2011.02.07 奈良上街道 奈良市三条通から天理市蔵之庄町まで

三条通興福寺下の奈良県里程元標は 柳生街道・暗越奈良街道・京街道の起点で上街道(伊勢街道)の
起点でもある 旧街道はJR万葉まほろば線(桜井線)の東側を南へと延びる
古道上ッ道の起点は その痕跡が比較的残る天理市佐保庄町から桜井市にかけての直線コースを
北へ延長していくと 現在奈良町と称される外京東南角五條大路と東七坊大路の交差地から
さらに東へずれ 新薬師寺の境内地西端・東紀寺三丁目交差点付近が上ッ道の起点となる
三条通りが北端となるアーケードのある「もちいどの通り」は  平城京の東端「東七坊大路」から
西1つ目の大路「東六坊大路」の跡となる また  観光地として有名な「奈良町」と呼ばれる地域は
現在世界遺産に登録されている元興寺境内に 筆・墨・蚊帳・晒・布団・刀剣・酒造・醤油醸造など
様々な問屋・製造業が起こり発展し 江戸期を代表する商工業都市として町が形成された
第二次世界大戦の空襲を免れ 戦後は奈良市旧市街地として栄えた
1990年に奈良市都市景観条例に基づく「奈良町都市景観形成地区」の指定を受け現在に至る
なお奈良町という行政地名はなく地区の通称で 餅飯殿・今御門商店街を中心とした地域を指し
その数40余りの町区域を総合して呼ばれる地区である
奈良市三条通から北横大路まで
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橋本町 主要地への里程が書かれた奈良県里程元標と御触書などが掲げられている高札場
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三条通「ライトカメラ」のウィンドウ
興福寺
「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録された 南円堂は西国三十三箇所第9番札所である
南都六宗のひとつ法相宗の大本山の寺院で 南都七大寺の一つに数えられる
南都六宗(奈良仏教):奈良時代に平城京を中心に栄えた 法相宗・倶舎宗・三論宗・華厳宗・成実宗・律宗
南都七大寺:興福寺・東大寺・西大寺・薬師寺・元興寺・大安寺・法隆寺(または唐招提寺)を指す

藤原氏の祖である藤原鎌足夫人の鏡大王(かがみのおおきみ)が 夫の病気平癒を願い
鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として 天智天皇8年(669)山背国山階(京都・山科)に創建した
山階寺(やましなでら)を起源とする 天武天皇元年(672)に山階寺は藤原京に遷り
地名の高市郡厩坂(うまやさか)をとり厩坂寺と称した 和銅3年(710)の平城遷都に際し
鎌足の子・不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に遷し「興福寺」と名付けた
その後も皇室や藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた
不比等没後は「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ 元来藤原氏の私寺である興福寺の造営は
国によって進められるようになる 平安時代には春日社も支配して 大和一国内荘園の大半を領有し
事実上の国主となった 比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称され強大な勢力を誇った
周辺には塔頭が多く建てられ 最盛期には百ヶ院以上を数え 中でも一乗院・大乗院は
皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えた
源平合戦の治承4年(1180)平重衡による南都焼討で 東大寺とともに大半の伽藍を焼失した
現存する興福寺の建物すべて以後のものであり 仏像・寺宝類も多数が焼失したため
現存するものは 鎌倉時代以降に制作されたものが多い
鎌倉・室町期では 大和武士や僧兵を傭する強大な寺社勢力に対し
幕府は大和国に守護を置くことさえできなかったが 戦国時代を経て織田・豊臣の中央政権に屈した
文禄4年(1595)の太閤検地では 春日社興福寺の知行を2万1千余石と定められた
江戸時代の享保2年(1717)に大火で罹災し 後は大規模な復興もなく 西金堂・講堂・南大門などは
再建されなかった 太閤検地以降2万1千余石の知行・朱印を与えられ保護されてきたが
明治元年(1868)の神仏分離令により全国的な廃仏毀釈の嵐が起き
春日社と神仏混淆の信仰が執られていた興福寺は直接的打撃を被った 子院は全て廃止・寺領は没収
僧侶は春日大社の神職とされ 境内の塀が全て取り払われ奈良公園の一部として樹木が植えられた
財政的破綻を承け廃寺同然となり仏像は破壊され薪となり 五重塔・三重塔さえ売却されようとした
辛うじて売却を免れたのは 解体費用が予想外の高額であったからと伝えられている
明治14年(1881)ようやく興福寺の再興が許可され 明治30年(1897)古社寺保存法の公布により
諸堂塔も修理が行われ徐々に寺観が整備されて現代に至っている
現在興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態は この廃仏毀釈のすさまじい傷跡なのである
それにさきがけ 興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主は奈良華族として還俗させられていた
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南円堂 弘仁4年(823)創建 寛政元年(1789)再建
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国宝・北圓堂 承元2年(1208)再建
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国宝・三重塔 鎌倉時代再建
采女神社の縁結びハート形絵馬

