2011.02.10 奈良上街道 天理市蔵之庄町〜桜井市三輪

天理市
上街道は 竜田道(北横大路)を横切り 天理市街地へと入る
中世から市として栄えた丹波市に天理教が起こったのは 江戸幕末期の天保9年(1838)である
その後大字三島地区には教会の本部「お地場」が設けられて急速に発展し
人口は江戸期から明治中期までは 一寒村として500人にも満たなかったのが
およそ大正初期には2千数百人となり 信者の拡大と共に宗教都市へと変貌していく
天理市は昭和29年(1954)に 山辺郡丹波市町・二階堂村・朝和村・福住村・添上郡櫟本町
磯城郡柳本町の三町三村の合併により誕生した都市である
新しい市名は 天理教の本部が丹波市町にあったことにちなんで「天理市」が選ばれたが
天理教団は郡名である「山辺市」を推薦したといわれる
天理市蔵之庄町〜伊勢初瀬街道まで
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道標・和珥坂本伝承地道追分
和爾下神社へ寄り道

和珥坂下伝承の石碑
日本書記や古事記に 和爾坂下(わにのさかもと)または和爾坂と呼ぶ地名伝承がある
日本書紀には「和珥の坂下に巨勢祝という者有り」とあり 神武天皇が大和を平定した際に
逆賊として倒された巨勢祝(こせのほうり)が 和爾坂本にいたことを示している
古事記では 和爾氏の娘・宮主矢河枝姫との出会いが記載されていて
和爾氏の宴席で披露した天皇の長歌の中に「櫟井(いちい)の和爾坂」とある
櫟井は堤在の櫟本のことで 和爾坂という地名がこの地域に含まれることが分かる
和珥(ワニ)氏とは 5〜6世紀にかけて奈良盆地北部に勢力を持った古代日本の中央豪族で
和珥は他に丸邇・和邇・丸とも書かれている 添上郡和邇(和爾町・櫟本町付近)を本拠地とし
添上・添下の両郡へ勢力を拡大し 6世紀頃に本拠地を春日山麓に移し春日和珥臣と呼ばれた
祖先を 古事記や日本書紀にある神代の孝昭天皇の長男・天足彦国押人命とする
主な同族に 春日氏・大宅氏・小野氏・粟田氏・柿本氏・和仁氏がある
ともあれ余りにも古い話なので定かなことではない
和爾下神社
現在 和爾下神社と呼ばれる社は 大正11年(1922)の測図によると在原神社となっている
古代上ッ道は神社の約500m東を通り 北横大路は 斑鳩から東へ上ッ道まで延びる
和爾下神社の西南方向 天理ICの側に在原神社があるが 在原業平の邸宅跡で業平没後在原寺となり
明治になって本堂が 大和郡山市若槻の西融寺に移され 跡地を在原神社とし
阿保親王と在原業平を祀っている 和爾下神社は 和爾下神社古墳の後円部に鎮座し
通称「上治道天皇社」と言われ 北横大路を西へ2km下った大和郡山市横田にある
和爾下神社 「下治道社」と一対で考えられている
現祭神は素盞嗚尊・大己貴命・稻田姫命であるが 明治以前の記録では 祭神は天足彦国押人命
彦姥津命・彦国葺命となっている 境内案内によると神護景雲3年(769)東大寺領の櫟左へ
水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿って移し 道も新しく真直ぐに作られたので(北横大路)
この森を治直の森といい宮を治道社といった 上代の古墳の上に祀られた神社で
櫟本の地方にいた一族の氏神であったが 今は櫟本町の鎮守の神社である
この治道社の(春道社とも書く)祭神は 素盞鳴尊の本地が牛頭天王であるので天王社ともいわれる
また ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた 明治元年の神仏分離令により
柿本寺は廃寺となり 延喜式内の和爾下神社がこれに当ると考証され 社名を和爾下神社と改めた
本殿は国の重要文化財で桃山時代の建築 境内前公園に歌塚の碑が建つ柿本人麻呂の墓がある
柿本氏も和爾氏の枝氏である その北側に柿本寺跡が残っている
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楢神社 銅の鳥居
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道標が建つ 上街道と北横大路の交差辻 左右方向が北横大路
北の横大路と業平道
奈良時代になると難波京と平城京を結ぶ街道として南と北に横大路が整備された
南の大路を横大路といい 飛鳥時代から続く竹之内街道を上ッ道まで整備し伊勢本街道へ繋いだ
一方法隆寺のある斑鳩から東へ一直線に横断する大路を北の横大路と呼び
下ッ道(朱雀大路)・中ッ道(東四坊大路)を横断し上ッ道に櫟本で合流する 斑鳩へは難波宮から
様々なルートがあり 特に十三峠(平群町)を越える道を 伝説的に「業平道」と呼び慣わしてきた
