2010.02.24 長崎県長崎市 長崎の町散歩
長崎の地名由来には諸説あり 中でも地形に由来する説として 諏訪神社の麓から出島に面する江戸町辺りまで
長く伸びる「みさき」に 源平・鎌倉時代 かつて桓武平家九州千葉氏本家が館を構え
「長き御崎」から長崎氏と名乗ったことに由来するとされる説がある また氏名による説では
この御崎に北条内管領家の鎌倉長崎氏から分家した九州長崎氏が館を構えたことに由来するという説も存在する
室町時代後期の天文12年(1543)薩摩国・種子島に中国船が漂着し 同乗するポルトガル人が初めて日本に上陸し
鉄砲が伝来する契機となった 後の天文19年(1550)平戸にポルトガル船が交易を求めて入港し
九州諸侯による南蛮貿易が始まった 永禄4年(1561)平戸で起きた日本人商人との暴動によってポルトガル商人が
平戸島から追放されたことから 大村純忠によって横瀬浦が開かれポルトガル商人を招致した
永禄6年(1563)大村家嗣子の座を奪われた後藤貴明らによって夜襲を受け 横瀬浦は焼き払われてしまった
永禄8年(1565)大村純忠の要請によって 隈氏が支配する外海に面した福田浦(長崎市福田町・小浦町)を開港
元亀元年(1570)には ポルトガル船に提供するため長崎を開港した
当時 漁業で生業をたてる一寒村にすぎなかった長崎が 以降は良港として発展することとなった
路面電車の一日乗車券で朝から夜まで市内をぐるぐる散歩
かつての長崎丸山は 江戸の吉原・京の島原と並ぶ三大花街と謳われるほどであった 検番とは芸妓衆の稽古や
座敷への手配・統括・玉代の勘定などを行う事務方で 料理屋・置屋・待合の三業組合で運営されている
元禄13年(1700)安田治右衛門によって創建された 身代り天神の由来は 元禄6年のある夜 町役人であった
治右衛門が賊に襲われ左脇腹を槍で刺され自邸に担ぎ込まれた しかし不思議な事にどこにも傷がなく
代わりに自宅に祀る天神像が左脇腹から血を流して倒れていた
事件後 天神様が夢枕に立ち天満宮を祀るように告げたと伝えられている
昭和57年(1982)の長崎大水害により一部崩壊したが 昭和60年(1985)1月に復元された
享和3年(1803)長崎奉行所により再建-昭和57年(1982)長崎大水害により流失 昭和61年(1986)再再建
眼鏡橋
中島川の第10橋 寛永11年(1634)興福寺の2代目住職 黙子如定(もくすにょじょう)が架けたと云われるが
寛文3年(1663)の大火で記録が消失したため確証はない しかし日本最古のアーチ型石橋で
正保4年(1647)6月の洪水で損傷し 翌慶安元年(1648)平戸好夢により修復された 川面に映った姿から
「めがね橋」と呼ばれていたが 明治15年(1882)正式に眼鏡橋と命名された 昭和57年(1982)の
長崎大水害により一部崩壊 昭和58年(1983)10月に復元されました 修復時に江戸期のものとみられる
階段跡が出土したため 階段が付けられた形で歩行者専用橋として復元 一部崩壊流出して後下流で見つかった
石材については 復元に使われた 昭和35年に国の重要文化財に指定されている
橋長 22m 幅員 3.65m 高さ 5.46m
桃渓橋は 延宝7年(1679)に僧・卜意(ぼくい=本名:永島仁左衛門)の募財により架橋された石造アーチ橋
傍らにある地蔵堂を卜意地蔵といい この橋は卜意橋とも呼ばれている
長崎大学経済学部の前身である長崎高等商業学校の建設に伴い 西山川を横断して道路と校舎敷地を
接続すべく 明治36年(1903)11月30日に架設された 石造橋から鉄筋コンクリート橋への移行期に当たり
明治39年(1906)に架橋された上流の西山橋は 鉄筋コンクリート製の橋となった
延宝8年(1680)創業の千秋亭を 明治20年(1887)に内田トミ初代女将が経営を引き継ぎ
初代内閣総理大臣の伊藤博文が命名した なお千秋亭の全身となる吉田屋は明暦頃(1655)の創業と伝わる
安土桃山時代の天正8年(1580)に大村純忠が 長崎および茂木をイエズス会に教会領として寄進したことで
長崎にあった諏訪・森崎・住吉の三社が廃された 後の寛永2年(1625)に青木賢清によって 西山郷円山の
現在地に再興され長崎の産土神としたのが始まりで 賢清が初代宮司を努めた
主祭神は諏訪大神 総本宮の諏訪大社に対し西大社とも呼ばれている
寛永2年(1625)今博多町で創建され 明暦2年(1656)に現在地に遷座された 社名である松森の由来は
この地に3本の松があり三つの木で森の字になることから命名されたと言われている