春日大社末社 祭神 釆女命
奈良時代 天皇の寵愛が薄れたことを嘆いた釆女(女官)が 猿沢の池に身を投げ自害した
この霊を慰めるため 祀られたのが釆女神社の起こりとされ 入水した池を見るのは忍びないと
一夜のうちに神殿が池に背を向けたと伝えられているが
江戸時代中期の『奈良坊目拙解』に池に背を向けている理由として
「元は興福寺別院の北東隅にあり祠は西向に立っていた」と書かれており 後に別院が在家の所有となり
入り口が塞がれたために 新たに東側を入り口として鳥居を建てたことが記されている
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南円堂の石段を下ればそのまま上街道である
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街道口の率川(いさがわ)に架かる石橋・嶋嘉橋
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架橋年月は橋脚に銘記され「明和七年庚寅年五月吉日」(西暦1770年)とある
橋より西に位置する椿井町嶋屋嘉兵衛が私財を投じて架設し 橋名は嶋屋嘉兵衛の名が由来
上流に築かれた船形の中州は 橋脚に当たる水圧を下げる目的で 水流を分けるために設けられた
明治の廃仏毀釈で川に捨てられた石像を中州に集め  船に乗る地蔵として信仰を集め現在に至る
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今御門商店街「上ツ道 伊勢街道」
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川中の船地蔵
今御門町 民宿野田屋前
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勝南院町(しょうなみちょう)の道祖神
勝南院町 住吉神社
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大和茶 田村青芳園前
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中院町 奈良町情報館
華厳宗元興寺(がんこうじ)東塔跡