平安時代の歌人・在原業平が 櫟本から北の横大路を通り 竜田から平群を通り十三峠を越えて
枚岡神社に参詣したおり 峠下の神立茶屋辻に あった茶屋の「梅野」という娘に恋をして
八百夜も通いつめたといわれ「業平の高安通い」として伝えられている
この言い伝えにより 業平が通ったとされる現在の天理から斑鳩・竜田・平群を経て
十三峠を越えて八尾に至る道筋を「業平道」と言った
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1.枚岡神社 2.暗峠 3.十三峠 4.斑鳩法隆寺 5.国道25号線 6.北の横大路
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上街道と北の横大路交差辻
竜田道・伊勢路道標
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奈良時代の水路と和爾下神社へ至る北の横大路
北の横大路を西へ辿ると斑鳩・龍田大社
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櫟本町の並み 石の防火用天水桶
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大阪府警察奈良櫟本分署跡
慶応4年(1868)新政府は 幕府直轄地を没収し「府藩県三治制」発布により 3府41県を制定した
これに合わせ天領であった奈良も県となったが  大名領地である藩の存在はまだそのままで
明治2年(1869)に 各藩が領地領民を朝廷に返上する 版籍奉還が行なわれ
その後明治4年(1871)天皇の廃藩置県の詔により全ての藩が消滅し3府302県となった
同年内に3府72県に統廃合され 明治9年さらに3府35県に統廃合された
この時点で奈良県は堺県に統合され消滅した  明治14年(1881)には堺県自体が大阪府に統合され
奈良は大阪府の管轄となり  明治20年(1887)の分県による復活まで 警察の管轄も
堺県・大阪府と遍歴を重ねていたのである
よって ここ櫟本の大阪府警察分署は 明治14年から明治20年の間存在したこととなる
なぜ奈良県が11年間ものあいだ存在せず 県民が不便を強いられたのかと言えば
永きに渡って幕府直轄地として存在し続け  永くその庇護を受けてきたことが裏目に出たと言える
ぬるま湯的な状況が続いたため 大和に有力な政治家が生まれなかったことや
幕末期に朝廷につくか幕府につくか 日和見的態度に終始し曖昧であったことが遠因と言われている
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石上(いそのかみ)町 アスファルトの下に石橋が残る 「従是東五町の石碑」
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道路拡張で集められた地蔵
田部(タベ)町 祝田神社参道
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祝田神社
田部町
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田部町の庚申堂で街道は右折
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田部町 蔵のガレージ
田部町 伊勢路道標

伊勢路道標 従是東笠山荒神江二里 左なら 右いせじ
日本第一荒神の元宮である笠山三宝荒神は 三千年の昔から笠山鷲峯山(じゅぶさん)に祀られている
峯谷(ぶこく)を御神体として 人々は入山することなく 山辺の道に散在する社寺の
三宝(仏・法・僧)を守る奥の院として 鎮火・竈神として信仰を集め栄えた
祭神は初めて火を起こし物を煮て食べる事を教えた土祖神(はにおやのかみ)
興津彦神・興津姫神の三柱で 日本三大荒神社を初め全ての荒神社の元宮となっている
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天理中大路手前 天理商店街アーケードが見える
丹波市 布留川北流の橋
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丹波市 造り酒屋と布留川本流に架かる石橋
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天理丹波市町 市座神社前の市場跡 一部残る木造アーケードと中央水路(現在は暗渠)
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丹波市の市座神社
青石橋と丹波市町道路元標