文政9年(1826)1月9日の早朝 和蘭商館長を筆頭に医師のシーボルト等ー行約60名が江戸へ向け出島を出発した
この天満宮(当時は威福寺と称していた)で安全祈願と別れの盃を酌み交わした この時の旅程は往復106日
将軍拝謁を含む江戸滞在37日 合計143日であった 商館長(カピタン)の江戸参府では
当天満宮での別れの小宴が慣習となっていた また長崎奉行など 幕府役人の往来時には屡々立寄ったりもした
当時 この天満宮辺りが長崎街道の出発地であり 西側の桜馬場薬局の角に「長崎街道ここに始まる」の碑がある
この石橋は承応3年(1654)唐通事・林守でん=帰化名・林仁兵衛によって眼鏡橋から数えて6番目に架設された
眼鏡橋と同じ明朝式のアーチ型であるが 架設後崩流の記録はない かつてはこの橋から続く坂道は石段で
「なかご(中河)の段々」と呼ばれていたが 橋側面から見れば約1m程野石でかさ上げされ
欄干の丸親柱が埋もれているのが分る これは明治初期に車の交通に対応するため敷石が改良されたものである
大正7年(1918)下流に新しく中川橋が架かったため 古橋と改称された

市指定史跡 一の瀬口
一の瀬口は 一の瀬橋を中心とする旧日見街道の一部をいう 一の瀬橋は承応2年(1653)
唐大通事陳道隆(日本名頴川藤左衛門)が私財を投じて架設したアーチ構造の石橋である
橋名にローマ字で<ICHINOSEBASHI>とあるが これは明治20年(1887)ごろ刻まれたものである
昔は この付近は樹林が茂り 夏は螢の名所であり 料亭があったので いつのころからか螢茶屋と呼ばれた
長崎を旅立つ人と 見送りの人たちとが別れを惜しんで酒を酌み交わしたのも この地であるが
当時をしのぶ遺構は 今では この一の瀬橋と付近の街道の一部だけとなっている
長崎市教育委員会(平成16年10月設置)
史跡―の瀬口蛍茶屋跡
文化文政(1804~1829)の頃 甲斐田市左衛門によって この地に旅人歓送迎の茶屋が始められた
幕末から明治初期 二代目政吉の頃が最盛期となった 蛍の名所だったので 蛍茶屋と呼ばれた
長崎から矢上への街道筋 一の瀬橋のたもとにあった

若宮稲荷は 延宝元年(1673)に出来大工町乙名の町役人・若杉喜三太が自邸に祀っていた稲荷大神を伊良林の
地に移し社殿を創建したのが始まりとされ 以降多くの人から崇敬された
元文元年(1736)長崎奉行の細井因幡守安明が 新たに参道を開通させ神殿を改築した
以後は歴代長崎奉行に崇敬保護され鎮守の神として親しまれている

元禄4年(1691)9月 土神の石殿を建立したいという唐船の船頭たちの願いが許され創立された
天明4年(1784)の火事で焼失したが 唐三か寺により復旧した その後も数度にわたり華僑たちによって改修
保存に努めてきましたが 昭和25年(1950)に老朽のため解体され石殿だけが残っていた
現在の建物は昭和52年(1977)に長崎市が復元工事を行ったものである

唐人屋敷は 周囲を堀と塀で囲まれ その外側には竹垣が配置され外の世界とは遮断されていた
この水路は 唐人屋敷の南側の堀の跡で 板石張りは明治時代に施工されたもの


この橋と葡萄棚は庭園整備の一環として 昭和40年に設置された 寛政10年(1798)の大火前後に描かれた
出島の絵図を参考につくられている







