肥前 長崎 港町

「九州」は 明治以降に確定された呼び名である 古くは筑紫島(つくしのしま)といわれ 日本最古の
歴史書である『古事記(712年)』によれば 日本は伊邪那岐・伊邪那美の「国生み神話」で生まれ
八つの島から成る「大八島国」(おおやしまのくに)とされた
淡道之穂之狭別島(淡路)・伊予之二名島(四国)・隠伎之三子島(隠岐)・筑紫島(九州)・伊伎島(壱岐)
津島(対馬)・佐度島(佐渡)・大倭豊秋津島(本州)の順で出現し
筑紫島には 白日別(筑紫)・豊日別(豊)・建日向日豊久士比泥別(肥)・建日別(熊曽)の4つの顔が
あると記されている 7世紀末頃には 筑紫・肥・豊の国が分割され 筑前・筑後・肥前・肥後・豊前・豊後の
北部六国と南部の日向国が制定された その後 文武天皇の大宝元年(701)に制定された大宝律令によって
筑紫島と壱岐国と対馬国は 五畿七道のうち西海道とされた 大宝2年(702)に日向国から薩摩国が分立し
和銅6年(713)には 日向国から大隅国が分立し九国となり江戸時代まで続いた

肥前

肥前の国衙(国府)は 佐賀郡久池井村に置かれたが その経済圏は東西の地域に大きく別れ
現在の長崎県と佐賀県に相当する 西部の中心は郡衙のあった彼杵郡の大村であった
奈良時代の彼杵郡は 現在の佐世保市一帯から南部大村湾の周辺地域を経て長崎半島に至る広い範囲とされ
郡内に彼杵郷・大村郷そして浮穴郷・周賀郷の4郷があった 佐世保から彼杵に至る地域を彼杵郷とし
  大村市一帯を大村郷とした 浮穴と周賀郷は不明であるが 周賀郷を野母崎付近とする説が有力視される
東松浦半島西部から北松浦半島の北西部を経て西彼杵半島・長崎半島に至る外海は
リアス式海岸が形成され有数の景勝地が続く 対馬・壱岐・五島を含む長崎県の海岸線の延べ距離数は
約4196kmもあり全国の12%に及び 広大な北海道に続く二番めの長さである しかし面積は僅か1%で
全国での順位は37位だが 外周100m以上の離島は 全国の14.2%・971島を数え一番の多島県でもある
古代より海上交通が発達し 平安時代から戦国時代にかけて水軍の松浦四十八党が活躍した地でもあった
その勢力地図は 上松浦郡(凡そ東松浦郡)を本拠とする上松浦党と 下松浦郡(凡そ西松浦郡)を本拠とする
下松浦党とに大きく分けられていたが 上松浦党の最大勢力であった波多氏が戦国時代に滅亡し上松浦党は壊滅
下松浦党に属す平戸松浦氏は戦国大名として頭角を表し
「関ヶ原の戦い」以降も旧領が安堵され 平戸藩6万3千石の外様大名として存続した

長崎

長崎の地名由来には諸説あり 中でも地形に由来する説として 諏訪神社の麓から出島に面する江戸町辺りまで
長く伸びる「みさき」に 源平・鎌倉時代 かつて桓武平家九州千葉氏本家が館を構え
「長き御崎」から長崎氏と名乗ったことに由来するとされる説がある また氏名による説では
この御崎に北条内管領家の鎌倉長崎氏から分家した九州長崎氏が館を構えたことに由来するという説も存在する

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国土地理院地図 最新標高図
1.出島町 2.館内町(唐人町) 3.長崎新地町中華街 4.梅園身代天満宮 5.江戸町(西御役所・県庁跡地)
6.長崎歴史文化博物館(長崎奉行所跡) 7.鎮西大社 諏訪神社 8.松森天満宮 9.東明山 興福寺
A.南山手 グラバー園 B.東山手 洋館群とオランダ坂
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江戸町-新大工町(国道54号線・シーボルト通り)標高断面図
1.出島 2.江戸町 3.諏訪神社前 4.西山川 5.新大工町
標高図で見る通り諏訪神社から出島手前まで伸びる台地(岬)が 長崎発祥の地で また地名の由来ともなった