丹波市は かつての旧市街中心部で 明治31年(1899)に奈良鉄道が開通し丹波市駅が設置された
大正11年(1922)大阪電気軌道の天理駅が開業し 上本町−天理間の直通電車が走ることとなり
北の天理駅に繁栄を奪われた 昭和29年(1954)の町村合併により天理市が誕生し 
今では旧街道筋として昔の面影を色濃く残す 丹波市は かつて山辺郡の中心地で
古道の上ッ道に沿って発展した 古くは丹波と云い 中世末期に市が開かれ丹波市となった
古代の上ッ道は近世に入って上街道となり 京大坂から奈良を経て吉野伊勢方面に至る街道宿として
重要な役割を果たしていた 江戸初期幕府領であったが 元和5年(1619)から伊勢津藩領となり
領内の道路整備と宿場の保護に努めたため発展し その後 主に大和木綿の集積地として賑わい
急速に繁栄を遂げた 市座神社は市の守神蛭子社として祀られたもので丹波市の歴史を物語っている
青石橋の由来
「上街道の布留川南流に架せる橋にして大いなる青石を以てす 故にその名を得たり
蓋(ケダ)し石棺の蓋(*古墳の)である」とある
青石はその両側に添え石をつけて縦に掛けられていたが 明治40年前後に橋がかけかえられ
不要になった青石は 100mばかり南の市座神社境内に移された
青石には一方の端近くに 2つの穴がある 地元では「馬が踏みぬいた跡」などといういい伝えも残るが
おそらく運搬用の綱を通すための穴だろうと思われるが 面白いのはその穴のあけ方で
一方の口径が30cmもあるが裏側は10cmくらいで 円錐形に穴があけられている
こうした穴のあけ方は 古墳時代の石や玉によくみられるものだといわれる
ここより東700mに西山古墳と鑵子(かんず)古墳があるが それらの古墳から運出されたものかは
定かではない このような穴のあいた板石は 近くの民家にも庭石として残っているらしい

 天理市丹波市町・市座神社前の市場跡から 三昧田町まで南下した街道は方向を東に転じ
佐保庄町でまた南へと向きを変る JR巻向駅南側ではJR線路と国道の立体交差があり
そこを街道が通過するため痕跡は途絶えるが 駅南の踏切を越え迂回する道が
カラー舗装となっていて解りやすく迷うことはない この佐保庄からは古代上ッ道をほぼ踏襲しつつ
桜井市・三輪で国道169号線に合流する
地図上では合流地点からも 街道の痕跡は真っ直ぐ南下をしていると思われる痕跡が存在する
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兵庫町
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関地蔵
新泉町 大和神社
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柳本町 左・山辺の道長岳寺へ
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柳本町 県道51号交差点 長岳寺五智堂とおかげ灯籠
重要文化財 長岳寺五智堂

