物も混じりますが、
前面の庇の軒線はそろい町並みに統一感を与えています。また二階壁面に開く窓は、建ちの高い建物正面が
調和のとれた意匠となり、漆喰壁の白壁に深い陰影をつけて、大壁造りの重厚な町家をひきたてています。
この保存地区は、中世の商業都市の地割を伝えるだけでなく、近世後半に建築された本瓦葺・白い大壁造りの
町家群は、意匠的にすぐれて保存状態もよく、わが国にとって価値が高いものです。(文部省選定説明より抜粋)

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マンホールの蓋
消火栓の蓋
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6:40 本町通
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北の路地
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醸造蔵跡のガレージ
路地を入って「やない西蔵」
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向かい側「佐川醤油蔵」
珍しい醤油醸造瓶
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本町通りに戻る
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洋館風の二階を持つ白壁土蔵屋敷
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掲示板より:宝来橋(ほうらいばし)
柳井津と古開作をつなぐこの橋は、柳井川で一番歴史の古い橋で、延宝2年(1674)頃架けられ江戸時代は
柳井津経済の中心地として賑わいました。この橋は、明治14年(1881)に石橋になりますが、その親柱四本と
欄干の一部などが、市内各所で大切に保存されています。今は仮橋ですが、架け替えのときには
昔なつかしい面影を残した石橋にしたいものです。この付近の左岸の石垣は享和3年(1803)頃の築造で、
商品を舟から積み降ろすのに使った石段(がんき)と共に、昔がしのばれます。
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柳井川の沢ガニ
本町通り「かに注意」の標識
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柳井川河川敷歩道
むろやの園せせらぎ水路
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柳井市町並み資料館
旧周防銀行本店 平成12年12月20日 国登録有形文化財登録
明治40年(1907)に建築されたこの建物は、日本銀行技師の長野宇平治が古典主義様式を確立する以前の作品で、
実施設計は長野建築事務所員の佐藤節雄の手によるものです。県内で最も古い銀行建築で、外観はモルタル塗りで
洋風を呈し、正面玄関のアーチや薄く張り出したバルコニーは旧状をよく伝えています。
平成10年、株式会社山口銀行より寄贈を受け復元工事を行いました。
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7:00 駐車場に戻る

山口県熊毛郡上関町大字長島 上関町

室津半島基部となる田布施川下流域から赤子山北部地域 および柳井にかけての山陽本線が通る低地は
嘗ては古柳井水道と呼ばれる海であったとされ 赤子山を含む室津半島は本州と分離していた島であったとされる
古墳時代にあたる3世紀末から7世紀頃にかけて この水道周辺には「熊毛王国」とも言われる勢力が存在した
律令時代に熊毛郡に制定されたが 当時は田布施川による沖積が進み 水道は既にほぼ閉鎖されていたとされる

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柳井から県道72号柳井上関線で室津半島東岸を南下し 上関町を目指す

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7:40 柳井市南浜3丁目1-1 ルネサス柳井セミコンダクタ内 近代土木遺産の天津橋
文化7年(1810)岩国藩によって入浜式塩田が造成され 塩田の中央部に海水引込と上荷船の運行のため
南北に中川が開削された この橋は東西両浜を結ぶ橋として 慶応元年(1865)に架けられたものである
橋名は市内宮本の代田八幡宮のおみくじによって天津橋と名づけられた
昭和34年(1959)の塩業整備法によって柳井浜も廃止塩田となり埋立てられたため 石橋を移築保存した
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8:00 小瀬上関往還 伊保庄 賀茂神社 糺橋(ただすばし)
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8:10 山口県柳井市阿月宇積 与浦海岸
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濃霧のためか 沖合に停泊中の船

上関町
嘗て瀬戸内海道西部には 畿内に近い方から周防国に上関と中関 長門国に下関の検閲番所が設けられていた
中関には防府市の三田尻中関港 下関には下関市の下関港が充当される 上関は 平安時代から室町中期にかけて
竈戸関と呼ばれ 風待ち港としても機能していた 鎌倉時代には地頭が配属されて関所としての機能が強まり
上関海峡とともに海上交通の要衝となっていった 室町時代には大内氏の支配となったが 水軍勢力も活発であり
竈戸は倭寇の拠点としても海外に名を馳せていたが 同時代の15世紀半ば頃からは上関と呼ばれるようになった
後に村上氏が上関に築城 戦国時代には村上水軍と同盟を結ぶ毛利氏の重要な拠点のひとつとなった
江戸時代中期に北前船の風待ち港として全盛期を迎え 御茶屋・御番所・越荷会所など長州藩の出先機関が置かれ
岩国支藩を通じ支配が行われた 明治以降は 機帆船や蒸気船の登場によって寄港地としての役割は終焉を迎えた
明治初頭まで栄えた町と豪商家の名残が今も町中の風情に見られる

