路線と停留所

大正5年(1916)5月10日の久留米−豆田間全通後は 資本金の増資を図り非力な石油発動機関車に代えて
雨宮製の蒸気機関車を19両に増やしたが なおも県境の虹峠越えには乗客が後押しするほどであった
また久留米市街地では 石炭燃料・石油燃料の排煙騒音問題や また停留所の数が多く
加速度の悪い蒸気機関・石油発動機関車より利便な電車への転換が図られ 千本松以西の路線が電化された
そのため久留米における軌道が敷かれていた道の呼称も「馬鉄通り」から「電車通り」へと変化した
大正15年(1926)5月に 帝国陸軍第18師団歩兵第48連隊及び歩兵第56連隊の国分駐屯地に
陸軍戦車第1大隊が創設された その創設計画の段階で国分線の国分−御井町間が廃止され
国分線が国道から国分間へと短縮され 御井線が千本松から高良大社の大鳥居がある御井町までとなった
昭和3年(1928)に鉄道省によって久留米−筑後吉井駅間に久大線が敷設されたため
国からの補償金 4,806,800円を受け廃線となり 翌年に筑後軌道株式会社は解散となった
その後久大線は 地質調査によって将来崩落の可能性がある筑後軌道の岸山隧道を避け
保木の手前で筑後川に鉄橋を架け渡り 筑後川の右岸側を通るルートに変更された
昭和6年7月に筑後大石まで 昭和7年3月に夜明駅まで延伸開業
昭和9年3月には 日田まで延伸開業し 同年11月には天ケ瀬まで線路を伸ばし
大分から天ヶ瀬まで西進してきた大湯線と繋がり これを編入して久留米−大分駅間が全通した
筑後軌道の解散で同軌道線の貨物部門であった筑軌運輸株式会社は独立し 日田駅以西の久大線各駅の
指定運送取扱の免許を順次取得し業域を広げると同時に トラックの導入を図り運搬手段の近代化に努め
昭和14年(1939)に西久大運送(現・西久大運輸倉庫)という貨物運送会社となった
一方 筑後軌道の旅客自動車事業を引き継ぐ形で 昭和3年(1928)10月に久留米以東を営業区域として
連絡自動車株式会社が設立された 昭和13年(1938)11月には久留米自動車を吸収合併したが
昭和14年(1939)11月に九州鉄道株式会社に吸収合併されたが
昭和17年(1942)戦時下の陸上交通事業調整法に対応するため 九州電気軌道・福博電車・九州鉄道
博多湾鉄道汽船・筑前参宮鉄道の5社が合併して西日本鉄道が発足し現在に至る
これらの経緯から 筑後軌道が設けた停留所の大半は 現在も西鉄バスの停留所に引き継がれている
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大正5年(1916)久留米−日田豆田間全通時の筑後軌道線路図
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昭和3年(1928)の沿線案内絵図
久大線は久留米−吉井間が開通し延伸予定線路は当初の予定通り筑後川左岸に破線で描かれている
久留米には「十二師団(司令部)」と「戦車隊」が描かれ 福岡−二日市−小郡−国道まで急行電車が走り
国分−御井町間が廃線となっているほか 日田から耶馬渓まで乗合い自動車が走っていたこともうかがえる
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大正9年7月5日印刷「久留米市街図」大阪市心斎橋北詰・発行所 駸々堂旅行案内部
九州鉄道本線(国鉄・鹿児島本線)の他 筑後電鉄(筑後軌道) 大川軽便鉄道(縄手−若津)
大正3年(1914)12月に竣工した日本製粉久留米工場への引込線
三井電気軌道(宮ノ陣−八女福島)が描かれている 筑後軌道の国分線は未だ分断されていない
地図の詳細は福岡県立図書館の公式サイト https://www2.lib.pref.fukuoka.jp/
ふくおか資料室/デジタルライブラリ/地図からみる/久留米市で閲覧可能
駅及び停留所は大正5年5月10日訂正資料による
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大正3年の初代・豆津橋 みやき町側から撮影
久留米市・電車通り 現在の国道264号線
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千本杉の蒸気機関車 千本松以東は非電化区間
久留米市内 電化前の石油発動機関車
筑後軌道草野線の眺望
『鹿毛家文書』鹿毛亀之助日記(抜) (昭和九年頃)
筑後軌道時代の草野線の眺望を書きて見やう。 勿体島曽根を通り過ぎた筑軌は蒸気機関車とは云へ、
軌條間僅か3呎(フィート)の小さい交通機関であった。 久留米樺目間に約1時間を要した。
その時と、 現代の久大線は最初は40分間を要せしに大分まで全通の往来24分間を時間短縮された。
それに比べるとお話にならぬ。然し時代が時代だ。
善導寺駅を発せし筑軌列車は勿体島の曽根を越せば下り勾配である。
北に島部落を眺め南に遠く吉木部落を眺むその頃は吉木の上の山の中腹は禿げてはゐなかった。
樺目に停留所があった。 此処に下車すると三十間余り東方に草野行きの石油発動機の列車と云はうか、
一つの小さい箱を引いたのが停車してゐる。 草野線の開通は大正2年(1913)10月5日で、
廃止が昭和3年(1928)12月23日の正午限りなり。 その間十五年の年月が経てゐる。
草野行はもうでますといふて、 三四分は待たせられることがある。 漫々的として走る箱車はお茶の子である。
樺目部落を過ぎると田圃の中の一軒家の西側を通る。 ポンポンと悠長な列車はものの四五分せし頃
矢作停車場にて東へ曲折る。 矢作部落行きは此処にて下車す。 これより急坂である。
小さき木のガードを過ぐればもう全馬力をかけてもやっとくらゐしか登れない。
鹿毛塚曽根にて下る人もある。 これが私鉄の便利である。 内しよ内しよである。
列車がやっとことに天神町にて停車す。 大抵は町の人殊に下町部落及塚原夫婦木の方面へには此処にて下車す。
私は終点まで乗る。 町裏はまだ坂であった。 馬力の弱くなった頃にはもう終点である。
柳屋の密柑畑や裏門、 和田屋の樫、火の見台と過ぎゆく。 停車場には製材所のしごとがあってゐる。
材木は四隣に堆く積まれてゐる。 不平の人もあった。
下車すればもう南方に桜の並樹が林立してゐた。 西側に。 これは草野線開通記念のためであった。
下車すれば直ぐに乗る人が待合せてゐた。 もう発車した。 下りは勾配を利用して石油は焚くことはなかった。
しかし矢作曽根を折れて下ると最前の一軒家のあたりの頃、 よく久留米行きの列車の西へ走るのを見たとき
直ちに白旗を振って樺目発車を見合せてゐたこともあった。
しかし該線は日頃は空車が多くあった。 花の四月頃のみは石油発動機の代りに蒸気機関であった。
「草野よいとこ  地の利よい  電話もあれば  汽車もある」
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草野 天神町 筑後軌道草野線々路跡
草野駅跡 左へ待避線分岐・転車台
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