ポルトガル船の来航

大航海時代の15世紀末に ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマがアフリカ大陸の南端・喜望峰を周り
インドへの航路を切り拓いた 16世紀前半にはインド洋に面する港町を攻撃して植民地とし貿易拠点を建設した
後にインド洋を横断しアジアへ到達したが 明国との貿易交渉に失敗し 明の倭寇船に同乗して密貿易を行った
天文12年(1543)ポルトガル人が乗船していた倭寇・王直の船が種子島に漂着して
日本との貿易を始める機会を得た 火縄鉄砲の伝来はこの時である
明国とは異なり 平戸の松浦氏・薩摩の島津氏・豊後の大内氏など九州諸侯は 王直やポルトガル商人を歓迎し
貿易を受け入れた 南蛮貿易の港は肥前国の平戸島や豊後国の府内から始まり 薩摩国の坊津も新たに加わった
16世紀前半に灰吹法精錬技術が伝来し日本の銀産出量が大幅に増えた 当時では産出量の少ない金ではなく
銀が世界的通貨となっており 明国では税制によって銀が多く求められたが 海禁政策によって日本との
貿易は禁じられ「倭銀」と呼ばれる銀を入手出来なかった そこでポルトガル商人は
南蛮貿易によって日本の銀を手に入れ この倭銀によって明国の生糸を買い付ける代行貿易で利を得た

長崎港

永禄4年(1561)平戸で起きた日本人商人との暴動(宮ノ前事件)によってポルトガル商人が島から追放された
永禄5年(1562)内海部の大村氏当主の大村純忠は 南蛮貿易に触手を伸ばしており
この事件を機会に横瀬浦を開港しポルトガル船を誘致した 純忠は洗礼を受け日本初のキリシタン大名となった
しかし 先代の大村純前が 有馬氏の圧迫を受けて有馬晴純の次男・純忠を養嗣子に迎え
実子の貴明を他家に養子として出したことで恨みをかい 永禄6年(1563年)大村家の嗣子の座を奪われた
後藤貴明らによって夜襲を受け 横瀬浦は焼き払われてしまった 永禄8年(1565)大村純忠の要請によって
隈氏が支配する福田浦(長崎市小浦町・大浜町)を横瀬浦に代えて開港した
元亀元年(1570)純忠はポルトガル船に提供するため長崎を開港した 当時は寒村にすぎなかった長崎が
以降良港として発展した ポルトガル船は 長崎港に集中来航するようになった しかし佐賀の龍造寺隆信が
天正元年(1573)に西肥前を 天正3年には東肥前を平定し 天正8年(1580)には大村純忠が降伏し
龍造寺氏の配下となったが 同年 純忠は長崎のみならず 茂木の地をもイエズス会に教会領として寄進した
天正15年(1587)に純忠は死去し 嫡男の大村喜前が後を継いだ 戦国時代末期の九州は
豊後の大友氏・肥前の龍造寺氏・薩摩の島津氏による抗争に明け暮れ不安定な状況が続いていた
世界的には カトリックのポルトガルやスペインの国力が急激的に衰退し
代わってプロテスタントのオランダやイギリスが台頭していった

戦国時代の終焉

日向の伊東氏・肥後の相良氏・阿蘇氏・肥前の有馬氏を配下に治めた島津氏は 天正12年(1584)に
龍造寺氏を破り龍造寺隆信は戦死 大友氏支配の筑後も収め 北部九州を支配する豊後の大友氏に圧迫を加えた
大友宗麟は関白となった秀吉に助力を求め 秀吉は朝廷権威をもって天正13年(1585)10月に
島津氏と大友氏に対し停戦命令を下した しかし翌年の1月 島津義久は秀吉への年賀の礼に及ばず
そのうえ秀吉を「成り上がり者」呼ばわりし関白として礼遇しない旨を表明した
同じく天正14年(1586)3月 秀吉が島津氏に対し占領地の過半を大友氏に返還する和平案を提示したが
これを拒否し大友氏に対する戦闘を再開 6月には筑前への侵攻を開始した
事ここに及び 秀吉は朝廷への逆徒として 島津征伐を西日本の大名諸侯に命じ 出兵の檄を飛ばした
当初は破竹の勢いであった島津軍も 高橋紹運親子が守る筑前岩屋城・宝満山城の攻略に苦戦し
立花山城に進軍したのは8月中旬であった 島津軍は 8月16日に出陣した毛利軍の九州上陸の一報を承け
立花山城攻略を断念し 8月24日には筑前進撃本隊の撤退を開始した 翌日には立花宗茂によって
  高鳥居城を奪取され 8月末までには毛利先遣軍と連携した立花宗茂によって岩屋城・宝満山城を奪還された
島津征伐軍は 9月から10月にかけ豊前の各城を帰服させた 一方の島津勢は戦況の好転を図るべく
10月22日に阿蘇越えで豊後を攻めたが 年末には膠着状態となって戦場で越年した
天正15年(1587)元旦 秀吉は年賀祝儀の席において九州侵攻の策を諸大名に伝え 出陣の命を下した
3月1日には自らも出陣し 秀吉自身は肥後方面を 弟の秀長には日向方面を指揮させた 総勢20万人の兵と
30万人分の兵粮米 馬2万匹分の飼料を1年分調達する圧倒的な人員と物量で九州へ進軍した
秀吉の九州入りを察知した島津氏は 薩摩・大隅・日向の守りに戦術を転換せざるを得ず
北部九州の支配地を放棄したため 島津に属していた城の多くをやすやすと陥落または寝返りさせ
4月下旬には薩摩入を果たした 4月21日ついに島津家当主の義久は降伏し秀長に和睦を申し入れた
義久は剃髪して名を「龍伯」と改め出家 天正15年5月8日 泰平寺本陣に滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏
秀吉は出家した義久の覚悟を見て赦免の措置をとった
永く続いた戦国の世も漸く終焉を迎え 6月7日筥崎八幡宮において秀吉による九州国分令が発せられた