元興寺
南都七大寺の一つ 奈良時代には東大寺・興福寺と並ぶ大寺院であったが 中世以降次第に衰退して
現代では元興寺と名乗る寺院は 西大寺末寺の中院町・真言律宗元興寺極楽坊と
東大寺末寺の芝新屋町・元興寺東塔跡地にある華厳宗元興寺の ふたつの寺に分かれている
別に元興寺起源の寺として西新屋町に所在する真言律宗の小塔院があるが 現在は江戸時代に建立された
虚空蔵堂があるだけである ただ元興寺極楽坊内に収蔵される国宝五重小塔を安置する堂がかつて在り
昭和40年(1965)国指定の史跡「元興寺小塔院跡」に指定されている
これらの寺院はいずれも 蘇我馬子が6世紀末の飛鳥時代に建立した日本最古の本格的寺院である
法興寺(現飛鳥寺)が起源とされる 法興寺は和銅3年(710)平城京遷都に伴い 養老2年(718)に
飛鳥から新都へ遷され元興寺となったが 法興寺も廃寺されず元の明日香に残り飛鳥寺となった
奈良時代の元興寺は三論宗と法相宗の道場として栄え 東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていた
寺域は南北4町(約440m)東西2町(約220m)と南北に細長く
猿沢の池南の現在奈良町と称される地区の大部分が境内であった
旅館猿沢荘のある池之町が北東端 鳴川町安養寺あたりが南西端にほぼ一致する
平安期後半から次第に衰退するが 奈良時代の寺宝・阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)が
平安末期における末法思想の流行や阿弥陀信仰の隆盛により信仰を集めるようになる
曼荼羅を祀る堂を「極楽坊」と呼び 別院として発展する これが現在の元興寺極楽坊である
宝徳3年(1451)の土一揆で放火され 五重塔を残し金堂など主要伽藍や智光曼荼羅原本は灰塵と化す
この大火を境に 智光曼荼羅写本を祀る極楽院・五重塔を中心とする元興寺観音堂および小塔院の
3ヶ所に分断され 極楽院は西大寺の末寺となって真言律宗寺院となり
中世以降は智光曼荼羅・弘法大師・聖徳太子などの民間信仰の寺院として栄えた
一方 元興寺観音堂は東大寺の末寺となり 五重塔を中心とする寺院であったが 火災で焼け残った
創建時の五重塔と観音堂は 江戸末期の安政6年(1859)に焼失した
以後元興寺の寺号は継ぐものの衰退は免れなかった
栄えていた極楽院も 明治以降は荒れ果て「化け物が出る」と言われたほどであったが
第二次世界大戦後は境内の整備や建物の修理を進めた 極楽院を「元興寺極楽坊」と改称
さらに「元興寺」と改め 平成22年(2010)8月には 禅室の一部に使用されている木材が
世界最古のものであることが確認され 582年伐採の樹木が使用されていることが事実とすれば
本建物の一部には法隆寺西院伽藍よりも古い材木が使用されていることになる 他に
本堂・禅室(国宝:僧房を鎌倉時代に改造) 東門(重要文化財:室町時代の東大寺門を移築)がある
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中新屋(なかのしんや)町 秤の藤原 携帯用竿秤など珍しいものが飾られている
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漢方薬 総本家菊岡
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奈良まちづくりセンター 奈良町物語館
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菊岡前 枡形街道 左は大和蚊帳の吉田蚊帳(株)
薬師堂町 御霊神社

御霊神社
古来より疫病も天災地変も朝廷にまつわる人々の死さえ全て悪霊怨霊の仕業とされ 怨霊を鎮めるため
各地に寺内社が建立された 奈良時代末期から平安時代初期の頃 藤原百川・吉備真備らが
相次いで亡くなり 桓武天皇の第一皇子である安殿親王(平城天皇)の発病
桓武天皇妃・藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の相次ぐ病死や疫病の流行・洪水などが続き
それらの原因が怨霊の祟りとされた 桓武天皇はこれら怨霊を鎮めるため
延暦19年(800)元興寺境内に御霊神社を造営し 共に非業の死を遂げた井上内親王・他戸親王
早良親王・藤原広嗣などを祀った その後 後世において政争などで非業の死を遂げた
文室宮田麻・伊豫親王・橘逸勢を合祀した 事代主命と藤原宮子は怨霊を抑える守り神とされている
薬師堂町の真ん中に社があり 今では怨霊とは関係なく縁結びの神様になっている
事代主命(恵比寿神)を除くと八柱の神が祀られており 八所御霊神と呼ばれ 昔は疫病が流行ると
上街道・中街道・下街道に神輿を据えて 疫病神が町内に入り込んで来るのを防いだ
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薬師堂町から東へ新薬師寺・白毫寺道
奈良町資料館軒下の特大身代わり猿

庚申堂掲示板 奈良町の伝説より 「三尸(さんし)の虫」退治
「悪病や災難を持ってくるという「三尸の虫」は コンニャクが嫌いだったので
人々は 庚申の日にコンニャクを喰べて退治した 「三尸の虫」は、もう一つ猿が大嫌いだった
猿が仲間と毛づくろいをしている姿は まるで三尸の虫を取って食べているような格好に見えたので
三尸の虫は恐れをなして逃げてしまったと言う そこで人々は
いつも家の軒先に猿を吊るして悪病や災難が近寄らないように おまじないをしているのです」とある

