2009.03.07 新旧写真で辿る廃線跡 筑後吉井から日田豆田

筑後吉井
江戸時代は久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場町として栄えた 江戸時代中期初頭の元禄時代に
櫨蝋を得るため薩摩藩から始まった櫨の栽培は 亨保時代には肥後から肥前・筑後・筑前の各藩に伝わり
久留米藩においても享保15年(1730)に田主丸秋成の庄屋・竹下武兵衛が初めて櫨の木を植え始めた
寛保2年(1742)には御井郡の国分村や西久留米村での植栽が始められ 寛延2年(1749)家老有馬主膳が
薩摩から唐櫨苗1万本を買付 山北村大野原(現・浮羽郡三春)に植え付けた
櫨栽培は藩の重要な産業となり久留米藩内に「櫨方」を置き 非耕作地の空地・荒地での櫨栽培を奨励した
後に川堤や官道沿いにも櫨を植栽し樹木の手入れや実の収穫は農民に委ね三年ごとに検分して
収穫高の3分の1の櫨実代銀を上納させた 宝暦年間(1751-1764)に松山(現・森部)で自然変異した
「松山櫨」が発見され 最上品種と認められた後 筑後地方全域に広まった
また小郡においても天明年間(1781-1787)に 松山櫨をさらに品種改良した低木多実品種の
「伊吉櫨」が創成され九州から四国まで普及した 幕末には在郷町の吉井に製造者や蝋商人が集中し
筑後木蝋は生産高品質ともに国内第一位となった 幕末期には諸外国相手の密貿易も藩ぐるみで行われた
特に純度の高い高品質の櫨木蝋は「ジャパンワックス」と呼ばれ 医薬品から口紅・ポマードなどの
化粧品まで素材として欧米で重宝された 吉井の木蝋商家の利益金が膨大となり「吉井金」を生みだし
金融市場が形成された 嘉永元年(1848)イギリスで鉱物由来のパラフィンワックスの量産技術が確立され
1860年代に入るとアメリカの石油化学工業で大量生産されるようになり その後の品質安定によって
櫨木蝋の輸出は激減し 木蝋による吉井の繁栄は止まった
ただし「吉井金」による資金投資は続けられ 筑後軌道もこの「吉井金」によって成立したものである
吉井町の繁栄は 大正時代がそのピークで昭和の戦時体制と終戦後の農地改革などによって経済は衰退した

筑後軌道は下吉井に停車した後 巨勢川を渡って吉井町の中心街に入る 停留所のある札ノ辻は名の通り
豊後街道と朝倉と星野へ通じる街道との四つ辻で そこに高札場があり町の中心地でもあった
浮羽市隈ノ上から街道は直進して山裾を通り峠越えとなるため 軌道線路は勾配の無い北へと迂回する
後の国鉄九大線もほぼ同じように北へ迂回する事となった 現在の県道52号線と749号線が
保木までの線路跡と一致する 保木から石井までは筑後川に寄り添うように線路が敷設されたが
街道の幅員も狭く軌道線路は道路上ではなく新たに開削する必要があった
現在夜明ダムのある渓谷沿いのルートは崖を切り開く難工事で 石橋と隧道が築かれた区間でもある
廃線跡が色濃く残る地域なのだが 昭和28年の大洪水と夜明ダムの竣工で一部が喪われ
残る虹峠下の線路跡は ダムの貯水で通常は見えない しかし水面が下がると道床を支えた石垣が現れる
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大正5年頃・下吉井の転車台
巨瀬川を渡る筑後軌道蒸気機関車
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筑後吉井 札の辻
筑後吉井 上町
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筑後吉井 上町を走る蒸気
金物屋の宣伝ポスター
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浮羽上千足 左へ軌道 右へ筑後街道
浮羽東隈ノ上 軌道は左へカーブ
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松本停車場の辺り
高見交差点 軌道は右へカーブ
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筑後大石
保木停留所
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旧荒瀬の渡し場付近 現在の保木公園と久大線筑後川橋梁 手前に沈下橋
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荒瀬橋 保木駅開業後の大正4年に架橋
国道210号線下の旧国道 軌道は現国道南側
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旧国道の岸山隧道と田栄神社
田栄神社には私財を投じて袋野水道と袋野堰を築いた 田代弥衛門重栄・又佐衛門重仍父子が祀られている
旧街道の人馬道は神社の横を通り 岸川隧道は筑後軌道によって開削され 廃止後拡幅されて国道となった
江戸時代までの筑後古道は 袋野から虹峠に至る懸崖を避け浮羽の隈から小塩を経て高井岳南の宮馬場から
豊後国に入ったと思われる 筏場目鏡橋が架けられ虹峠を越え岸山まで人馬道が通じたのは江戸末期である
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関大橋下を袋野へ 右の畑が軌道跡(?)
