2011.02.07 白毫寺道 上街道薬師堂町〜新薬師寺・白毫寺

薬師堂町の御霊神社から東へ道を辿れば 途中元興寺の子寺が集まる界隈を通り
新薬師寺を経て白毫寺に至る 今も古都奈良の郊外にあり 静寂漂う地域として人気がある
平城京域外となるこの地域は 伝説として陰陽師の始祖と言われた吉備真備や玄ムが暮らした処とされ
今でも陰陽町と通称呼ばれる 史実として陰陽道の創成は聖徳太子の時代6世紀まで遡るとされている
上街道薬師堂町から白毫寺まで寄道
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薬師堂町は 法徳寺・興善寺・十輪院・金躰寺・正覚寺・福智院など元興寺の子寺が集まる界隈である
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十輪院町 十輪院前
家紋入瓦を屋根に頂く旧家が並ぶ
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紀寺町 高円山に向かって なだらかな坂が続く
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今も現役 カマドの煙突
高畑町 閼伽井庵(あかいあん)

閼伽井庵
赤ん坊閼伽井庵と呼ばれている小さな浄土宗の寺 創建由緒などは不詳 楠木正成が納めたとされる
銅製の鎮宅霊符神があり 陰陽道とのかかわりが深く 古くから算盤による算易が行なわれている
閼伽井庵の南 奈良教育大学の敷地内には 伝承吉備真備の墓「吉備塚」がある
真備は賀茂氏の先祖とされるがあくまで伝説の域を出ない 賀茂氏は陰陽寮の役人を世襲し
京の上賀茂社・下賀茂社との関わりも深い 陰陽道創成と賀茂氏の祖は飛鳥時代以前まで遡り
渡来人との説もあり現在これも定かではない 「吉備塚」の近くに幸徳井という井戸がある
15世紀頃賀茂友幸が住んでいたとされ 幸徳井家と呼ばれる 幸徳井家は幕末まで代々陰陽寮の
役人を務め幕府公認の暦を作っていた 町名は幸徳井町−幸井町−幸町と変遷している

政変政争で無念の死を遂げた死者に対する恐怖は並大抵のものではなく ことごとく怨霊として
祟を恐れた 怨霊と化した霊を鎮めるため諡をつけ神として祀り上げ拝む 御霊信仰の始まりである
一方怨霊から身を護るため その怨霊と対話し調伏することを望み 陰陽師などによる祈祷がはじまる
陰陽師といえば安倍清明が有名であるが 実体は国の律令制の*陰陽寮に属した役人のことである
陰陽道を民間に広めたのは声聞師(しょうもんじ)であったといわれる
平安中期には 千秋萬歳(せんずまんざい)ができこれを専門とする人たちを声聞師といった
彼らは金鼓を打ち経文を唱え占いや曲舞などして物乞いをした門付芸人で
河原者という非人であったが 陰陽師配下となって保護され
秘術として管理されていた陰陽道の呪術・儀式を真似て庶民の間ににまで広げていった
室町時代には 経読み・下級陰陽師・千秋万歳・曲舞・傀儡師などの各種芸能に従事する者たちが
普通に声聞師と呼ばれるようになり 興福寺や大乗院門跡に支配されていた 興福寺に座が結成され
これに属する者は寺の権威によって他の雑芸者を支配した 能や歌舞伎といった民間芸能は
彼らによって創造され陰陽道と共に広まっていった 声聞師が民間の陰陽師として活躍する一方
宮廷では 賀茂(後の幸井)・安倍(土御門)両家が陰陽家として 朝廷禁裏及び鎌倉以降は
幕府にも仕えた 昔 高畑町や奈良町には陰陽師や声聞師が大勢住み 占いなどで生計を立てていた
*陰陽寮は 律令制において中務省に属する機関で卜占・天文・時間・暦編纂を担当する部署で
長官を陰陽頭といい 局員に陰陽道を司る陰陽師がいる さらに陰陽師養成のため陰陽博士
占星術の天文博士(安倍晴明は天文博士に任命されている)暦の編纂・暦作成の暦博士が設置され
その下で学生・得業生が学ぶ 漏刻博士は漏刻(水時計)を管理して時報を行う
明治3年(1870)に廃止されるまで営々と続けられた役所である
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高畑町 遊郭の跡か 以前は閼伽井(あかい)町と呼ばれていた界隈 格子戸門のある長屋
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高畑町 古都奈良を追い続けた写真家・入江泰吉記念館(写真美術館)
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新薬師寺境内 鏡神社
祭神は藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ 天平12年[740]没)
式家藤原宇合の嫡男であったが 聖武天皇時代朝廷において圧倒的な権力を誇っていた
藤原四兄弟が天平9年(737)相次いで天然痘で亡くなり 朝廷内で反藤原氏勢力が台頭した背景のもと
親族への誹謗を理由に天平10年(738)に九州太宰府に左遷される 広嗣は左遷を不服として
天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である右衛士督・吉備真備と僧正・玄ムに起因するとの
上奏文を朝廷に送るが 時の権力者左大臣・橘諸兄はこれを謀反として奏上
聖武天皇は広嗣の召喚の詔勅を出す  広嗣は詔勅の令に従わず 天平12年(740)弟・綱手ともに
筑紫の軍勢や隼人など1万余の兵力を率いて 吉備真備と玄ムを打倒すべく反乱を起こした
しかし大野東人を大将軍とする追討軍に追われ  ついに肥前国松浦郡で捕らえられて唐津で処刑されたた
しばらくして玄ムが失脚し九州大宰府の観世音寺に左遷させられることになった
伝説では「華々しい東大寺の落慶法要の真っ最中 玄ムは広嗣の怨霊に空中高く引き上げられ
地面に叩き伏せられたときは 体が木っ端微塵になった」と伝えられるが 史実は
藤原仲麻呂が朝廷内で勢力を持つようになり 天平17年(745)太宰府観世音寺別当に左遷され
翌 天平18年(746)太宰府で没した その後吉備真備が九州肥前に左遷させられた際
広嗣の霊をなだめるため唐津に鏡神社を造営した 九州唐津の鏡神社を分霊し
清水寺(福智院)境内に勧請したのが 玄ムの弟子報恩である
清水寺はその後荒廃し 鏡神社もいつしか現在地に遷ったといわれている
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白毫寺境内から興福寺 南円堂・五重塔・金堂再建工事覆屋根
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白毫寺境内から新薬師寺を俯瞰
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白毫寺山門
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白毫寺尾上町
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地蔵と若草山
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神明地蔵 明治の廃仏毀釈で集められた地蔵でしょうか
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紀寺町 十津川村役場奈良出張所
紀寺町 鎧地蔵堂

鎧地蔵大菩薩
馬に乗り鎧を着て鉾を持った石地蔵が祀られている 清水寺(福智院)伽藍古絵図に勝軍地蔵の祠が
境内の四隅に描かれている 勝軍地蔵は 坂上田村麻呂が蝦夷征伐で戦勝を祈ったのが始まりとされ
武運長久の地蔵である 先の大戦では旧笠屋町出征兵士からは戦死者が1人も出なかったと伝えられる
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