しかし 掲示板に書かれた説明は 本来の説とは少し違うようである
三尸(さんし)とは 道教に由来する人間の体内にいる虫で三虫(さんちゅう)ともいう
上尸・中尸・下尸で 上尸の虫は道士の姿 中尸の虫は獣の姿 下尸の虫は牛の頭に人の足の姿である
大きさはどれも二寸で人間が生れ落ちたときから体内にいるとされる
60日に一度めぐりくる庚申の日に眠ると三尸が体から抜け出し 天帝にその人間の罪悪を告げ
その人間の寿命を縮めるとされることから 庚申の夜は眠らずにすごすようになった
一人では夜を過ごすことは難しいことから 地域で庚申講とよばれる集まりをつくり
場を決めて集団で庚申待ち(眠らず庚申明けを待つこと)が行われるようになった
庚申待ちは平安貴族の間に始まり 近世に入っては近隣の庚申講の人々が集まって
夜通し酒宴を行うという風習が民間にも広まった
奈良町の家の軒先に赤いぬいぐるみがぶら下がっているのは 庚申とは関係なく 天の邪鬼が嫌いな
「身代り猿」(庚申様のお使い猿を象った魔除けの御守り)を 年中吊るしたのが始まりである
別に庚申の日には 三尸の虫が嫌いなコンニャクを食べて悪魔を退散させたりした

庚申信仰に関する風習風俗については諸説混沌としているが 中国道教の守庚申というのが
奈良時代末期に日本に伝わり 日本固有の信仰と混淆し発展したのではないかといわれている
仏教が極楽往生を説くのに対し 道教では現世御利益が叶えられるとあって
江戸時代には民間信仰として広まった 猿田彦神が出てくるのは 申=猿の連想によるもので
猿田彦神の代わりに青面金剛を祀ることもある 陀羅尼集経の青面金剛咒法に伝尸病を取り除く
効果があるとされ 伝尸と三尸が結びついたものである
青面金剛像の下には しばしば「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿が彫られている
これは三尸の虫に もし悪いことしているところを見ても「見ざる・聞かざる・言わざる」で
神様には報告しないでくださいとの願いが込められたものである
「上尸の虫は頭に住み目を悪くし皺を増やし髪を白くする」
「中尸の虫は腸に住み内臓を悪くして悪夢を見させる」
「下尸の虫は足に住み命を奪い精を悩ます」ということになっている
また三尸の虫が天に登る日が申の日になった背景には 天の神が帝釈天とみなされ
帝釈天のお使いが猿であるという要素もあるらしい ということで「身代り猿」については
正直なところよく解らない 単純に「災いが去る=猿」と云った説が本当かも知れない
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身代わり猿いっぱい庚申堂
ならまち格子の家
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ならまち格子の家二階
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ならまち格子の家
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芝新屋町(しばのしんやちょう)
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元興寺町 砂糖傳
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元興寺町 砂糖傳前
築地之内町(ツジノウチチョウ)扇湯煙突
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町屋の縁台
中辻町
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肘塚町椚神社と東六坊大路跡
推定・竜田越奈良街道追分 文字の読めない道標
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肘塚町 追分のおかげ灯籠
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JR万葉まほろば線(桜井線)京終駅 明治31年(1898)5月 奈良鉄道により開業
京終
北京終町を「ペキンオワリマチ」とか南京終町を「ナンキンオワリマチ」とか 中国台頭のあおりで
ついついそのように読んでしまいそうだが 正しくは京終=キョウバテと読む 日本難読地名の一つで
関西人でもよほど奈良に詳しくないと「キョウバテ」とは読めない
体が疲れ苦しいときの「バテる」と同意言葉である
「京終」の地名としての歴史は鎌倉時代以降と言われるが定かではない
位置からして平城京外京の南端 五條大路と東六坊大路の交差地であったと考えられているが
鎌倉期には平城京は耕作地と化し 荒れ果て何処が条理なのか判らないほどであったはずで
このことから「京終」とは 京街道を南下し京の外れ古都奈良を過ぎた辺りと言うことであろう
古都奈良は平安京に遷都後も 春日大社・東大寺・興福寺など朝廷ゆかりの神社仏閣があり
京の一部とされ「南都」と呼ばれていたのである
平安以降盛んになる長谷詣・伊勢詣・熊野詣のため平安貴族達は京街道を南下し
古都奈良(南都)の宿坊に投宿し寺社に詣でた後 大寺・大社・門跡寺院の建ち並ぶ南都を後に
いよいよ鄙びた地へと足を踏み入れるとき 京の風情もこれまでと名付けた地名が
「京終」であるとしても不思議ではない
このように平安貴族達の参詣旅を抜きにしては考えられないのではないだろうかと想像する
京終駅前の道を一条まで北へ延びる直線道路は 東六坊大路の跡である
この道路を中心として平安後期より次第に衰退していく元興寺境内に
東大寺・興福寺・春日大社の門前町が拓け 同時に長谷寺・伊勢・熊野詣の街道宿場町となって
人が集り商工業の盛んな町へと変貌していった これが現在の奈良町と呼ばれる地域である
この京終駅の一つ先は帯解駅 名前から想像されるように 最寄りの帯解寺は安産祈願の寺であり
近くには民間信仰をあつめた 帯解安産地蔵がある
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岩井川 岩井橋
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出屋敷町
今市町
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地蔵院川 地蔵院橋
帯解寺門前
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奈良市今市町 帯解寺(おびとけでら)
今市町にある 華厳宗子安山帯解寺 本尊は地蔵菩薩 安産祈願の寺として知られる
寺伝では 元は霊松庵といい空海の師・勤操大徳によって開かれた巌渕千坊の一つであったと伝わる
永らく嫡子に恵まれなかった第55代文徳天皇后・染殿后(藤原明子)が祈願したところ見事懐妊し
惟仁親王(後の清和天皇)が生まれた 天安2年(858)文徳天皇の勅願により伽藍が建立され
勅命により帯解寺と名乗るようになり 安産・子授け祈願の寺として信仰を集めるようになったとされる
平成天皇の皇后・美智子妃が懐妊の折 腹帯を献上したことで特に有名となった