袋野停留所跡
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袋野集落 右へカーブして集落内を抜ける
この先は昭和29年竣工の夜明ダムで水没
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昭和23年(1948)3月30日 米軍による空中撮影写真
1.久大本線 2.国道386号線(南に筑後川) 3.筑後軌道袋野駅跡 4.国道210号線 5.虹峠旧道 6.袋野堰
2017年夏の豪雨災害復旧工事のため夜明ダムの貯水を全て放流され 63年ぶりにかつての川底が露出した
ダム竣工後初めてのことで 筑後軌道跡の道床石垣も全体が現れた
手前に築かれた水路は旧袋野堰の「舟通し」とされたが幅も狭く 筏師の記憶によれば筏や舟は右岸側を
通航したとされることから魚道ではないかと思われるが定かではない
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水位が下がり姿を見せた軌道跡の護岸壁
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虹峠洞門と虹峠停留所跡・袋野隧道跡
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橋台跡
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筑後軌道の袋野隧道跡と袋野堰跡
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袋野隧道
現状の水没した袋野隧道
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 梅雨時期に大雨が予想される前は 予め放水してダムの水位を下げる時がある
虹峠駅付近 現在の国道の洞門下にあるのは旧道と旧道から筑後軌道・虹峠乗降場への道跡
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2010.07.14 撮影 水位低下で現れた道床の石垣
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長谷停留所跡 橋はS46年竣工夜明大橋
大正大水害で被害を受けた長谷停留所
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水害で立ち往生した蒸気機関車
長谷を過ぎて少し行くと山手にある軌道跡
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逆谷橋停留所跡
逆谷橋西側橋台
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逆谷橋
鬱蒼とした林の中 堂々とした佇まいの石橋
左岸から上部に出ることが可能
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工事中の逆谷橋 大正3年(1914)竣工
逆谷橋東側橋台
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加々鶴隧道手前の軌道
加々鶴隧道 久留米側 歩道は旧街道
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工事中の加々鶴隧道 久留米側
工事中の加々鶴隧道 日田側
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加々鶴隧道・久留米側
加々鶴隧道・日田側 開通記念列車
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歩道トンネルの外に古いガードレール
それより古いガードロープ用石柱
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換気用トンネル(東)煉瓦アーチ
換気用トンネル(西)素掘り
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加々鶴隧道久留米側出口の宗像神社
記念石の由来記:本神社改築記念碑の石は明治大正年代の県道(現・210号線)に活躍したローラーで
記念保存の目的を以って永久に茲に安置するものです
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白手橋 下流側から
下流側間近に白手橋
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白手橋の蒸気 橋にフェンスがあり道路兼用橋
石井 国道は右へ軌道は真っ直ぐ
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現在の三隈橋(撤去)西側に新しい橋が工事中
三隈川鉄橋 道路転用後S28大水害で橋脚ごと流失
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大正大水害の鉄橋 この時 橋脚は無事
橋を渡り軌道跡は右へカーブ
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国道下の軌道道
亀山公園近く 軌道は真っ直ぐ住宅内へ
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真っ直ぐ民家の裏を行く軌道跡
ブロック塀の横 石が並ぶ軌道跡