九州平定後の肥前国

龍造寺氏・大村氏・松浦氏には現所領が 宗氏には対馬国領が引き続き安堵された さらに秀吉は北部九州に
大規模な蔵入地を設定した これは九州を「唐攻め」兵站基地とする意図がこめられていたとされる
廃墟と化した博多の町割りを定め 復興に着手して蔵入地とした また大村純忠のイエズス会への寄進により
実質的にポルトガル領地となっていた長崎港を視察 当地を直轄領としバテレン追放令を出し
キリスト教禁制を命じた 秀吉のこの策は長崎を蔵入地とし貿易による富の収奪という一面があり
キリスト教徒を迫害するものでもなく またポルトガルとの貿易を禁ずるほどのものでもなかった
秀吉は ポルトガルとの貿易のため時折宣教師を支援し 長崎ではイエズス会が布教を継続しており
江戸時代の初頭まで信者は増加していった 後に長崎は 家康も蔵入地(天領)として継承している

江戸時代の貿易と長崎

慶長元年(1596)秀吉は再び禁教令を出し 京都フランシスコ会の教徒26名を捕らえ長崎で処刑したが
なおも信徒に対する強制改宗などの政策は取られず 京都フランシスコ会以外に弾圧は加えられなかった
建前上 キリスト教は禁止としたが 秀吉のお膝元で行われる布教が目に余るとの処置であった
イエズス会は畿内に於ける活動を自粛していたが フランシスコ会の修道士はそれを無視していたためである
大航海時代のポルトガルとスペインは 新航路開拓と海外領土獲得の既得権益の独占を図るため
ローマ教皇を仲介にして 1494年にトルデシリャス条約 1529年にサラゴサ条約を締結していた
この条約で カトリックの宣教と教徒獲得が義務化されていたことが遠因であった
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで勝利した徳川家康が 慶長8年(1603)に朝廷より征夷大将軍に任じられ
江戸幕府が開かれた 幕府は当初 キリスト教に対してはこれまでの施策を踏襲し海外貿易も積極的に行われた
家康はスペインとの貿易にも積極的で 秀吉から弾圧を受けたフランシスコ会も
慶長8年に代表のルイス・ソテロが徳川家康や秀忠と面会・和議を結び東北地方への布教を行った
幕府は朱印状を発行して海外貿易船の管理を行い 朱印状は日本を拠点とすれば国籍に関係なく発行された
マカオを拠点とする商人の朱印状にはイエズス会が協力していた また家康は
京都の商人田中勝介をメキシコに派遣したり 京都・堺・長崎の商人に糸割符仲間を結成させ貿易を奨励した
慶長14年(1609)平戸にオランダ商館が開設された 家康がキリスト教に対し態度を硬化させたのは
慶長14年(1609)肥前日野江藩主有馬晴信の朱印船が マカオでポルトガル船のマードレ・デ・デウス号と
トラブルになり乗組員60名が殺された事件が発端となった 晴信は報復で長崎に入港していたデウス号を撃沈
この一連の出来事による長崎奉行長谷川藤広の誣告・本多正純の重臣岡本大八と有馬晴信との贈収賄事件が絡み
江戸幕府草創期の大疑獄事件となり ポルトガル船の来航が2年間停止した 大八と晴信はキリシタンであった
大八は朱印状偽造の罪により駿府城下を引回しのうえ安倍河原で火刑に処せられ 晴信には切腹が命じられたが
キリシタンであることから自害を拒み自ら家臣に斬首させた 一方の藤広には咎めは一切なかった
大八を処刑した慶長17年(1612)の同日 幕府直轄地でのキリスト教に対する禁教令を発布
キリシタン大名や武家には棄教を迫り改易など厳しい処分を下した 慶長18年幕府は禁教令を全国に拡大し
さらに「伴天連追放之文」を発布し 長崎と京都にあった教会は破壊され 修道士や主だったキリスト教徒や