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8:50 昭和44年(1969)6月完成の上関大橋 左本土側の室津 右が長島の上関側
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上関・竜宮社と大橋
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海は綺麗だ
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「てんぷら」は美味しかった
消火栓の蓋
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上関港
山口県指定有形文北財 旧上関番所
指定年月日:平成12年3月31日  所在地:上関町大字長島629
旧番所は、海の主要な港に設けられた関所であり、通行人や船舶の取り締まりを行うとともに、
運上銀(藩に納める税)の徴収事務も行うところであった。当地の番所は初め四代に置かれていたが、
上関の港が中心となりその位置からみても連絡など不便であり、建物も破損が著しくなったため
宝永4年(1707)春、四代の番所は解除された。この直後の正徳元年(1711)秋、第八回朝鮮通信使来朝の
こともあり、この機会に四代番所から移転ということで造られた上関仮番所を赤間関の規模に準じて、
記録によると同年11月中旬着工、12月23日定番所として完成した。旧上関番所は、上関町東町の
旧秋月家の住宅を移転復元したもので、藩政時代の番所としては唯一の建物として貴重である。
山口県教育委員会・上関町教育委員会
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萩藩本陣 上関御茶屋跡
上関旧番所
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9:25 御茶屋跡から見る上関港

山口県熊毛郡平生町

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10:20 阿多田交流館(平生町観光パンフレットより)
太平洋戦争当時、阿多田半島には、人間魚雷「回天」の基地がありました。訓練や出撃によって若い命が
散っています。交流館はその悲劇の歴史を記録し、約300の遺品・資料と説明員による解説によって
平和の尊さを伝えています。
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曽根・百済部神社参道橋
野島・幸橋
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野島・法雲寺門前橋
宇佐木松尾・神人橋

12:20 近代土木遺産 堀川南蛮樋 竣工:大正元年(1912) 移設保存
大野毛利氏の初代就頼による万治元年(1658)の平生開作140町歩は 周防東部地区で最大の干拓事業であった
慶安4年(1651)から8年の歳月と 述べ約5万6千人の夫役を費やして約120町歩の耕地と20町歩の塩浜が完成した
潮止め堤防は 沖の干潟に点在する玖珂島や野島を結ぶ線上に設定され 排水用の人口河川として大井川・大内川
堀川・熊川などが開削された 天保年間の記録によれば樋門は42箇所を数えるが
オランダの技術を採用した樋門は土手町南蛮樋1ヶ所のみであった 大正時代に入り南蛮樋を模して設置したのが
堀川南蛮樋である 大正時代まで鉄製ハンドルは使用されず 樫の棒を心棒部分に差込み回転させていたとされる
このオランダの技術を採用した潮止め樋門は 昭和41年(1966)にハンドル式樋門が竣工し現役を引退し
その使命を終えるまで 約308年間の長きに渡り活躍してきたことになる
昭和62年(1987)に大内川防潮水門および排水機場の竣工により廃止取壊しとなった

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満潮時および干潮時には必ず樋門を開閉しなければならず 死活を制する樋守の仕事は自治体が個人に委託していた
昭和41年の機械式新樋門竣工までの300年余り 樋守の仕事は欠かすことなく連綿と続いた


山口県光市室積(光ふるさと郷土館パンフレットより)
室積の名が初めて文献に見えるのは12世紀半ば 古くから天然の良港として都人にも知られ
「海のぼさつ」として全国各地から広く信仰を集めてきた普賢寺への参詣客
北前船の寄港地として 内陸や大陸で交易に携わった商人たちで大いに賑わい
穏やかな御手洗湾を抱えた象鼻ヶ岬一帯の 風光明媚な景色の中に歴史を刻んできた町並は
港町として栄えたかつての姿をとどめ 周辺には国の天然記念物に指定された峨嵋山樹林をはじめ
御手洗湾や室積湾や室積海岸など 豊かな自然と美しい景色が残されている

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国土地理院空中写真 象鼻ヶ岬
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14:30 臨済宗 峨嵋山・普賢寺
平安時代 天台宗寺院として創建される 石清水社領の荘園となり 藤原一族の武ノ下氏が荘官となって
統治され藤原氏の庇護をうける 普賢寺は武ノ下氏の菩提寺となり 室町の後期大宗山中から市延に移築され
峨嵋山山麓の現在地になったと考えられる 天台宗から臨済宗への改宗は約800年前に禅が渡来し
栄西禅師により京都に建仁寺が創建された1202年の直後であったと伝えられる
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15:20 光ふるさと郷土館
江戸時代後期から昭和30年代まで「磯民」(後の磯屋)の屋号で醤油醸造業を営んでいた磯部家を修復した建物
原型は江戸末期の形で明治初期に改築された町屋造りの商家で 俗にいう「うなぎの寝床」と言われる間口が狭く
奥行きの長い商家独特の造りとなっている 北前船に関する資料や醤油の醸造道具などの展示を行う
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室積の町並み
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釣り人の多い石灯籠の常夜灯が建つ室積湊
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15:56 かんぽの宿「光」の高台から象鼻ヶ岬

かんぽの宿「光」で一風呂浴びて移動開始 途中「道の駅・あいお」に寄るが 設備も古く駐車場も狭いので
「きららあじす」まで足を伸ばすことにした 光市から「道の駅・きららあじす」まで76km 約90分の道程である
翌17日は 野外音楽フェスティバル「WILD BUNCH FEST. 2013」が 隣の山口きらら博記念公園で開催される
よって客も多いが交通整理のガードマンも出て 治安は確保されている 駐車場も広くゆったりとしている

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