2018.10.02 長崎散歩道 興福寺から崇福寺・オランダ坂

午前7時45分に出発 合瀬耳納峠・八女・大川を経て鹿島から国道444号線で大村へでる最短コースを取る
福岡県道52号八女香春線の合瀬耳納トンネルが工事中なのだが 約一年遅れで今秋の開通予定である
大川経由で武雄や長崎方面に行くことが便利になると期待はするが 未だに開通予定日が発表されず
浮羽側の 取付道路の工期が11月末となっており 秋の開通予定が12月の冬に成りかねない
昼過ぎ イオン大村店のリンガーハットで「牡蠣ちゃんぽん」を食べる「美味い」!
午後2時30分・パーク&ライド指定の長崎市営松山パーキングに到着 AM7:30〜PM10:00まで610円
長崎電鉄・平和公園駅から路面電車で市民会館電停まで移動し興福寺へと坂を登る
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江戸中期から続く長崎で最も古い商町 中通り商店街<ALLCORE> 旧紺屋町側 手前は麹屋町
長崎街道から出島や南山手のグラバー邸に至る長崎のメインストリート(長崎龍馬の道)
日本最古の黄檗宗寺院 東明山 興福寺(興福禅寺)
朱塗りの山門があるため「あか寺」とも呼ばれる 中国江西省の劉覚が元和6年(1620)頃長崎に渡来し
僧となり真圓と称してこの地に小庵を営んだ 寛永元年(1624)に 南京地方出身の華僑達が寺の創立を図り
真圓を開基として媽祖堂と仏殿を建立した 故に浙江・江蘇省出身の唐人信徒が多く 南京寺とも称せられた
キリシタン禁令下 仏教徒である証として 次々と長崎に華僑の手によって唐寺が建てられた時代でもあった
寛永9年(1632)黙子如定が渡来して二代目住持となり 承応3年(1654年)には 隠元隆gが興福寺に入った

長崎に渡来した隠元は 翌年には崇福寺へと移ったが 万治3年(1660)幕府より京の宇治大和田に寺地を賜り
翌年には新寺を建立して 故郷である中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた
隠元は臨済宗の僧であったが 日本の臨済宗が中国古来の臨済宗との間に乖離が見られるとの理由で
禅宗の新派として「黄檗宗」を名乗り開祖となったため 隠元と縁のある当寺も黄檗宗の寺となった
隠元和尚が来日した際 丸い食卓を持ち込み身分の隔てなく食事を楽しんだといわれる他
食材では 名前を冠した「いんげん豆」を始め もやし・スイカ・れんこん・落花生・ナス・金針菜
孟宗竹などを日本に伝え 長崎では早くから自家製もやしが流行したと伝わっている
また 精進料理の胡麻和え・ごま豆腐・けんちん汁なども伝え一般に拡がったされる 書や絵画にも秀で
象嵌・篆刻・印鑑・明朝体文字など 建築様式と合わせて 様々な黄檗文化が現代にも生かされている
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興福寺山門
二間三戸八脚の入母屋造単層屋根・総朱丹塗りの豪壮雄大な山門は長崎で第一の大きさを誇る
承応3年(1654)隠元禅師の長崎滞在中に諸国より寄せられた多大な寄進で創建されたが
9年後の長崎大火で山門もろとも一山全焼した 現在の山門は 元禄3年(1690)に 日本人工匠の手で
再建されたもので和風様式を基調としている 原爆で大破したがその後復元した
山門上部の扁額「初登宝地」「東明山」は隠元禅師の御書によるものである
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山門表の扁額 隠元が命名した山号「東明山」
山門内部の扁額 隠元禅師の書「初登宝地」
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山門を入って左にある歌碑だが全く紹介されていない 上にのる獅子らしきものも何かは不明
国指定重要文化財 大雄宝殿(本堂)
寛永9年(1632)黙子如定が渡来して大雄宝殿を建立した 大火で焼失後 元禄2年(1689)に再建されたが
慶応元年(1865)の暴風で大破したため 明治16年(1883) 再建されて現在に至る 中国人工匠の手による
純粋な中国様式の建築で建てられ 巧緻な彫刻・華麗な彩色や氷裂式組子の丸窓が珍しい
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氷裂式組子の丸窓
国指定重要文化財の大雄宝殿は明末期の純粋な中国建築様式で その大きな特徴は黄壁天井とよばれる
蛇腹型アーチ天井と 正面両脇にある氷裂式組子の丸窓である
氷裂式組子は まさに氷を砕いたような文様で大変珍しいものであった
組子とは 釘を一切使わずに木を組み付ける工芸技術で 細くひき割った木に溝・穴・ホゾ加工を施し
カンナやノコギリ・ノミ等で微調整しながら1本1本を組付けしていく繊細なものである 創建当時は組子の
裏側全面が硝子張りになっていて 陽の光に輝いて まるでステンドグラス のような美しさだったと伝わる
しかし 第二次世界大戦の原爆投下で興福寺の本堂である大雄宝殿も爆風で大きく傾いたが
