2018.10.02 長崎散歩 夜のグラバー園

グラバー園は 安政6年(1859)の長崎開港後に来日したイギリス人商人グラバー・リンガー・オルトの
各旧邸があった敷地に 長崎市内に残っていた歴史的建造物を移築し 昭和49年(1974)9月4日に開園した
旧グラバー邸は 昭和33年(1958)から一般公開され 続くリンガー邸は昭和41年(1966)から公開
オルト邸は 昭和46年(1971)に長崎市が購入して グラバー邸地区観光整備第1期工事を完了した
昭和49年(1974)に 旧スチイル記念学校・旧ウォーカー邸・旧自由亭・旧三菱第2ドックハウスの4棟を
「長崎明治村」構想の南山手敷地内に移築復元し グラバー邸地区観光整備第2期工事が完了した
同時に現在ある「動く歩道」が完成 「仮称・長崎明治村」の正式名称を公募し「グラバー園」が選定された
旧グラバー住宅・旧リンガー住宅・旧オルト住宅の他 移築された建造物は 旧三菱第二ドッグハウス
旧長崎高等商学校表門衛所・旧長崎地方裁判所長官舎・旧ウォーカー住宅・旧スチイル記念学校・旧自由亭である
7月20日から10月9日(火)まで夏季特別夜間開園を実施
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日没 午後6時過ぎ
旧三菱第二ドッグハウス
明治29年(1896)の三菱造船所第二船渠建造に伴い 船渠の傍らに建築された明治初期の典型的な洋風建築
昭和47年(1972)に三菱造船より長崎市に寄贈を受けて現在地に移築復元された
ドックハウスとは 船が修理などのためにドックに停泊している間 乗組員たちが滞在するための施設である
構造形式:木造2階建 寄棟造 各階正面にベランダ 同形の部屋4室 中廊下式
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残念ながら噴水の水は流れていない
国の重要文化財 旧リンガー住宅
明治元年〜明治2年(1868〜1869)建築 構造形式:木骨石造・平屋建ベランダ付・寄棟造桟瓦葺
グラバー商会に勤め 後にホーム・リンガー商会を設立したイギリス人のフレデリック・リンガーの旧邸で
リンガー家が明治から昭和にかけて住んでいた住宅である わが国では例の少ない石造りの洋風住宅で
重厚な中にも優美さが漂っており 明治初期の代表的な居留地建築の姿が見られる
中国茶の熟練検査官だったリンガーは 慶応元年(1865)頃に長崎入りし 明治元年(1868)11月に
グラバー商会を退職してイギリス人のE・Z・ホームと共同で「ホーム・リンガー商会」を設立した
その後は製茶業を手始めに 製粉・石油備蓄・発電などの事業に幅広い活動を始め 貿易事業や捕鯨業及び
わが国初のトロール漁業・各国商社代理業務など幅広い事業にたずさわる傍ら 居留地の英字新聞を刊行したり
長崎市の上水道敷設などにも大いに尽力するなど長崎の殖産興業に力を注いだ その他
ベルギー・スウェーデン・ノルウェー・デンマークなどの名誉領事にも就任し 長崎の国際交流に貢献した
明治40年(1907)イングランドのノーリッジへ一時帰郷中に死去 住宅は 明治42年(1909)に
長崎に帰ってきた二男のシドニーに受け継がれ 昭和40年(1965)に長崎市に売却し英国で余生を送った
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国の重要文化財 旧オルト住宅
慶応元年(1865)大浦天主堂や旧グラバー住宅を手がけた小山秀之進によって建てられた
構造形式:木骨石造・平屋建・寄棟造桟瓦葺・正面車寄せ有り・噴水一基
オルト商会を設立し 製茶業を営んでいたイギリス人のウィリアム・ジョン・オルトの旧邸であるが
居住は僅か慶応元年〜明治元年(1865〜1868)の3年間である その後この邸宅は活水女学校の仮校舎や
米国領事館として使われ 明治26年(1903)からはリンガー家の所有となった
リンガーの長男フレデリック一家が住んでいたので リンガー(兄)邸ともいわれていた
昭和15年(1940)にフレデリックが死去したが 夫人のアルシディは太平洋戦争勃発の日まで動こうとせず
旧居留地の最後の外国人住民となった 彼女は拘留され 翌年 横浜から出航する交換船で本国に送還された
邸宅は戦時没収され 昭和18年(1943)に川南工業に売却されて従業員住宅として利用された
敗戦後の昭和20年(1945)9月に占領軍に宿舎として接収され 占領軍撤収後 再び土地と建物は川南工業に
返還されたが 昭和25年(1950)に会社が破産した 住宅は その後20年の間アパートとして使用され
昭和45年(1970)に長崎市が買収し 2年後には国の重要文化財に指定された
昭和52年(1977)から2年間に及ぶ修理を経て グラバー園で一般に公開された
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噴水は創建時のもの
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旧スチイル記念学校<Steele Memorial Academy>の校舎
明治20年(1887)9月 初代校長のアルバート・オルトマンス牧師の指導によって
東山手9番地の旧英国領事館跡に建てられた
構造形式:木造2階建 寄棟造 玄関正面上は3階建 中廊下式
アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスチイル博士が 18歳で亡くなった息子の
ウィリアム・ヘンリーを記念するために寄贈した資金により開設された 以来 私立東山学院から
私立中学東山学院 明治学院第二中学部東山学院と名称を変えつつ 昭和7年(1932)まで45年間
英語教育と特色ある学風を貫いた その後 長崎公教神学校 東陵中学校 海星学園校舎と変遷して
昭和47年(1972)に海星学園より保存のため長崎市が寄贈を受け 翌年現在地に移築し復元したものである
グラバー園への移築前は海星学園の寄宿舎として使用されていた
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旧長崎地方裁判所長官舎
明治16年(1883)3月に 長崎控訴裁判所の官舎として八百屋町1番地(上町4番21)に建てられた
長崎控訴裁判所は明治19年に長崎控訴院に改称 昭和20年(1945)控訴院は福岡に移転し 控訴院官舎から
長崎地方裁判所長の官舎となった 原爆で数多くの建物が失われたにもかかわらず 居留地外の市街地に
建てられた官庁の洋風建築として唯一残る建物で 明治の西欧化を反映する貴重な官庁建築の一つとして
昭和54年(1979)に現在地に移築復元した 現在はレトロ写真館として利用されている
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ビア・ガーデン
国の重要文化財 旧グラバー住宅
グラバー商会を設立した貿易商人の トーマス・ブレーク・グラバーが住んでいた住宅である
現存する日本最古の木造洋風建築で 数多い洋風建築の中でも独特のバンガロー風様式を持つ
文久3年(1863)大浦天主堂や旧オルト住宅を手がけた小山秀之進によって建てられた
構造形式:木造平屋建 ペンキ塗 寄棟造桟瓦葺 ベランダ付
安政6年(1859)江戸幕府は 長崎・横浜・函館の3港を万国に向け開港した 同時に諸外国の商人たちは
大浦居留地の周辺に住居を構え貿易商を営み始めた 英国スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーも
安政6年(1859)に 弱冠21歳で上海を経由して来日し 茶やその他の産物・武器・船舶などを取り扱う
貿易商人として仲間入りをした 幕末には勝海舟や坂本龍馬などと交流し 人材の育成にも力を注いだ
明治維新後は 産業立国へ舵を切った新政府に対し 造船・炭鉱・水産・鉄鋼・造幣・ビール産業等の
事業で協力をした 新橋・横浜間開通の7年も前の慶応元年(1865)に大浦海岸で蒸気機関車を試走させた
明治元年(1868)に小菅に近代式修舟場を設け 明治2年(1869)には高島炭坑を開設するなど
日本の近代化に大きく貢献した 家庭内においては日本人妻のツルと温かな家族をつくり
仲むつまじく日本で終生を過ごした 明治44年(1911)にトーマス・グラバーは73年の生涯を閉じた
その後も 息子である倉場富三郎とその妻ワカは 昭和14年(1939)に
三菱重工業(株)長崎造船所に売却するまで この家を自宅として利用していた
昭和32年(1957)三菱造船(株)から 長崎市に寄贈され 翌年から一般公開された
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グラバー邸の前から見る 三菱重工業長崎造船所と世界遺産のジャイアント・カンチレバークレーン
三菱の創始者・岩崎弥之助の兄 岩崎弥太郎はグラバーとの親交が深く 兄弥太郎亡きあとも弟の弥之助は
終生グラバーと交友を続け グラバーを三菱の相談役として招いた
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グラバー邸の前から東山手と風頭山
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女神大橋
平成17年(2005)架橋の斜張橋 全長:1289m 主塔高さ:170m 最大支間長:480m
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国宝 大浦天主堂
元治2年(1865)に 日仏修好通商条約に基づき フランス人の礼拝堂として建立された
現存するキリスト教建築物としては国内最古である
正式名は「日本二十六聖殉教者天守堂」その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で
殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている 建立当寺は「フランス寺」と呼ばれ
美しさと物珍しさから付近の住民たちが多数見物に訪れたと伝わる
建築施工は 旧オルト住宅やグラバー住宅を手がけた 天草御領島出身の小山秀之進が大工棟梁として施工し
3本の塔を持つゴシック風建築であったが 正面中央の壁面はバロック風 また 外壁は「なまこ壁」という
特殊な意匠であったが 明治8年(1875)から明治12年まで 大規模な増改築が行われ
外壁を煉瓦造に改め 完全にゴシック風建築になるなど 創建当時の外観から大きくその姿を変えた
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