帯解寺の南の柴屋町にも 同じく安産祈願の寺院がある 真言宗宝寿山龍象寺(りゅうぞうじ)である
同じく寺伝によれば 第45代聖武天皇の勅願所として天平2年(730)行基が創建
自ら彫刻の地蔵菩薩(藤原期の作)を安置し本尊とした 以来歴代皇族勅願所として また民衆の
安産子授けの帯解子安地蔵尊と尊崇されてきた 本堂天井には狩野春甫筆の「帯解龍」が描かれている
安産子授けの最古級の霊刹であり宮内庁腹帯献納所でもあるという
本尊の正式名が「帯解安産子安地蔵尊」という

はてさて二つの帯解子安地蔵尊 古刹としては龍象寺が128年古く 勅願寺証拠の土塀5本線もあり
軍配のあがる方だが 一般的に信者を多く集めるのは 帯解の地名を冠する帯解寺といえる
帯解の地名について
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大正11年の測図である 町名が帯解町 北に登坂の地名 帯解寺 帯解地蔵がある
*地名研究家・池田末則の説によれば 帯解という地名は 帯峠(おびとうげ)から転じたものであり
帯解の地形は 東から西にのびた帯状の大地になっていて 証拠として「登坂」という地名がある
帯峠は帯状の小さな峠を形作っているところから生まれた地名であろうとの説を唱えられている
郡山から円照寺へ向かう道は古くから台地の上にあり 上街道はそれに向かって
上り坂になっているのは確かである しかしながら一般的には 地蔵菩薩を祀る寺があり
妊娠時に巻く「腹帯を解く」意味から帯解を連想し 帯解寺の名が地名になったと信じられている
幕末時点で 帯解寺は添上郡今市村に 龍象寺は添上郡柴屋村にある
明治22年  窪ノ庄・池田・柴屋・山・田中・今市の6村が合併して帯解村となり
昭和2年(1927)に帯解町になった
昭和30年(1955)奈良市に編入 現在は今市町・柴屋町・山町に分かれ駅名に帯解が残る