幸いに裏の石垣に支えられて倒壊は免れたものの 正面の格子戸や丸窓も全て吹き飛んでしまった
戦後45年かかって現存の建物は修復がなされたが 残念ながら組子裏面の硝子を施すことは出来ず
板張りの状態で修繕を終えている 明末期を代表する建築様式である氷裂式組子は
現在の中国でもこれだけ大きく功緻なものはもはや残っていないといわれている
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鐘鼓楼
寛文3年(1663)の長崎市中の大火で興福寺も類焼し 境内の建物もことごとく焼失したが
その後 元禄4年(1691)に再建された また享保15年(1730)に修理が行われたことを示す棟札があり
この時の大工の棟梁であっ た高木弥源太・同久治平の名が書かれている 二階建ての建物で 上階は楚鐘を吊り
太鼓を置き 下階は禅堂に使用された 楚鐘は太平洋戦争中に金属供出されたままで残っていない
屋根の隅鬼瓦は珍しいもので 境内の外に向いた北面は鬼が 内に向いた南面は大黒天像が設置されている
元禄の再建時に工夫されたものと考えられ「福は内、鬼は外」の意味である
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魚板(鱖魚)
僧達に飯時を告げるために叩く魚の形をした板で 遠くまで響くように内部をくり抜き響孔が施されている
魚の形をしているのは 魚は日夜を問わず目を閉じないことから
寝る間を惜しんで修行に精進しなさいという意味である 口にくわえた丸いものは煩悩を表し
魚の腹をたたくことで煩悩を吐き出させるという意味合いが有るとされる この魚板は全国の禅寺にあるが
唯一残る明朝魚板(魚鼓)の傑作である 魚板(魚鼓)は 読経をするときに打ち鳴らす「木魚」の原型で
中国から渡来した隠元隆gが本格的に使用を始めた 黄檗宗では木魚をはじめ多くの楽器を使用する
黄檗梵唄が有名である 魚板のモデルとなった鱖魚は 中国大陸東部沿岸部に広く分布する淡水魚で
内陸部には生息しない 興福寺には珍しくオス・メス一対の魚板が掛けられている
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オスの鱖魚
メスの鱖魚

媽姐堂(まそどう)
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馬祖は道教の海上守護神で 天后聖母・天妃・老嬢・菩薩その他の呼び名があり 特に華南地方で信仰が厚い
唐船は船毎に媽祖像を祀り 長崎停泊中は船から降ろして陸揚げし唐寺の媽祖堂に安置した
寛文3年(1663)の大火により消失したが 堂内正面に寛文10年(1670)の「海天司福主」の扁額があり
大火後7年目には媽祖堂が再建されていたと思われる しかし 現存する媽祖堂が大火後の復興で
再建されたものかは諸説があって定かでない 現存の建物は黄檗天井の前廊・化粧屋根裏風天井で
内外は総朱丹塗であるなど 中国の建築様式が見られるが 細部の造りは基本的に和式である
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三江会所門
三江(江南・浙江・江西)出身の中国人にとって 興福寺は創建以来の菩提寺であり、同郷会館でもあった
明治元年(1868)唐人屋敷の処分が始まり 同年 彼らは興福寺境内に三江出身者の霊を祀る三江祠堂を建て
明治13年には 新たに集会場として三江会所を寺内に設置した しかし原爆により大破し門だけが遺存する
中央に門扉 左右は物置の長屋門式建物で門扉を中心に左右に丸窓を配し簡素清明な意匠ではあるが
肘木・虹梁・彫刻など細部手法は純中国式で 大雄宝殿と同じ中国工匠の手になるものと思われる
敷居は高く これは 豚などが門内に入らないよう工夫した「豚返し」と呼ぶ中国の様式である
寺町通りを崇福寺へ
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諏訪神社祭礼・おくんち提灯
寺町通り 延命寺の大クス
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慶長13年(1608)創建 曹洞宗 海雲山 晧台寺
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幣振坂(へいふりざか)
晧台寺と大音寺の間の坂道で 幣振坂の名は 寛永11年(1634)諏訪神社の一ノ鳥居に使用する石材を
麓に降ろす際 宰領が御幣を振って人夫達を鼓舞したことに由来すると言われている この坂は
さだまさし原作・大沢たかお・石田ゆり子の主演で 2004年に長崎ロケが おこなわれた映画「解夏」の
冒頭やラストシーンに出てくる 「解夏」とは 仏教僧が夏に行う安居という修行が終わる時を指す
長崎では この坂の他にも延命寺と長照寺の間や 東本願寺横の坂も幣振坂と呼ばれている
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寺町から鍛冶屋町に入り 寺町通りから鍛冶屋市通りとなる 崇福寺へは左に曲がり坂を登る
黄檗宗 聖壽山 崇福寺
