日本一のナロー軌道鉄道 筑後軌道 (ちくごきどう)

日田市教育委員会発行 日田文化27号より抜粋(一部修正)
国鉄久大線が全通したのは昭和9年11月15日である それ以前日田と久留米方面を結ぶ交通機関に
筑後軌道という軽便鉄道があった 大正時代の後半から昭和初年にかけて日田にとっては欠くことのできない
重要な交通機関であった  しかし久大線の全通によって廃止され 今では当時の面影を残すものもほとんどなくなり
市民の記憶からも消え去ろうとしている わずかに残された資料や古老の記憶をもとにその歴史をたどってみよう
● 筑後軌道株式会社 本社:福岡県浮羽郡吉井町  日田営業所:日田郡日田町  久留米営業所:久留米市東町
● 沿 革
明治36年(1903)10月
資本金 17万円で筑後馬車鉄道として設立 下吉井〜下田主丸間開業
15人乗りの客車を馬にひかせて1日に13往復した  軌間は914mmである
明治37年(1904)02月
下田主丸〜善導寺間開業
明治37年(1904)07月
善導寺〜東久留米(国道)間開業
明治37年(1904)08月
大阪難波の福岡鉄工所製 石油発動機関車10両導入
明治38年(1905)12月
東久留米(国道)〜縄手間開業
明治39年(1906)02月
全ての馬匹を石油発動機関車に切替える
明治39年(1906)12月
縄手〜九州鉄道久留米駅間開業
明治40年(1907)07月
筑後軌道に改称 石油発動機関車保有台数47両
明治42年(1909)01月
国道〜国分間支線開業
明治42年(1909)03月
縄手〜豆津間 縄手〜瀬ノ下間支線開業
明治43年(1910)05月
吉井町〜浮羽村下千足間開業 6月・縄手〜豆津間休止
明治44年(1911)04月
下千足〜保木間開業  蒸気機関車4両導入
大正01年(1912)12月
縄手〜久留米駅間貨物支線開業
大正02年(1913)05月
国分〜千本杉間開業 保木〜長渓(長谷)間開業
大正02年(1913)10月
樺目〜草野間支線開業
大正03年(1914)10月
長渓(長谷)〜石井間開業 営業距離数49.18km

● この年の運転・運輸表によれば
  旅客<貨車>部門を合わせ 延べ使用車両数:10480両<18869両>、運転回数:52295回<30485回>
  走行総哩数:760982哩(1224682km)<338481哩(544732km)>
  乗車人員:1915081人 取り扱い貨物頓数:43970t 一日平均の運転回数客貨合計:236.5回
  運行距離数は 客貨合計:5114kmで非電化軌道中抜群の走行距離回数を誇る

大正05年(1916)05月
石井〜豆田間開業し全通 資本金 100万円に増資
所有車両 客車35両・蒸気機関車19両・石油発動気動車34両を有す
大正08年(1919)03月
千本杉駅以西の本線及支線を電化 北島−御井町間廃止
大正11年(1922)
資本金 250万円に増資
所有車両 客車32両・貨車114両・蒸気機関車23両・石油発動気動車12両を有す
大正13年(1924)09月
国分−北島間廃止
昭和02年(1927)09月
筑後軌道株式会社の軌道部は解散し自動車部が発足 吉井−日田間のバス運行がはじまる
昭和03年(1928)12月
国鉄久大線・久留米〜吉井間開通
昭和04年(1929)03月
筑後軌道全線廃止(3月24日)
昭和09年(1934)
久大線の全通と筑後軌道バス部門の国鉄買収譲渡により筑後軌道株式会社解散

日田駅開業当時の営業案内によると
「幹線は院線久留米駅より大分県日田郡日田町に達する軌道にして、この間新式ボギー車を以て双方より
40分間毎に運転す。日田は筑後川上流山紫水明の幽境にして、
此處より陸路六里にして耶馬渓鉄道に接続す。」
とある
資本金150万円 営業総哩:34哩71鎖(約56.1km) 車両数 機関車25台 客車35台 貨車103台
営業距離数は軽便ナロー鉄道では日本一であった
また 久留米―日田間の他に 支線として草野線(田主丸〜草野)もあった
これらのことからわかるように 筑後軌道は年々その規模を拡大していった さきに資本金について記したが
当時としては莫大な金額であった ちなみに機関車1台が5千円くらいで買えた時代だったという
さらに会社の規模拡大の計画としては 筑後軌道と川を隔てて向い側の筑後川右岸にあった朝倉軌道へ
吉井から支線引き筑後川を越えて両軌道を継ぐという計画もあり 一部では土地の買収も実施されたが
国鉄久大線の開業によってこの計画は実現するに至らなかった また 久留米〜日田間全線の電化計画もあった
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筑後軌道と日田
筑後軌道と日田との直接のつながりは約15年の短い間ではあったが
両者の関係は深く当時の人達にとっては 忘れがたい大事な交通機関であった
全長44km(別の信頼できるデータでは最盛期の総延長は51.5km 本線・久留米〜日田間:46.0km
支線・豆津線:1.0km 御井町線:3.7km 草野線:1.8km)あり その内 日田市内は約10kmであった
全駅数は25駅あり 豆田・隈・石井・発電所前・長溪(ながたに)の5つの駅があった
このほかに乗降場とよばれる停留所が6ヶ所あった  それは 三本松・日の隈・徳瀬・白手橋・川下・加々鶴で
(駅名及び乗降場については当時の筑後軌道の沿線案内図とは異なる)
日の隈の乗降場はお宮(日の隈天満社)の東側にあり 徳瀬は現・三隈中学校の前にあった
市内の駅の中でも豆田駅と隈駅は規模が大きく 豆田駅(推定地図)は 現在の港町貞清製材所付近で
敷地面積は約1500坪(約5千平方m)あった 停車場・待合室・機関車の方向変換機などがあった
隈駅(推定地図)は現在の亀山町の位置にあって 敷地面積は約3000坪(1万平方m)もあった
停車場・待合室・倉庫・貨物置場等があり 各種産物の積出貨物主要駅として筑後軌道の沿線各駅のうち
最大規模を誇った 通常の 列車編成は 客車が2〜3両に貨車を数両連結というのが普通であり
木材の町・日田を象徴するように貨車の積み荷は木材が多かった 客車の座席は向い合わせのロングシートで
クッションつきのものだったが 乗り心地は余り上等とは言えなかったようである