その帯解寺が次のような文章と 証拠とされる古文書で言明するには
「当寺の約200m南に“おびとけ奥の院”と称する 正式には龍象寺という名の寺院がありますが
龍象寺は当寺の奥の院ではありません そして「皇室安産祈願所」と表示していますので
お間違えにならないようご注意ください 尚 龍象寺が「帯解」という二字の使用を禁止されたことを示す
江戸時代の文書が当寺には残されております この南都寺社奉行沙汰状には
龍象寺が“帯解奥の院”と詐称して 帯解寺の奥の院であるかのような表示をしたので
当時の南都寺社奉行より「帯解」の二字の使用を差し止めされたことが記されております
龍象寺住職と檀家総代が連名で 「帯解」の二字を今後一切使用しない旨を誓った一札文もあります」と
このようにホームページにのせている
一方龍象寺側は「帯解の奥の院というのは かつて広大寺池の近くにあった広大寺奥の院という意味で
帯解寺とは関係はない」と断言しているらしい 確かに西方に広大寺池があり
古くは聖徳太子が建立したと伝えられる広大寺が在ったと伝えられている

ことを“ヤヤコシク”した原因に政争と陰謀が影を落とす 承和9年(842)嵯峨上皇が崩御した際
橘逸勢(たちばなのはやなり)らは 皇太子恒貞(つねさだ)親王を即位させようと図ったが
結局企ては成らず 加担した藤原氏も入れて60余名が処罰された「承和の変」と呼ばれる政争である
定説では 藤原良房が自分の身内を次期天皇にと企んだ陰謀だったとされる
承和の変で皇太子恒貞親王が廃されると 藤原良房は甥の道康親王を推挙し立太子させ
嘉祥3年(850)仁明天皇の崩御に伴い即位し文徳天皇となった 皇太子時代に嫁がせていた
良房の娘・明子(あきらけいこ)には永く嫡男が生まれなかった 既に皇太子の寵愛をうけた
更衣の紀静子(きのしずこ)には 承和11年(844)第一皇子惟喬親王を出産していたが
明子は天皇即位の年に 漸く第四皇子惟仁親王(後の清和天皇)を出産し
藤原良房は慣習と天皇の強い要望を無視し 第一皇子をさしおいて第四皇子惟仁親王を立太子させる
(以下は想像の域を脱し得ない話しと ことわりを入れておく)
このことから窺えるように 皇后と女官である紀静子の「女の戦い」が階間見えてくる
なぜ明子は 皇族安産子授け勅願所の龍象寺ではなく 北の小院である霊松庵(後の帯解寺)で
先年より祈願していたかがそれとなく理解できよう 嫉妬と対抗心がそうさせたと容易に想像出来る
その後も天皇と良房の暗闘は続き 在位中には内裏の外れにある東宮や嵯峨上皇の離宮だった
冷然院などに居住して遂に一度も内裏正殿で居住生活を送ることはなかったという
詰まるところ別居生活を貫いたのである この暗闘の存在から帯解寺の伽藍は皇后とその背後にある
良房によって建立されたと見るのが妥当である <再度・想像の域を出ない話である>と断っておくが
これ程冷え切った夫婦関係にあって なぜ染殿妃明子に子供が授かったのか?
歴史家でも安易に語ることの出来ない暗部が隠されていると
テレビのワイドショーを見ているような普通の一般人なら当然想像してしまうが??
天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが 惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた
左大臣源信の諫言で取り止めとなる 天安2年(858)突然の病で文徳天皇が急死
通説では死因は脳卒中とされているが 藤原良房による暗殺説も少なからず存在する
天皇崩御に伴い わずか9歳の惟仁親王が後を継いで即位し 良房は人臣としては初の摂政となった
良房は妹の順子を仁明天皇に嫁がせ 生まれた道康親王を「承和の変」後皇太子にする
娘の明子をこの道康親王に嫁がせ 後親王は即位し文徳天皇となる
その子・惟仁親王を皇太子にし 文徳天皇(道康親王が即位)の崩御後
9歳と言う幼さで惟仁親王を即位させ清和天皇とし 後見として摂政となる
さらに良房は 清和天皇に養女(姪)高子を入内させ 生まれた貞明親王を皇太子とし
後に陽成天皇として即位させる このように遠大な謀略により 養子(甥)の基経とともに
藤原北家盤石の基礎を築いたのである
どうも反りが合わないらしい二つの帯解地蔵 そんなことに構わず民衆は今でも掛け持ち祈願をする
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山町 山村御殿道・五ヶ谷道追分石
寄り道 円照寺(山村御殿)非公開