長崎の唐寺は キリシタン弾圧が厳しかった時代の寛永年間のキリスト教禁令下において 華僑たちが
仏教徒であることを示すために 出身地毎に寺を建立したともいわれるが その特色は航海安全の祈願や
先祖の供養を主としており 道教の海上守護神である媽祖を祀る「媽祖堂」をもつことであった
崇福寺は 福建省出身の華僑の人々が 福州から超然(ちょうねん)禅師を招き創建した黄檗宗寺院である
超然は福建省福州府の生まれで 寛永6年(1629)に63歳で来日を果たした
寛永9年(1632)に崇福寺の造営が認可され 寛永12年(1635)に崇福寺が落成して初代住持に就任した
興福寺が大火により焼失したため 中国様式の寺院としては日本最古のものとなっている
門信徒に 福建省の出身者が多いため福州寺や支那寺と称せられた 承応3年(1654)に隠元禅師が渡来して
「興福寺」の住職となり 翌・明暦元年(1655)には崇福寺に移り二ヶ月滞在して法を説いた
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重要文化財 三門(龍宮門) 嘉永2年(1849)棟梁大串五郎平が中国人の指導を受けて建立
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脇門扉の獅子型取手
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三門の屋根
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正保元年(1644)建立 第一峰門(別名:海天門・唐門・二の門・中門・赤門)
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大釜と梵鐘
崇福寺の大釜は 延宝8年(1680)の飢饉の際 救済のため天和2年(1682)2月に大釜を造り始め
4月中旬に完成し 鍛治屋町から運び崇福寺本堂前のかまどに乗せた  口径6尺5寸(約 1.97m)
深さ6尺(約 1.82m)で 『聖寿山崇福禅寺施巨鋼天和武年壬戌仲春望後日』の銘がある
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寛文6年(1666)建立 媽祖門 奥にあるのが媽祖堂
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左・享保16年(1731)建立 護法堂(天王殿、関帝堂、韋駄殿、観音堂)
右・正保3年(1646)建立 大雄宝殿 当初は単層であったが 延宝−天和年間に上層が増築された
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寛政6年(1794)の再建 媽祖堂
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長崎市内に残る最古の建物 大雄宝殿
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大雄宝殿の本尊 釈迦如来坐像
思案橋から丸山町・船大工町・籠町・みさき道を経てオランダ坂へ
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国道324号線 浜町アーケード(浜んまち商店街) 午前10時から翌日の午前5時まで歩行者専用道
全国で二箇所しかない国道のアーケード街 もう一箇所は 国道170号線・東大阪市の瓢箪山商店街
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丸山(遊郭街)に行くか戻るか「思案橋」 長崎電気軌道の路面電車と車が仲良く並ぶ町
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鎖国体制の始まる寛永16年以前の寛永元年(1624)創業のカステラ本家・福砂屋
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福砂屋
丸山町交番
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丸山花街の門と番屋があった場所 RC造石張り 平成2年(1990)3月竣工のレトロな建物
丸山花街
日本三大花街のひとつと言われた丸山は、寛永19年(1642)市中に散在していた遊女屋を官命により
一箇所に集めたのが始まりです。丸山は江戸時代、海外貿易の発展にとともに栄華を極め、上方などから
多くの貿易商や知名士が集まり、元禄時代に全盛期を迎えました。丸山の遊女の数は、元禄5年(1692)には
1443人を数えるほどでした。また、江戸時代後期には、日本を代表する漢学者で歴史家の頼山陽や
幕末の志士・坂本龍馬等も訪れています。手彩色の絵葉書は明治後期から大正期のもので、
史跡料亭「花月」付近から長崎検番方面を眺望したものです。
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長崎さるく掲示板から転載 絵葉書・長崎丸山町遊郭(長崎大学附属図書館所蔵)