市内には198間(約360m)の加々鶴トンネル 650尺(約195m)の石井鉄橋及び 336尺(約100m)の
木造の庄手川橋があった 加々鶴トンネルは拡張され現在でも国道210号線の自動車道に転用使用されている
また 石井の鉄橋は昭和28年の大洪水の際流失し 架け替えられ三隈道路橋となったが
今は更に新しいRC造の橋となった(軌道の鉄橋の橋脚の一部が現在も川の中にその姿を止めている)

一日の列車本数は26本で 姶発列車は豆田駅を午前3時35分に出て 久留米駅に午前7時に着いていた
現在では日田〜久留米間は久大線の急行列車で約50分 普通で1時間40分である なので今から考えると
随分のんびりしたものであったように考えられるが 当時としては唯一の交通機関であり
最も速い乗り物として 地域の住民から親しまれ 重宝がられていた
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太郎良松美著 夜明け関町の沿革あれこれより
関町の行徳家で頂いた手記です(駅名等は校正編集)
大正から昭和6年頃のこと 日田町−夜明−杷木町にかけてバスの運行は全くなく
無論のこと家庭に自家用白動車などなかった時代 この昭和初め頃まで 日田と久留米間を筑後軌道という
小さい汽車の乗り物が 川向うの線路上を煙りを吐いて走っていた
軌道の線路は今の日田市丸の内町(日田豆田駅)を始発駅(終着駅)として「三本松乗降場」を通り
寿屋(現・ダイレックス)の東側の道を通り 亀山町の果物野菜のせり市場があった所の「隈駅」
「徳瀬駅」から石井の鉄橋を渡り「石井駅」 白手橋の手前の「白手橋駅」(発電所前)
長い加々鶴トンネルを通ってその出口の「加々鶴駅」(逆谷橋駅) 長渓に店がある所の「長渓駅」
(長渓駅の手前に川下駅があった)この長渓駅は線路が二つに分かれ 離合ができた
この為に一方の列車が来るまで他の列車は待たねばならなかった 次は杷木山の対岸にあった「虹峠駅」
駅近くに短いトンネルがあって少し坂になっていた この坂のことは後で述べるとしよう 「虹峠駅」の次は
「袋野駅」で袋野トンネル(岸山隧道)を通って保木公園入り口の「保木駅」「保木駅」と「大石駅」との間
荒瀬の近くに「原ノ町駅」(はるのまちえき)があった(この駅は記憶に自信がない)
「虹峠駅」の駅と線路跡は夜明けダムにより水面すれすれになっている
大鶴や夜明方面の人達が筑後軌道を利用するには 川崎と長渓との間を渡し舟で往復して「長渓駅」で
乗り降りしなければならなかった 関村の人が 日田を往復するには 杷木山の渡し舟に乗せてもらった
関と杷木山との間は勿論徒歩であった 関浜の人達は「保木駅」の方が便利であった
また吉井・久留米方面(東京・大阪方面)を往復するには 荒瀬の渡し舟で対岸に渡り「原ノ町駅」で乗り降りした

大正時代の終り私は夜明小学校の高学年であった 何年頃であったか憶えてはいないし
その時友人と一緒だったかも記憶がないが 夜明より帰宅の道中は長く 杷木山を過ぎた所に来た時
対岸で「カラカラ」と異様な高い音がした 見ると「袋野駅」に向かっていた 客車1両と杉丸太を満載した
貨物1両を引く軌道の機関車が力不足のため 坂で車輪が空転して立往生していた
見ているとバックしてまた「長渓駅」の方に引き返して行った 足を止めて見ていると
すぐに機関車は真黒い煙りを 音をたてながら吐きつつ「長渓駅」から走って来て「袋野駅」の方へ消えた
今日でもその音が耳に残って 耳の奥で音を立てているような気がする
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