長岳寺の飛地境内に建つ方一間の小さい建物である 中央には太い心柱を立てた極めて珍しい構造で
俗に真面堂(まめん堂)とも呼ばれ 『大和名所図会』では傘塔と記されている
心柱はケヤキ材を用いた丸柱で その四方には受木を出し 梵字をきざんだ額を揚げている
額の梵字は 南に宝生如来北に不空成就如来 東に阿閤(あしゅく)如来 西に無量寿如来を表し
心柱を大日如来に見立てている 建立年代は明確ではないが 鎌倉時代末期と考えられ
長岳寺の伽藍から離れた街道沿いに建てている事にも重要な意義を持つものと思われるが
その意図は不明である 参詣人や街道の通行人の恰好の目印なり親しまれてきた
なお 大正七年に解体修理を受けている
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柳本町 造り酒屋・藤井酒店  軒に掲げられている杉玉は新酒を仕込む証
杉玉(すぎたま)は 別名で酒林(さかばやし)とも言う
奈良県桜井市の三輪の大神(おおみわ)神社に祀られる「大物主神」は蛇神でありながら
水神または雷神としての性格を持ち 古来より稲作豊穣・疫病除・醸造祖神として信仰を集める
故に 大神神社を「酒の神」として 多くの醸造元が11月14日の醸造安全祈願祭(酒まつり)に
参拝しこの日を醸造開始の日と定めている また神社のご神木が杉であることから
杉を束ね軒下に吊したのが杉玉の始まりとされている
今日では 単に酒屋の看板のように受け取られるが 酒の神に祈りを捧げるものである
軒先に緑の杉玉を吊すことで 新酒の醸造が始まったことを知らせ
吊るされたばかりの杉玉の蒼々とした色が やがて枯れて茶色がかってくる色の変化が
人々に新酒の熟成の具合を知らせる 意味合いもあると云われる
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柳本村道路元標
巻向村道路元標
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桜井市・辻町
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穴師大明神の鳥居 東へ約1.2km 穴師坐兵主神社
右・箸墓古墳

穴師坐兵主神社(あなせにいますひょうずじんじゃ)
JR巻向(まきむく)駅北の上街道に参道橋と鳥居 壊れた常夜灯がある この道を東へ辿ると
穴師坐兵主神社があり 摂社として相撲神社がある  垂仁天皇7年7月(紀元前23年)
野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が相撲をとった場所との伝説が残る
東の穴師山に上宮があるとの説がある
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箸墓古墳
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桜井市・芝
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桜井市・芝の町並みと 大神神社の御神体・三輪山
標高467.1mのなだらかな円錐形の山 三諸山(みもろやま)ともいう 縄文・弥生時代から
自然崇拝をする原始信仰の対象であり 神の鎮座する山 神奈備とされている
古墳時代には 山麓一帯に大きな古墳が次々と造営されたことから三輪王朝の存在が考えられている
太古より神宿る山として 山を御神体として仰ぎ 江戸時代には幕府により禁足の山として
厳しい政令が設けられ神社の山札がなければ入山できなかった
明治以降もこの伝統に基づき「入山者の心得」なるものが定められた
今はこの心得を遵守すれば誰でも入山できる 登山を希望する場合は
1.大神神社境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得 2.氏名を記入し 3.奉納金300円を納め
4.参拝証の白い襷を受け取り 5.御祓いを済ませる 山中では襷を外すことは禁止されている
距離は往復約4kmあり通常往復2時間程度で下山できるが
3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている
山中では 飲食・喫煙・写真撮影の一切が禁止され 下山後は山中で得た情報を第三者に話す事を
慎むことが望まれている 下山時限は午後4時で午後2時以降の入山は通常許可されない
多くの巨石遺構・祭祀遺跡も散在するが 原則として許可なく撮影はできない
さらに山内の一木一葉に至るまで神宿るものとし それに斧を入れることは許されておらず
山は松・杉・檜などの大樹に覆われ 神宿る山を体感することができる
入山することなく 山を参拝するには 大神神社の拝殿から三輪山を仰ぎ拝む
神社には神殿と本殿がなく 拝殿から御神体である三輪山を直接拝むことになっている
頂上付近は広く平で高宮神社が祀られ 延喜式神名帳には式内大社として神坐日向神社の名がある
古代には三輪山の頂上に祀られ 太陽祭祀に深く関わっていた神社であったと推測されている
神社東方の広場に高さ約2mの岩が多くこれが奥津磐座であり 山中で見学できる唯一の磐座である
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大神神社大鳥居
桜井市戒重の辻堂
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戒重八幡宮 横大路と上ッ古道の交差地
横大路(竹之内街道)東向き
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大和名所図絵 三輪神社の大欅 伊勢街道の目印
中ッ道と横大路が交差する三輪神社地蔵堂
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