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国指定史跡 花月
寛永19年(1642)官許の遊里として丸山町・寄合町が形成され 引田屋もこの頃の創立といわれる
花月は 文政元年(1818)頃にこの引田屋の庭園内につくられた茶屋の名称で 長崎奉行の巡視の際には
休憩所となった 明治12年(1879)の丸山大火で花月は類焼したが 引田屋の建物の一部に移され
庭園とともに 花月の名称は料亭「花月」として継承されている
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梅香崎神社鳥居 廃寺大徳寺境内に残る天満宮
寺もないのに大徳寺と 長崎の七不思議の一つ
みさき道(御崎道)十人町から南へ7里(28km)
野母崎観音寺への参詣街道として整備された
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オランダ坂の東山手から南山手を望む 右の煉瓦塀は活水女子大学・東山手キャンパス
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居留地境界石
「煉瓦塀」と「石畳のオランダ坂」 そして金髪の欧米人
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東山手 オランダ坂通り
東山手洋風住宅群
明治20年代後半に建築されたこれらの木造洋館群は 狭小な宅地に密集した形で7棟の建物が建ち
内外とも意匠・仕上げが質素で 構造的に各棟がほぼ同一なことから 社宅または賃貸住宅として
計画的に建設されたのではないかと推定されている建物群である
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入母屋 和瓦葺きに暖炉のチムニー 瓦葺き白壁塀 和洋折衷の洋館
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東山手十二番館
東山手の12番地は、安政6年(1859)に造成された旧外国人居留地の一画で、幕末から明治初期にかけては
アメリカ人のウォルシュ氏が借地していた。この地に立つ東山手十二番館は、
明治元年(1868)の建設と推定される初期洋風建築の代表例で、東山手地区では現存最古の遺構である。
直前まではプロシア領事館であったが、新築後はロシア領事館となっていたことが判明している。その後、
アメリカ領事館、宣教師の住宅などとして使用され、昭和16年(1941)に学校法人活水学院に譲渡され、
昭和51年(1976)に建物が長崎市に寄贈された。
正面側の3面に及ぶ幅広のベランダをもつ主屋と、背後の附属屋および別棟からなる堂々たる構えで、
中廊下型の平面構成も当時の領事館建築の特徴をよく示す。外壁の下見板張りは国内で最古の事例でもある。
全面吹放ちとした床下の造りやベランダ列柱の上部に付く円弧形の装飾をもつ板状の持送りは珍しい。
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旧宣教師館 奥はラッセル館
旧職員住宅

オランダ坂
かつて長崎では 幕末の開国以降も西洋人を「おらんださん」と呼び 山手の旧居留地にある全ての坂を
一般的にオランダ坂と呼んでいた 現在では 誠孝院前から活水学院下のオランダ坂通り及び活水坂を指す
特に活水東山手キャンパス裏門(東門)から 東山手甲十三番館前を通る道にオランダ坂の碑がある
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東山手甲十三番館とオランダ坂
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オランダ坂の石碑と東山手甲十三番館入り口
オランダ坂通り かなりの急坂である
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明治初頭 貿易商のニールズ・ルンドバーグが 岩山を火薬による発破で開削した道で
高度成長期に拡張され オランダ坂通りとなった
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新地の中華街まで歩いて戻り夕食を取る
江戸時代に長崎は 対中貿易港として開かれ最盛時には約1万人の福建省出身者を中心とした華僑が
長崎市中に住居していた 当時の長崎の人口は約7万人で いかに華僑が多かったかが解る
その後 華僑の住居は丘陵地の唐人屋敷に限定されたが 元禄11年(1698)の大火で五島町や大黒町にあった
中国船の荷蔵が焼失したため 唐人屋敷前の海を埋め立て倉庫街を造成し 後にその区域を新地と呼んだ
安政6年(1859)の長崎開港後 華僑たちは唐人屋敷を出て新地に移住し中華街を形成した
夕食後 新地中華街電停から大浦天主堂電停まで電車で移動し 夜のグラバー園に行く
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