臨済宗妙心寺派 普門山 圓照寺(えんしょうじ)
尼寺で 斑鳩の中宮寺・佐保路の法華寺と共に大和三門跡と呼ばれる門跡寺院である
華道「山村御流」の家元でもあり 別名「山村御殿」ともいう
寛永17年(1640)後水尾天皇の第1皇女・文智女王が出家し大通文智と称した
翌寛永18年京都修学院の地に圓照寺の起源となる草庵を結ぶが  明暦2年(1656)後水尾による
修学院離宮の造営により移転を余儀なくされ  継母である中宮東福門院(徳川秀忠の娘)の助力により
幕府から200石(後300石に加増)と金一千両の寄進を得て  大和国添上郡八嶋の地(八島町)に移り
八嶋御所と称した しかし  寛文9年(1669)八嶋近くの山村(奈良市山町)の現在地に再度移転した
立入りができるのは参道のみで 山門から先は非公開である
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龍象寺山門
龍象寺本堂
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龍象寺・帯解安産子安地蔵尊
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広大寺池
推古21年(613)聖徳太子が稗田の里に寄りし時 村人から稗飯を出された
なぜ稗飯なのかと問いただすと 村に水が無く稲が実らないと村人は言い 稗が常食だと嘆いた
太子は不憫に思い 舎人の秦河勝に命じ 菩提山川(ぼだいせんがわ)の水を引きいれる溜池を造らせ
西へ2km離れた稗田郷(稗田町・上三橋町・下三橋町)へ灌漑用の水を送った
また太子は この池の近くに広大寺を建立したと伝えられている
95haもある大きな溜め池で「日本書紀」に記される推古期の和珥池(わにいけ)に比定されている
聖徳太子が秦河勝(はたのかわかつ)に築造させたと伝わるが
他に 平安時代に弘法大師が村人を動員して築造したという説もある
広大寺池の守護神は龍神との言い伝えがあり 龍象寺本堂の天井には龍が描かれている
龍象とは仏教用語で大きな龍 徳の高い龍の意味で 龍象寺は広大寺池の龍神を寺名にしている
広大寺は 出土した古瓦から現・広大池のほぼ南側の隅に存在していたと推測されているが
現在は後世に行われた池の拡張により大半はあとかた無く消滅している 龍象寺はその北辺に存在する
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天理市蔵之庄町 高井病院交差点
寄り道 弘仁寺 山門
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高野山真言宗 虚空蔵山 弘仁寺(こうにんじ) 本堂 本尊は虚空蔵菩薩
奈良市虚空蔵町虚空蔵山の山腹にある寺院 通称「高樋の虚空蔵さん」と呼ばれる 弘仁5年(814)に
嵯峨天皇の勅願により 空海が創建したと伝えられる 空海が自ら彫った虚空蔵菩薩像を本尊として
安置したといい また或いは 小野篁(おののたかむら)を創建者とする説もある
元亀3年(1572)松永久秀の兵火により 伽藍の大部分が焼失 寛永6年(1629)に再興
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天理市蔵之庄町
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