キリシタン大名の高山右近までが国外追放された 慶長18年(1613)平戸にイギリス商館が開設された
元和2年(1616)明国・朝鮮を除く外国船の入港を長崎・平戸の2港に限定した
元和4年(1618)イギリスやオランダからの輸入鉛の購入は幕府のみとされた
元和5年(1619)京都のキリシタン52名処刑から始まり 元和8年に長崎55名 元和9年に江戸55名
寛永元年(1624)東北108名 平戸38名の公開処刑など 元和年間のキリシタン弾圧が行われた
幕府による鎖国化が進み 元和9年(1623)イギリスは貿易不振により平戸の商館を閉鎖撤退
寛永元年(1624)スペイン船の来航を禁止 同国との国交を断絶した
寛永8年(1631)渡航する朱印船に朱印状以外に老中の奉書を必要とした 寛永10年に奉書船以外の渡航禁止
また5年以上海外居留する日本人の帰国を禁止 寛永11年に長崎出島の造成を開始した
寛永12年(1635)中国を含む外国船の入港を長崎に限定 南蛮(東南アジア)への日本人渡航及び帰国を禁止
翌年に出島竣工 貿易に関与しないポルトガル人と妻子287名をマカオへ追放しポルトガル人を出島に移した

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国立国会図書館 寛政8年(1796)『長崎図』
1.出島町阿蘭陀人屋舗 2.唐人屋舗 3.新地 唐人荷物蔵 4.梅園天神 5.西御役所
6.立山御役所(長崎奉行所本庁) 7.正一位諏訪社 御朱印地 8.松森天神社 9.興福寺
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19世紀銅板エッチング画 長崎湾の出島の景色

寛永14年-寛永15年(1638)島原の乱が勃発し 以降キリシタン弾圧を一層強めた
寛永16年(1639)ポルトガル船の入港を禁止 ポルトガル人を追放
寛永18年(1641)オランダ商館及びオランダ人を平戸から出島に移す
寛永20年(1643)オランダ船の全国入港勝手とする家康の朱印状を破棄 オランダ船も長崎一港のみとする
延宝元年(1673)イギリス船リターン号が貿易を求めて長崎に来航 幕府は上陸を拒否
以降オランダ以外のアメリカを含むヨーロッパ船の来航が100年程度途絶えた
嘉永6年(1853)ペリーが率いるアメリカ海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本の浦賀沖に来航
幕府はペリーの上陸を認める 同年9月に大型船建造の禁止策を緩和 10月には海外渡航が解禁された
嘉永7年(1854)3月 日米和親条約締結により鎖国は解かれ開国 下田と箱館を開港
8月にはイギリスと日英和親条約 12月にはロシア帝国と日露和親条約がそれぞれ矢継ぎ早に締結された
安政2年(1856)12月 オランダとも改めて日蘭和親条約を締結
翌安政3年には出島開放を発令 オランダ人の長崎市街への出入りを許可した
  安政5年(1858)大老・井伊直弼により日米修好通商条約を締結
イギリス・フランス・オランダ・ロシアと同様の条約を締結した 後に「安政の5カ国条約」と言われる
安政6年に下田閉鎖 箱館・横浜・長崎・新潟・神戸を開港 出島のオランダ商館も閉鎖され鎖国政策も終焉した
安政の5カ国条約により外国人居留地が定められ居留地の十里四方への外出は自由とされたが
日本人商人との貿易は居留地内に限定された
安政7年(1860)オランダ商館に発注した蒸気船の咸臨丸が 勝海舟らを乗せて横浜から太平洋を渡り渡米した

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