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発掘調査記録
庄手川木橋の跡 新しい橋を建設中
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庄手川木橋と丸太の筏
日田隈駅 鶏がいて牧歌的風景

日隈城の隈町と永山城の豆田町 日田にはふたつの城下町がある
日田には巻頭詞のように「天領」という文字が付いてまわるが 明治初年の旧高旧領取調帳によれば
日田郡2町91村のうち幕府領は2町54村で 残り37村は豊後森藩領で同藩領地47村の大半は日田郡にあった
天領の2町とは隈町と豆田町のことである 豊臣秀吉九州平定後の文禄2年(1593)に大友氏が改易され
日田郡は秀吉の蔵入地となった 宮木豊盛が代官として赴任 日隈山(亀山公園)に城を築き
隈町を城下とした 後に毛利高政が着任し日田郡2万石および玖珠郡を領地とした
関ヶ原の戦い後 日田郡は黒田藩の預かりとなり 家臣の栗山善助が城代として日隈城に入った
翌慶長6年(1601)日田郡は 日田藩領・森藩領・佐伯藩預かり地に3分割された
日田藩には小川光氏が入封し北の月隈山(月隈公園)に丸山城を築き日田郡北部・玖珠郡・速見郡の
約2万石を領地とした 森藩は日田郡20ヶ村の3802石 佐伯藩預かり地は隈町を中心とする日田南部
及び玖珠郡の計2万7953石であった 元和2年(1616)には 小川氏に代わり石川忠総が丸山城に入封し
森藩領を除く日田郡6万石の領主となった 後に城を永山城と改め城下町を南側の花月川を隔てた地に移し
二筋の道を敷いて豆田町とした 寛永10年(1633)石川氏が下総佐倉藩に移封 領地は再び分割されて
森藩領を除く日田北部は中津藩領に 南部は杵築藩の預かり地となった
寛永16年(1639)日田郡は森藩領と江戸幕府直轄領(天領)に2分割され
丸山城を廃して麓に陣屋(永山布政所)を置いた 天和2年(1682)松平直矩が国替えで日田へ移封され
再び日田藩が立藩されたが わずか4年後の貞享3年(1686)に出羽山形藩へ転封された
それ以降 明治維新までの182年間 日田は天領であった
明和4年(1767)には 日田代官が西国郡代に格上げされ 日田は九州の天領を統括する拠点として
豊前・豊後・日向・筑前の天領12万石を支配することとなった 江戸時代末期には石高が16万石まで増え
日田では掛屋と呼ばれる御用商人が大名貸しの金融業などで繁栄し 掛屋を中心に町人文化も栄えたが
明治維新以降は幕府から得ていた利益は消滅し 農林産業が主体となり町の経済規模は大幅に縮小された
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大正12年の日田町付近の詳図
北側に豆田町 南に隈町 中央に学校郵便局・役場・図書館・病院・公会堂などの都市機能を配置
隈町
文禄3年(1594)に築かれた日隈城の城下町として形成され 現在の町割りの原型は慶長元年(1596)に
毛利高政によって行われた 当時は現在の中本町・隈1・2丁目を 二重の堀と土塁で囲み
要所に木戸門を設けて朝夕に開閉されていたが 安永7年(1778)の大火以降に土塁などは除去された
江戸時代には商人町として賑わいを見せ 三隈川河畔では 天和年間頃(1682-)から杉丸太の
筏流しが始まり木材関係の商家が軒を連ねていた 幕末には仲介商や掛屋を営む豪商も現れたが
18世紀後期から吉井や田主丸等の在郷町が成長するにつれ衰退し 文化・文政・寛政の頃は不況が続いた
その上 安永・文化・文政としばしば大火に遭い疲弊した 明治22年(1889)4月の町村制の施行により
隈町・庄手村・竹田村が合併して新たな日田郡隈町が発足 明治34年(1901)9月には
豆田町と合併して日田郡日田町が発足した 隈町三隈川沿岸の温泉旅館街は1960年頃に形成された
筑後軌道日田隈駅周辺 隈駅は敷地面積が1万平方メートルあり筑後軌道最大の規模であった
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日田隈駅跡 道路工事で様変わり
豆田駅まで一直線の軌道道(きどんみち)
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国道212号線本庄町西交差点 嘗ては福岡岩田屋の支店が最初にでき 日田で一番の賑わいを見せていた
筑後軌道日田豆田駅周辺 駅は元掛屋・草野本家の裏側にあり敷地面積が5千平方メートルあった
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日田豆田駅入り口 正面草野本家
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豆田駅と蒸気機関車
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日田豆田駅
豆田駅跡南東角
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豆田駅跡北東角にあるナガタ電気工事店で 2011年7月12日 転車台遺構(赤矢印)が見つかった
遺構は転車台の軸の部分で 直径約 2.4mこの上に鉄製の円盤・木の桁・線路などがあり 人力で回して
機関車を方向転換させた 周囲の土の色の違いなどから転車台全体は直径3.6m程度だったとみられる
1989年に発見された後埋戻し保存していたものである 転車台の発見は私鉄では全国初と思われる
写真は広報「ひた」より転載した
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